第11話 疑われる瑞姫、砕かれた悪意
クラスに満ちていた球技大会の熱気は、女子更衣室で発見された『異様な事件』によって、一瞬にして凍りついた。
無惨に切り裂かれた七条芹愛の制服のスカート。それは単なるイタズラの域を超え、特定の個人に向けられた悪意の暴力そのものだった。
事件の衝撃が尾を引く中、クラスメイトたちは重苦しい静寂と、ざわめく猜疑心の渦に包まれていた。
放課後の静まり返った1年Cクラスの教室。
窓の外から茜色の夕日が差し込む中、空調の音だけが、やけにうるさく耳に響く。
「誰なんだよ! こんな卑劣な真似をしたのは! 本人が名乗り出てこないなら、徹底的に調べてやるからな!」
教壇の前に立ち、正義感をこれでもかと色濃く滲ませながら声を張り上げたのは、常磐弓弦だった。
端正な顔立ちを険しく歪めて憤る彼の様子は、周囲の生徒たちの恐怖心を煽るには十分だった。
彼はクラスのリーダー気取りで、この異常事態を自らの手で解決してやろうと息巻いている。
だが、その正義感の裏には、学園のマドンナである七条に対する独占欲や、周囲から頼られたいという承認欲求が透けて見え、どこか白々しさを感じさせた。
以前はただいい奴だとばかり思っていたが、最近、思い込みで行動し、相手を困らせたりする面倒くさい面もあると知り、少しばかり彼への評価を改めている。
「そうだよね、こんなの許されないって……」
「犯人、同じクラスの奴なのかな……怖すぎるでしょ」
教室内でひそひそと交わされるクラスメイトたちのざわめき。
誰もが疑心暗鬼になり、親しい人間さえも犯人ではないかと疑うような、ドス黒い空気が教室全体を重く覆っていた。
その緊迫した空気のなか、怯えたような声を上げたのは、クラスの端にいた女子生徒──上原だった。
「わ、私……見たんだよね」
上原の震える声に、教室中の視線が一斉に彼女へと集中した。
上原はごくりと喉を鳴らし、怯えた目を泳がせながら、恐る恐る言葉を続ける。
「球技大会の片付けが始まる少し前……私、更衣室の近くを通ったの。その時、七条瑞姫さんが、カッターナイフを持って、更衣室から出てくるところを見たの……!」
その証言を聞いた瞬間、教室の空気がパキリと音を立てて凍りついた。
「え……?」
「嘘だろ……? 瑞姫が……?」
「だって、あの二人……」
クラスメイトたちの視線が、一斉に教室の片隅へと向けられた。
そこには、いつも通り孤高を貫き、冷ややかなオーラを纏っていた七条瑞姫が座っていた。
「……は?」
瑞姫は、自分に無数の疑いの目を向けられ、信じられないものを見るような表情で固まっていた。
そして、血の気が引いたように顔を真っ青に染め上げ、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
「ふざけんじゃないわよ……っ!」
瑞姫の尖った声が、教室の天井に反響する。彼女は両手を固く握りしめ、上原をキッと鋭く睨みつけた。
「私はそんなことやってない! 勝手に私を犯人に仕立て上げないでよ!」
「で、でも、見たもん……! それに、みんな知ってるよ……!」
上原は怯えたように身を縮こまらせ、周囲の生徒たちに助けを求めるように視線を巡らせた。
多くのクラスメイトが記憶しているだろう。この前の中間考査の結果が発表された時、瑞姫が学年トップである七条に対して、尋常ではない敵意と執着を燃やし、激しく詰め寄っていた姿を。
「……やっぱり、そうだよ」
「あんなにいつもピリピリしてて、芹愛ちゃんに執着してたし……」
「怖っ、嫉妬って怖いよね……」
クラスメイトたちの口から、次々と瑞姫を犯人だと決めつけるような陰口が漏れ出す。
瑞姫は唇を噛み締め、悔し涙で潤んだ瞳を大きく見開いたまま、全員を見回した。
「違う! 私はやってない! なんで誰も私を信じないのよ……っ!」
その叫びは、教室の冷ややかな空気にかき消され、誰の心にも届かない。追い詰められた彼女の姿は、まるで独りぼっちで嵐の海に放り出された小舟のようだった。
けれど、教室の隅、少し離れた席で、数人の女子グループが顔を見合わせ、隠しきれない嘲笑を口元に浮かべているのを、俺の目はしっかりと捉えていた。
俺の脳裏に、数日前に耳にした、不自然にヒソヒソと囁き合っていた女子生徒たちの声が鮮明によみがえってくる。
あれは放課後の静まり返った教室でのこと。
数名の女子生徒たちが集まって、下卑た笑い声を交えながら会話するのが、廊下にいた俺の耳に届いてきた。
「最近、あの瑞姫ってやつ、いつもイライラしててさー」
「本当、高慢そうな顔して生意気よね。あいつ、大嫌い」
「なんかさ、好きな彼氏に『瑞姫の方が好きだから』ってフラれた友達がいて、その子は瑞姫をめちゃくちゃ恨んでるんだよね」
「え、マジ? ムカつくよね、あんなツンツンした女のどこがいいんだか」
「ねえ、だったらさ……あいつ、いっそ嵌めてやろうよ」
ぞっとするような提案が、涼しい声で口にされた。
「嵌めるって、どうやって?」
「あいつ、いつも七条さんに突っかかってるでしょ? 皆が知ってるくらいライバル視してるじゃん」
「あー、なるほど! じゃあさ──」
「ちょっと待って! 誰か来る!」
見ると、廊下の先から、二人のクラスメイトの男子生徒が教室に向かって会話しながら歩いてきていた。
そこで、彼女たちが企みを話し合うのは中断されたのだけど──。
なんて薄汚い茶番だ。
その当時のことを思い出し、怒りが腹の底からグツグツと沸き上がるのを感じながら、俺は席からゆっくりと立ち上がった。
「……そこまでにしたらどうだ」
静まり返った教室に、低く、冷ややかな響きを持った俺の声が落とされた。
いつもなら、教室の片隅で存在感を消し、息を潜めているはずの陰キャモブ男子・稲葉奏介の発言に、教室中の視線が一斉に俺へと集まった。
「なっ……なんだよ、稲葉? お前、急にどうしたんだ?」
常磐が怪訝に問いかける。
俺は誰の目も見ず、ただ落ち着いた足取りで教壇の方へと歩み寄り、そして先ほど嘘の目撃証言をした上原と、その取り巻きの女子グループを真っ直ぐに見据えた。
「おい、上原。お前、さっき『更衣室から瑞姫がカッターを持って出てきた』って言ったよな」
「っ……! な、なによ、事実だもん……!」
「事実? ふっ……笑わせるな」
俺は鼻で笑い、続けて言葉を突きつけた。
「本当に瑞姫が犯人なら、カッターで切り裂いたその制服の布きれや、壊されたロッカー、そして凶器のカッターナイフそのものに、彼女の指紋がべっとりと残っているはずだ。おい、警察を呼んで徹底的に鑑識に通してもらおうか? それとも、全員の指紋を採取させて、誰の指紋がどこに付着しているか科学的に証明してもらうか?」
「け、警察……!?」
その言葉を聞いた瞬間、上原の顔から血の気が完全に引いた。彼女の隣にいた取り巻きの女子たちも、顔面蒼白になり、ガタガタと震え始めている。
「そ、そんな大げさな……! ただのイタズラなのに、警察なんて……!」
「イタズラ? これだけの冤罪を瑞姫に着せようとしたんだぞ。下手すれば停学になるくらいのな。ただのイタズラで済まされる問題じゃないんだよ」
俺が冷たく視線を投げると、上原は「うっ……!」と絶句し、気まずそうに目を逸らした。
「それに、お前らが先日、この教室であれこれ企んでいたことも、全部俺の耳に入ってるんだよ。『瑞姫を嵌めてやろう』って言ってたのがな」
「嘘だよ……! そんなの嘘!」
教室の空気が一変し、今度は上原への疑念に染まる。クラスメイトたちの視線は、一斉に彼女へと向けられた。
「本当なのか、上原?」
常磐が怒りに満ちた声を上げ、上原を睨みつける。
その時。
「もういいよ」
七条の確かな響きを持った声が、教室の雑音をすっきりと掻き消した。
彼女は瑞姫に向かって、ゆっくりと首を横に振ってみせた。その表情には、怒りも、冷淡さもなく、ただ深い優しさと、どこか温かな光が宿っていた。
「私は、瑞姫のことを信じているから。私は知ってる。彼女はどんなに私を越えようと悔しがっても、こんな陰湿で、卑怯なやり方で他人を貶めるような真似をする人間じゃない。それだけ分かっていれば、私にとってはもう十分だよ」
その言葉は、冷え切った教室の空気を優しく包み込むように、瑞姫の心へと真っ直ぐに染み込んでいった。
「……っ……ばか……」
瑞姫の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
彼女はいつも張っていたトゲをすっかりと失い、子供のように顔をクシャクシャに歪ませたまま、その場で小さくうずくまった。
七条は、そんな瑞姫に近寄ると、その頭にそっと優しく手を伸ばし、まるで大切なものを扱うように、その艶やかな髪を優しく撫でた。
「お疲れ様、瑞姫。もう泣かなくてもいいよ」
その光景を遠巻きに眺めながら、俺は胸の奥のつかえがスッと消えていくのを実感していた。
学校の誰もが知らない、完璧なお嬢様の仮面の裏にある彼女の本当の優しさと強さが、今、この歪んだ悪意の罠を完全に打ち砕いたのだ。
教室の隅では、上原たちがクラスメイトたちの冷ややかな視線に耐えかね、そそくさと教室を逃げ出していく。
騒動の収まった静かな夕暮れの教室で、二人の七条を囲む空気は、これまでにないほど穏やかで、そして確かな絆の色を帯びていた。




