第12話 期末考査の勉強会と、祈との鉢合わせ
六月下旬。
梅雨の湿った空気がアスファルトを包み込み、街全体がどこか重苦しい熱気を帯び始めていた。
紫陽花の花が雨に濡れて色鮮やかに咲き誇る季節。
だが、それ以上に学園の生徒たちの頭を重く支配しているのは、迫り来る期末考査という名の厳格な現実だった。
中間考査で学年トップを守り抜いた七条に対し、惜しくも二位に甘んじた瑞姫、そして三十位以内という大躍進を成し遂げ、さらなる上位を目指す俺──稲葉奏介。
その期末考査を目前に控え、俺たちの週末は七条の部屋での勉強会に費やされていた。
「ここ、この数学の三角関数の公式。前回の模試でも似たような応用問題が出たから、解き方のプロセスをもう一度確認しておいたほうがいいよ、奏介くん」
ローテーブルの上には、分厚い参考書やノート、色とりどりのマーカーペンが綺麗に整頓されて並べられている。
涼しげなエアコンの風が心地よく吹き抜ける部屋の中で、七条はシャープペンシルを軽やかに走らせながら、俺のノートを覗き込んでアドバイスをくれた。相変わらず整った美しい横顔と、凛とした佇いは、近くにいるだけで不思議と背筋が伸びるような緊張感と安心感を与えてくれる。
「ああ、ありがとう。おかげで、前回よりは公式の意味がすんなり頭に入ってくるよ」
「ふふっ、当たり前でしょ。私のスパルタ特訓を受けているんだから、次はもっと上位を狙ってもらわないと困るんだからね」
彼女はいたずらっぽく微笑み、フッと柔らかな息を吐き出した。
学校でのどこか近寄りがたい完璧主義のお嬢様とは違い、こうして二人でいる時の彼女は、リラックスした表情や人間らしい温かさを俺に見せてくれる。その変化が、俺の胸の奥を微かにくすぐる。
周囲には決して見せない、二人の秘密の共有時間。
それが心地よくもあり、同時に少しだけ危ういバランスの上に成り立っていることも、俺は無意識のうちに理解していた。
§
時計の針がちょうど正午を指した頃、勉強の区切りとして午前の部が終了した。
「そろそろお昼にしようか、奏介くん」と七条が立ち上がり、しばらくしてキッチンから運んできたのは、ガラスの器に盛られた冷製カッペリーニと、自家製コンソメスープだった。上品に盛り付けられた料理は、とても高校生が作ったとは思えないほど洗練されている。
「いただきます」
俺は手を合わせて、さっそくフォークを手に取る。
一口食べた瞬間、思わず息を呑んだ。繊細でありながら深いコクのあるトマトの酸味と、絶妙な茹で加減のパスタが絡み合い、言葉を失うほどの美味しさだった。
「ん……! 美味い……こんなに美味いものが家で食えるのか……」
俺が感動しているのを見て、七条はふふっと嬉しそうに目を細める。
七条がこれほどまでに完璧な手料理を作れるということは、彼女に料理を教えたという使用人の真鍋さんという女性は、どれほどの腕前だったのだろうか。きっとプロの料理人顔負けの、とんでもなく料理上手な人に違いない。そんなベテランの技を幼い頃から直接教わってきたからこそ、今の七条の確かな腕があるのだと納得がいった。
「こんな贅沢な昼食を食べさせてもらって、俺もバチが当たらないようにしっかり勉強しないとな」
「ふふ、本当にね。だから、期末考査で結果を出さなかったら、次の手料理は没収しちゃうかもしれないから、覚悟しておいてね」
冗談めかして笑う七条の笑顔に、俺も思わず釣られて苦笑を浮かべる。
穏やかで、満ち足りた昼下がりのひととき。
外の梅雨空の鬱陶しさを忘れさせてくれるような、静かで温かい時間がそこには流れていた。
§
昼食を終え、再びテキストを広げようとしたその時だった。
ピンポーン。
澄んだ電子音が、静かなリビングルームに響き渡った。
俺たちは同時に手を止め、顔を見合わせる。
「……誰だろ? こんな時間に宅配業者かな」
七条が首を傾げながら、インターホンのモニターを確認しようと立ち上がろうとした、その瞬間だった。
「芹愛ー、いるんでしょー? 開けてよ、勉強教えて―!」
ドンドン、と玄関の扉を叩く音が響き、聞き覚えのある明るくハイテンションな声が、防音性の高い扉の向こうからかすかに聞こえてきた。
羽川祈だ。
それを認識した瞬間、七条の顔からスッと血の気が引いた。
彼女の瞳が大きく見開かれ、そして焦りの色が浮かぶ。
「い、祈……!? なんでこのタイミングで……!」
「おい、マジかよ……!」
俺も思わず立ち上がり、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
もしここで羽川に、七条の部屋に俺が二人きりで入り浸っているところを見られたら、どれほど面倒な詮索をされるか想像もつかない。
特に、羽川は好奇心旺盛で噂好きのムードメーカーだ。一歩間違えれば、学校中でとんでもない大スキャンダルとして面白おかしく言いふらされてしまうだろう。
「ど、どうしよう……!」
七条が珍しくパニックになりかけ、両手で頭を抱える。
「祈は時々、連絡もなしに急に家に遊びに来る癖があるの……っ! まさか今日来るなんて思わなかったから、油断してた……」
「落ち着け、七条! 隠れる場所は……そこだ!」
俺は素早く周囲を見渡し、リビングの扉を開けた先にある、七条のプライベートな寝室へと続くドアを指差した。
「寝室に隠れる!」
「うん……っ!」
七条が玄関のインターホン対応に向かうのとほぼ同時に、俺は忍者のような素早さで寝室へと滑り込み、そっとドアを閉めた。
心臓がドクドクと激しく脈打つ。部屋の中には、彼女特有の甘く上品な柔軟剤の香りがふわりと漂っていたが、今はそんなことを堪能している余裕すらない。
俺は息を殺し、ベッドの陰に身を潜めて、室外の様子に全神経を集中させた。
玄関の鍵がガチャリと開く音が聞こえる。
「おじゃましまーす! って、芹愛、遅いよー! 留守かと思ったじゃん!」
「い、祈……? どうしたの、急に訪ねてきて。今日は何かあったの?」
七条の声が、普段の凛とした調子を必死に取り繕っているのが、寝室のドア越しでもハッキリと分かった。少しだけ上擦っているように聞こえるのは気のせいではないだろう。
「いやさー、数学の課題の範囲がどうしても分かんなくってさ! 一人でやってても全然進まないから、学年トップの芹愛様のお知恵を拝借しにきたわけ! ねえ、冷たいお茶とかない? 喉カラカラなんだけど!」
「あ、お茶ね……すぐ淹れるから、リビングのソファに座ってて……!」
羽川のスリッパを履いた足音がパタパタと鳴り、ソファに腰掛ける気配がする。
俺は内心で冷や汗を拭いながら、身動き一つせずにじっと息を潜めていた。
しばらくの間、リビングでテキストをめくる音や、羽川の質問に対して七条がたどたどしく答える声が聞こえてきていた。七条のペースが少し乱れているのが、隠れて身を潜めている俺にも手に取るように伝わってきた。
このまましばらくやり過ごせば、羽川がトイレにでも立ったタイミングで俺もこっそり抜け出せるはずだ。
そう思っていた、その時だった。
「あー、ちょっと待って、芹愛。その前に、お茶飲み過ぎちゃった。トイレ借りるね!」
「あ、うん……」
羽川の弾んだ声と、それにうなずく七条の声が聞こえてきた。
寝室のドアのすぐ外を、羽川の足音が通り過ぎようとする。
その緊迫した気配を察知した瞬間、寝室のドアがわずかに開き、七条が青ざめた顔で滑り込んできた。
彼女は俺の袖をギュッと掴み、耳元に顔を寄せ、震える声で囁いた。
「奏介くん……っ! 祈がトイレに入ったよ……! 今のうちに、外へ逃げ出して……!」
七条の瞳には、見つかったら終わりという切羽詰まった恐怖と、必死の懇願が浮かんでいた。
「わかった……!」
俺は短く頷き、今が最大のチャンスだと踏んで、音を立てないように慎重に寝室のドアノブに手をかけた。
羽川がトイレに入っている今なら、玄関から外へ脱出できる。そう判断し、俺は静かにドアを開け、廊下へと足を踏み出した。
だが、その瞬間。
ガチャッ……!
タイミング悪く、トイレのドアが開く音が響いた。
「芹愛ー、トイレットペーパーが切れて……ってあれ?」
トイレから出てきた羽川祈の視線が、リビングを横切ろうとしていた俺の姿を、完全に捉えた。
「え……?」
羽川が動きを止める。
俺もその場でピタリと凍りついた。
「えっと……確か……稲葉君……?」
羽川の目が点になり、頭の上に大きな疑問符がいくつも浮かんでいるのが分かった。
完全に、ばったりと、逃げ場のない状態で鉢合わせしてしまった瞬間だった。




