第7話 珈琲の香りと、素顔の秘密
週末の土曜日。
俺は、叔父である稲葉宗一郎が経営する喫茶店『ライムノート』でバイトに入っていた。
決して大きな店ではないが、アンティーク調の温かみのある内装と、叔父がこだわり抜いた自家焙煎のコーヒー、そして手作りの絶品料理が評判を呼び、地元では『知る人ぞ知る隠れ家的名店』としてひそかな人気を博している。
普段の学校生活では、前髪を重たく下ろした地味で冴えない陰キャ男子として息を潜めている俺だが、この店で働く時には少しばかり事情が違っていた。
叔父からの強い勧めで、客ウケを考慮した結果、バイト中の俺はワックスで髪を丁寧にセットして額を出すという決まりになっていたのだ。
「夕都。二番テーブル、ブレンド二つとチーズケーキのセット頼む!」
「はい、了解です」
カウンターの向こうから飛んできた叔父の威勢のいい声に返事をし、俺は手際よくソーサーにカップを並べる。
前髪を上げて見る世界は、学校での視界よりもずっとクリアで、店内の隅々までよく見渡せた。
髪を上げているせいで顔立ちの輪郭がはっきりと出ており、鏡を見るたびに「これが本当に普段の自分なのだろうか」と我ながら少し気恥ずかしさを覚えるが、接客業としてはこの方が確かに評判が良いらしい。
常連のマダムたちからは「マスターのところの甥御さんは、いつも男前ねぇ」とよく声をかけられていた。
§
ランチタイムの忙しいピークが過ぎ、店内の客足がまばらになってきた午後のことだった。
俺は店の前に出て、アスファルトを綺麗に掃き清めるための掃き掃除をしていた。
「奏介君、お疲れ様。今日も精が出るねえ」
心地よい初夏の空気を吸い込んでいると、隣の家で暮らす顔なじみのおばさんが、買い物帰りのエコバッグを揺らしながら声をかけてきた。
「あ、お疲れ様です。いつもありがとうございます」
「いつ見ても相変わらずイケメンだねえ。その髪型、すごく似合ってるよ。おばさんもあと十歳若ければ、絶対に放っておかないのにさ!」
ハハハ、と気さくに笑うおばさんに、俺は苦笑いを返すしかなかった。
「はい、これ差し入れ。バイトの合間に飲みなさい、頑張ってね」
「ありがとうございます。助かります」
おばさんから冷えたペットボトルのお茶を受け取り、ペコリと頭を下げる。
学校では誰の目にも留まらない透明人間のような俺が、身なりを整えて一歩この場所に出るだけで、まったく別の人間として扱われる。
このギャップに慣れるには、まだ少し時間がかかりそうだった。
§
ペットボトルのお茶を片手に店内に戻り、一息ついた頃だった。
カランコロン、と入り口のドアのベルが軽やかな音を鳴らす。
俺は反射的に背筋を伸ばし、接客用の笑みを貼り付けて声を張り上げた。
「いらっしゃいませ──っ!」
そこまで言って、俺は声を詰まらせかけた。
ドアをくぐって入ってきたのは、見慣れた二人の女の子たちだった。
一人は、艶やかな黒髪を揺らし、落ち着いた私服に身を包んだ七条芹愛。
そしてもう一人は、明るい笑顔を浮かべ、周囲の空気までパッと華やかにさせる羽川祈だった。
嘘だろ……?
心の中で盛大に絶叫しながら、俺は動揺し視線を泳がせた。
七条は休日らしく上品なワンピース姿で、相変わらずの美しさを放っている。
隣の羽川は、キョロキョロと店内を見回しながら楽しそうに笑っていた。
彼女たちがここに来るなんて、夢にも思っていなかった。まさか彼女の友達である羽川と一緒に、俺がバイトをしているこの店にやってくるとは。
けれど、髪を上げている今の俺は、学校での地味な稲葉奏介とは完全に別人に見えているはずだ。
大丈夫。気づかれてはいないはず。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか? どうぞ、こちらの席へお掛けください」
必死に声を裏返さないよう気をつけながら、俺はなるべく落ち着いたトーンで二人を窓際の席へと案内した。
「おしゃれなお店だね! ねえ芹愛、ここすごく雰囲気良くない?」
「うん、そうだね。落ち着いた素敵なところだね」
七条はメニュー表を開きながら上品に微笑む。
その視線がふっと俺の顔に向けられるが、すぐに逸らされた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
尋ねると、羽川がパッと顔を輝かせ、きらきらとした瞳で俺の顔をまじまじと見つめながら声を弾ませた。
「あの、お兄さん! すごくカッコいいですね! モデルさんみたい!」
不意打ちのストレートな称賛に、俺は思わず面食らった。
「こら、祈。初対面の人にいきなりそんなこと言うものじゃないでしょ。失礼でしょ」
七条が呆れたような声音で羽川をたしなめる。
「えー、いいじゃん! 事実だもん。ねえ、お兄さん、彼女とかいるんですか?」
「い、いや……、あいにく、そういうのはいませんが……」
羽川のグイグイと迫ってくる積極性に気圧されつつ、俺は作り笑顔を維持するのに必死だった。
二人はメニューからそれぞれアイスカフェラテと季節のタルトを選び、俺はオーダーを復唱して足早にカウンターへと引き返した。
その後、コーヒーとケーキを席に運ぶと、羽川の熱い視線が痛いほど俺の背中に突き刺さった。
「お兄さん、名前なんて言うんですか?」
「ここにいるのって何曜日が多いんですか?」
そんな矢継ぎ早の質問にも、俺は「奏介です」「週末によく入ってます」と最低限の受け答えでやり過ごすしかなかった。
目の前には、学校での高嶺の花である七条が、何か言いたげな複雑な表情で俺を見つめている。
そして、あっという間に時間が過ぎ、二人が店を出る帰り際のことだった。
レジのカウンターで会計を済ませた羽川が、ふいに思い立ったようにパッと俺の手元を覗き込み、スマホをスッと差し出してきた。
「あの、お兄さん! もしよかったら、LINEのアドレス、交換してくれませんか?」
まじか。
店内にいた叔父が、ちらりとこちらを見てニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべている。
七条は隣で、冷ややかな表情を浮かべていた。
「あ、ああ……それくらいなら、いいけど……」
無下にするわけにもいかず、仕方なく自分のスマホを取り出し、羽川と連絡先を交換せざるを得なくなった。
画面に表示された羽川のアカウント名を見つめながら、俺の心の中では「とんでもないことになってしまった」という冷や汗が流れていた。
§
バイトの長い一日をどうにか乗り切り、夕方、俺は疲労困憊の体を引きずって自分のマンションの部屋へと戻ってきた。
すぐにワックスを洗い流し、いつもの地味な陰キャ男子の姿へと完全に戻る。
少しだけ肩の荷が下りたような安心感を覚えながら、あらかじめ約束していた時間通りに、俺は隣の202号室のインターフォンを鳴らした。
ピンポーン、と澄んだ音が響いた直後、すぐに扉が開いた。
「いらっしゃい、稲葉君……お疲れ様」
エプロン姿の一ノ瀬が出迎えてくれたが、その声音にはほんの少しだけ、いつもとは違うトゲのような不機嫌な空気が混じっていた。
「ああ……お邪魔します」
リビングに招かれると、すでにテーブルの上には出来立ての料理が良い香りを放っていた。
白い皿に盛られているのは、濃厚なチーズと黒胡椒が絶妙に絡み合った、美しいカルボナーラだ。
「おお、美味しそう……いただきます」
席に着き、フォークで麺を巻き取って、さっそく一口分を口に運ぼうとした、その時だった。
「稲葉君。あの喫茶店で、バイトしてたんだね」
七条のその一言を聞いた瞬間、俺は口に運ぼうとしていたフォークを止め、盛大にむせ返りそうになった。
「ぶっ……! げほっ、ごほっ……!」
慌ててグラスの水を飲み込み、真っ赤になった顔で彼女を見上げる。
いつの間に気づかれたのか、あるいは最初から分かっていたのか。
「な、なにを……急に……」
「とぼけないでよ。いくら髪を上げてセットしていたって、目を見て声を聞けばすぐに分かるよ。それに、名前だって『奏介』って言ってたでしょ?」
七条は腕を組み、少しばかり不機嫌そうに頬を膨らませながら、俺をじっと睨みつけてきた。
言い訳の余地すらなかった。
「……気づいてたのかよ」
「うん。最初にお店に入って、カウンターの奥から声が聞こえた時は、まさかと思ったけどね。近づいて顔を見た瞬間、確信したよ」
彼女はため息をつきながら、自分の分のフォークでパスタの端をつまむ。その瞳の奥には、呆れと、それから、少しばかりの嫉妬のような感情が揺らめいているように見えた。
「祈、しきりに稲葉君のこと『カッコいい』って褒めてたね。……よかったね、祈みたいな可愛い子に好かれてさ」
そう言って彼女は、あからさまに不機嫌そうにぷいっと顔をそむけた。
その拗ねたような仕草が、学校で見せる高嶺の花の仮面とはあまりにもかけ離れていて、どこか愛おしさを感じさせてしまう。
「い、いや、あれはただのバイトの接客だし! そもそも学校では完全にスルーされてる、その他大勢の地味な男子なんだから、本人も気づいてないって!」
俺が慌てて弁解すると、七条はクスッと小さく笑い声を漏らした。
「ふふっ、知ってるよ。学校での稲葉君は、忍者みたいに陰に潜んでるもんね。それにしても、もしその稲葉君が『あのイケメン店員』だって学校の皆が知ったら、どうなるだろうね。玖珂さんあたりなんて、真っ先に飛びついてきそうだけど」
その名前を出された瞬間、俺は背筋が凍るような思いがした。玖珂玲於奈のようなクラスの中心人物に正体がバレたら、それこそ学校生活の平穏が一瞬で崩壊してしまう。
「た、頼むからそれだけは黙っていてくれ! 俺は今までどおり、あの地味なポジションで静かに過ごしたいんだ。面倒なことに巻き込まれたくない」
必死に懇願する俺を見て、七条は面白そうにクスクスと笑った。
「わかってるよ、心配しなくても秘密にしておいてあげる。私にとっても、あの喫茶店で働く稲葉君の姿を知っているのは……『秘密の特権』みたいなものなんだから」
彼女はそう言って、悪戯っ子のようにふわりと微笑んだ。
その言葉に含まれた『特権』という響きに、俺の胸の奥は再び甘やかな熱で満たされていくのを感じた。
「ほら、冷めないうちにカルボナーラ食べなよ。せっかく作ったんだからさ」
「ああ……いただきます」
フォークでパスタを口に運ぶと、濃厚な生クリームとチーズのコク、そしてベーコンの塩気が絶妙にマッチして、とびきりの美味しさが広がった。
素の自分を受け入れてくれる彼女と過ごすこの週末の夜が、俺にとって何よりもかけがえのない時間になっていることを、俺は言葉にせずとも深く理解していた。




