第6話 中間考査の結果と、歪んだ姉妹の肖像
中間考査の緊張感が校内からようやく抜け落ち、答案用紙が各クラスに返却されて数日後。
一階の職員室前に続く渡り廊下の掲示板には、誰もが注目する学年総合順位が貼り出されていた。
「おい、見たかよ? またトップはあの人だぜ……」
「化け物かよ、全教科であの点数って何食ったら取れるんだよ」
「ていうかさ、その下の二位も毎回すごいよな……」
廊下には朝から多くの生徒たちが群がり、自分や友人の番号を探したり、上位陣の名前を見てざわめき立っていた。
遠巻きにその人だかりを眺めながら、俺は緊張感を抱えつつ、人混みの隙間から掲示板の文字に目を凝らした。
上から順番に視線を滑らせていく。
一際目を引く一番上の行には、いつもと変わらない名前が記されていた。
【総合順位 第一位】 七条芹愛
やっぱり、というべきか。彼女は今回も圧倒的な点数で首位を守り抜いていた。
そして、そのすぐ下に続く名前。
【総合順位 第二位】 七条瑞姫
また二位だったんだな……。
瑞姫にとっては、何度挑んでも越えられない高すぎる壁。その悔しさは想像に難くない。
そして、俺の視線はさらにその下、三十位までのボーダーラインが記されている一帯へと向けられた。
普段ならあり得ないポジション。
しかし、今回は少しだけ期待していた。何せ、あの学年トップの七条に直接、週末の図書館でみっちりマンツーマン指導をしてもらったのだから。
『ここをこうやって解けば、平均点は余裕で超えられるから』
あの日の彼女の自信に満ちた声を思い出しながら、下の方の番号から順に名前を辿っていく。
三十位、二十九位……そして、
【総合順位 第二十八位】 稲葉奏介
「……嘘だろ」
思わず、自分の名前の横にある数字を二度見してしまった。
二十八位。
俺が? あの、いつもは七十位程度に入れたら万々歳だった俺が、まさか上位三十位以内に食い込んでいる。
心臓がドクリと大きく跳ねた。自分のことながら信じられないほどの躍進だった。
「すごいじゃない、稲葉君。ちゃんと結果に出たね」
ふと、すぐ隣から聞こえてきた涼やかな声に、俺はビクリと肩を揺らした。
見れば、いつの間にか人混みの隙間を縫うようにして、七条が俺の隣に並んで立っていた。彼女もまた、自分の名前と、その少し下に並ぶ俺の名前を穏やかな瞳で見つめている。
周囲には他の生徒も大勢いるため、二人はあくまでクラスの隅にいる他人同士の距離感を保ったまま、小声で会話を交わす。
「七条……! お前、これ……俺、二十八位だぞ!? 自分でも信じられないよ!」
「だから言ったでしょ。私の教え方が良かったのもあるけれど、稲葉君がちゃんと食らいついて努力したからだよ。おめでとう」
「七条のおかげだよ、本当に……。こんな上位、人生で一度も見たことないよ」
あまりの嬉しさに、つい顔が緩み、声のトーンが上がりそうになる。
あまりにはしゃぎすぎる俺を見て、七条はふっと小さく、上品な笑みをこぼした。
その横顔がやけに眩しくて、俺は思わずその場で彼女に手を伸ばしそうになり、ハッと思いとどまった。
ここは校内の掲示板の前だ。
周りにはクラスメイトや他の学年の生徒がわんさかいる。危うく致命的なボロを出すところだった。
俺は慌てて咳払いをして、表情を引き締める。
「っ、あぶね……。サンキューな、七条。お陰で親にもいい顔ができるよ」
「うん。よかったね。……じゃあ、私、先に教室に戻るから」
七条は周囲に一瞥をくれてから、何食わぬ顔でスッと人混みを離れ、階段の方へと歩き出した。
その背中を見送りながら、俺は胸の内で小さく息を吐き、自分の頬を軽く叩いて気を引き締めた。
それから、俺は七条から少しだけ距離を置いて、同じく教室へと戻る廊下を歩いていた。
前方を歩く七条の姿を視線の端に捉えながら歩いていると、突然、その足がピタリと止まった。
「ちょっと、待ちなさいよ、芹愛!」
鋭く、張り詰めたような少女の声が廊下に響き渡る。
振り返るまでもなく、それが誰の声かなんて分かった。七条瑞姫だ。
瑞姫はすごい剣幕で七条の背中に詰め寄り、その細い腕をグイッと掴んで無理やり引き止めさせた。
「……なに? 瑞姫」
七条は乱暴に腕を掴まれても、顔色一つ変えず、落ち着いた瞳で異母妹を見つめ返した。その冷静さが、瑞姫の逆鱗にさらに油を注ぐことになる。
「なに、じゃないわよ! あんた、また……また今回も一位じゃない! なんでよ、なんでいつだってあんたがトップなのよ!」
瑞姫の声音には、怒りだけでなく、どうしようもないほどの悔しさと、すがりつくような焦燥感が滲み出ていた。
廊下を通りかかった他の生徒たちが、ピタリと足を止めて二人のやり取りに注目し始める。
「おい、見ろよ……ダブル七条が揉めてるぜ」
「すごい剣幕だな……。あっちの七条、また負けたのかよ」
そんなひそひそ声が、周囲の壁伝いに広がっていく。
だが、当事者である七条は、周囲の視線などまるで気にしていないかのように、ただ淡々と答えた。
「……テストの点数は、努力した結果が出るだけだよ。私が一位なのは、それ相応の勉強をしたからじゃない?」
「努力、努力って……! いつだってそうやって、涼しい顔して私を出し抜いて! 私だって、睡眠時間を削って、誰よりも勉強して、家庭教師にも毎日しごかれて……それでも、どうしてもあんたに勝てない!」
瑞姫の瞳に、悔し涙の膜がみるみるうちに溜まっていく。
その顔は、いつも学校で見せる気高く冷ややかな孤高の美少女のそれではなく、ただの負けず嫌いな一人の少女のそれだった。
「いつもそうやって私を軽くあしらって、まるでいないもののように扱って……! 」
瑞姫の震える声が、廊下の空気を切り裂く。
「お父様も、あんたばかり見てる! ねえ、ちょっとは私を見なさいよ! 私をちゃんと見てよ、お姉ちゃん……っ!」
その言葉の端に漏れた「お姉ちゃん」という響きには、これまでの長い年月の中で蓄積された、深い孤独と、愛されたいという渇望が詰まっているようだった。
「……ちゃんと見てるよ。瑞姫の良いところだって私は──」
「嘘よ!」
瑞姫は言葉を遮って叫ぶと、顔をクシャクシャに歪ませたまま、バタバタと激しい足音を立ててその場から走り去っていった。
残された廊下には、気まずい静寂と、冷たい空気だけが取り残されていた。
俺は少し離れた場所からその一部始終を見守りながら、胸の奥が重く締め付けられるような、複雑な痛みを覚えていた。
§
週末の金曜の夜。
外は星一つ見えない曇天だったが、七条の部屋の中には、言いようのないほど美味しそうな香りが満ちていた。
「はい、熱いから気をつけてね」
テーブルの上にドンと置かれたのは、オーブンから取り出されたばかりの熱々のグラタンだった。
こんがりとキツネ色に焼き目がついたチーズの表面から、ホワイトソースとバターの濃厚な香りが立ち上り、湯気とともに俺の食欲を容赦なく刺激してくる。
「うわ、すげぇ美味そう……! 今夜はグラタンかよ」
「うん。たまには洋食もいいかなって思って。それに、今週はいろいろと疲れたからね……こういう温かいものが食べたかったの」
七条はエプロンを外し、自分の席に腰掛けながら、小さく息をついた。
その横顔には、あの廊下での一件を引きずっているわけではないのだろうが、どこか微かな疲労の色が浮かんでいた。
「いただきます」
スプーンでチーズの層をザクッと崩し、ふーふーと息を吹きかけてから口に放り込む。
瞬間、濃厚なホワイトソースのコクと、マカロニのモチモチした食感、そして鶏肉とエビの旨味が口いっぱいに広がり、思わず頬が緩んだ。
「……んまっ! めちゃくちゃ美味いぞ、これ!」
「ふふ、よかった。ちゃんと美味しくできてたみたい」
七条も自分の分のスプーンを口に運び、満足そうに目を細めた。
静かな部屋に、食器がカチャカチャと触れ合う音だけが響く。
しばらく美味しい料理を黙々と味わったあと、俺はふと、あの日の廊下の光景を思い出して、恐る恐る口を開いた。
「あのさ……テスト結果が貼り出された時、廊下で瑞姫と揉めてたろ。……大丈夫だったか?」
七条の手が、ピタリと止まった。
彼女はスプーンを皿の縁に置くと、少しだけ視線を伏せ、じっと白いテーブルクロスを見つめた。
「……見てたんだ、あの時も」
「あぁ、ごめん。偶然、近くにいたからさ……。あんな風に真っ向からぶつかられて、七条も大変だなと思って」
「大変、か……かもしれないね」
七条は小さく息をつき、それから遠い目をしてポツリと呟いた。
「瑞姫とは、物心ついた頃からずっとあんな感じなの。あの子のお母様……つまり私の父親の本妻は、私という存在を心の底から嫌っていた。愛人の子供である私が、父親に気に入られて本邸に引き取られたときから、家の中の空気は変わった」
彼女の声音は淡々としていたが、その言葉の裏にある重さは、痛いほどに伝わってきた。
「瑞姫に言われたことがあるの。『私の下につきなさい。私に従っていれば、お母様の機嫌も良くなるし、あなたも少しは楽になるはずよ』ってね。あの子は、自分に従属させることで私を救おうとしたんだと思う」
「……それで、七条はどうしたんだ?」
「従うわけないでしょ。そんなことをしたら、私の存在そのものが否定されてしまうもの。私は愛人の子供かもしれないけれど、頭の良さでも、人間としての価値でも、あの子より劣っているわけじゃない。そこだけは、どんなに冷たい目を向けられても、意地でも譲れなかった」
七条の瞳に、強い光が宿った。
それは傲慢さではなく、過酷な環境の中で彼女自身が自分を保つために掲げ続けた、決して折れない誇りそのものだった。
「だから私は、どんなに本妻に虐げられても、あの子に対して下手に出ることはしなかった。媚びることも、おもねることもせず、ただ対等に、真っ直ぐ向き合い続けたの。それが、あの子にとっては一番許せなかったんだろうけどね」
彼女はふっと自嘲気味に笑った。
「……半分の血の繋がりなんて、時々すごく呪わしく感じるよ。お互いに腹違いじゃなかったり、別のところで生まれていれば、あんな風に言い争わずに済んだんだろうにね」
その言葉に含まれた孤独の深さに、俺は何も返すことができなかった。
彼女がまとっている高嶺の花という完璧な仮面は、こうした冷たい家庭環境の中で、自分を守るために身につけざるを得なかった鎧だったのだと、今なら痛いほどよく分かった。
§
夕食の片付けを終え、リビングの照明が少し落とされると、部屋の中は急に夜の静寂に包まれた。
外ではいつの間にか細い雨が降り始め、窓ガラスを静かに叩く音が心地よく響いている。
ソファからベッドルームへと移動した俺たちの間には、言葉はなくとも、互いの心にある澱みを分かち合うような、独特の熱気が漂っていた。
今日の七条は、いつにも増して激しかった。
「……ねえ、稲葉君」
ベッドの上、シーツを強く握りしめた彼女が、上気した顔で俺の首筋に腕を回す。
その瞳には、普段の冷静さが嘘のように、剥き出しの熱と、どこかか弱い切なさが揺らいでいた。
「どうした?」
「何も考えたくないの……。家庭のことも、瑞姫の泣き顔も、全部……頭の中から消し去って……」
彼女はそう言うと、自ら唇を重ねてきた。
それはいつものような、ただ切なさを埋め合うだけのキスではなかった。もっと激しく、もっと深く、互いの存在そのものを貪り合うような、熱を帯びた口づけだった。
「っ……七条……」
「もっと……もっと強く抱いて。私を現実から引き剥がすくらい、めちゃくちゃにしてよ……!」
彼女の纏うすべての柵を、この身体のつながりで断ち切るように。
家柄の呪縛も、血縁の確執も、学校での冷たい視線も、すべてをこの部屋の扉の外へと追い払うように、俺たちは互いの体温を求め合った。
絹のような黒髪が乱れ、白い素肌が熱を帯びて赤く染まっていく。
彼女の細い指が俺の背中を爪で引っかくように強く掴み、そのたびに甘い喘ぎ声が静かな部屋に木霊した。
理性をかなぐり捨てた夜の底で、俺たちは互いの孤独と痛みを溶かし合うように、激しく、そして深く結びついていった。
時間の感覚など、とうに消え失せていた。
ただそこにあるのは、互いの肌が擦れ合う音と、乱れた呼吸の重なりだけ。
彼女が抱えるすべての重荷を、この夜の熱の中にすべて吐き出させるように、俺は何度も彼女の名前を呼びながら、強く、優しく、そして激しく彼女を抱きしめ続けた。




