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第5話 テスト一週間前の波紋、週末の図書館


 中間考査一週間前という、学校全体がどこかピリッとした空気に包まれる時期。


 昼休みの屋上は、心地よい五月の風が吹き抜ける、俺にとって数少ない静かな隠れ場所だった。


 持ってきたおにぎりを頬張りながら、遠くの青空を眺めていたときのことだ。


 カチャリ、と重い鉄の扉が開き、足音が二つ響いた。


 隠れるつもりはなかったが、物陰にいた俺は自然と息を潜めることになった。


「話ってなに?  瑞姫」


 聞き覚えのある、凛とした声。紛れもなく七条の声だった。


 そして、それに呼応するように、少し尖った声が返ってくる。


「宣戦布告よ」


 現れたのは、七条と同じ苗字の七条瑞姫だった。


 瑞姫の表情は険しく、両手を固く握りしめている。


 七条は相変わらず涼やかな顔のままで、彼女を見据えていた。


「今度の中間テストでは必ずリベンジしてあげる」


 瑞姫の声音には、これまでの鬱憤を晴らそうとする強い執念がこもっているように感じられた。


「これまでは二位に甘んじていたけど、次こそはあなたをトップの座から引きずりおろしてやるわ」


 七条は少しだけ目を細め、それからフッと小さく息を吐いた。


 怒るでもなく、煽るでもなく、ただ淡々と、どこか呆れたような、それでいて優しい響きを含ませて言う。


「そう。頑張ってね」


「なによ、余裕ぶって! 澄ましちゃって、 あいかわらずいけすかないわね」


 瑞姫の顔がカッっと赤く染まる。七条のその自然体のすげなさが、彼女にとっては一番の刺激なのだろう。


「あんたなんて、所詮愛人の子でしかないんだから!」


 その言葉が屋上の空気を一瞬で凍りつかせた。


 言った本人すら、少し気まずそうな、しかし引っ込められないという表情を浮かべる。


 だが、七条の表情は微塵も揺るがなかった。


 彼女はただ静かに、冷めた瞳で瑞姫を見据えただけで、トゲのある言葉を正面から受け止めた。


「……話はそれだけ?  それじゃあ、私はもう行くから」


 七条はそれ以上何も言わず、踵を返して屋上を去っていった。


 残された瑞姫は、悔しそうに歯噛みしながら、しばらくその場で震えていた。



   §



 それから一週間、テスト勉強に追われるクラスメイトたちの焦燥感を横目に、俺は悪あがきはせず、いつも通り淡々と日々を過ごしていた。


 そして金曜日の夕方。


 約束の時間に、七条の部屋のリビングで、俺たちはお決まりのように夕食を囲んでいた。


 今日のメニューはビーフシチュー。


 深く煮込まれたデミグラスソースの香りが部屋中に広がり、大きめの牛肉やジャガイモが湯気を立てている。


「いただきます」


 一口スプーンで運べば、肉の旨味が口いっぱいに広がり、一週間の疲れがじんわりと溶けていくようだった。


 そうして、向かい側に座る七条が、スプーンを置いたタイミングを見計らって、俺はふと思い出したように口を開いた。


「そういえばさ、七条瑞姫に宣戦布告されてたな。昼休みの屋上で」


 七条の手が止まった。


 彼女はスプーンを持ったまま、少しだけ遠い目をして、それからゆっくりと俺を見た。


「……見てたんだ」


「あぁ、ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、聞こえちゃってさ」


「ううん、いいの。隠すようなことでもないし」


 七条は小さく息をつき、シチューの入った皿を見つめながらポツリと言った。


「私は愛人の子だって、以前話したでしょ?  彼女は本妻の娘……私にとっては異母姉妹にあたるの」


「……そっか」


「昔からああなの。なにかと突っかかってきて、勝手にライバル視して、対抗意識を燃やしてくる」


 彼女の横顔には、どこか諦めと、ほんの少しの面倒くささが混ざっていた。


 だが、その瞳の奥には、嫌悪感とは違う感情が揺らいでいるようにも見えた。


「でもね、嫌いじゃないんだ」


「嫌いじゃない?」


「うん。口はちょっと悪いけれど……あの子は、卑怯な手を使わずに、ちゃんと正面から向かってくるから」


 正々堂々とトップを狙う。


 その姿勢だけは、七条にとっても認めざるを得ないものなのだろう。血の繋がりという複雑な呪縛がありながらも、彼女たちはそれぞれの誇りをかけて戦っている。


「私は幼い頃、本邸とは離れた別棟で暮らしていたって前に話したでしょ? でも私が思いの外優秀だとわかった父親は、私を自分の地位を磐石にするための駒として使うことを思いついて、本妻の娘を差し置いて、愛人の娘である私を後継者として据えると言い出して、私を本邸に呼び戻した。もちろん本妻は猛反発したけど、父親は意見を変えなかったから、本妻の私に対する当たりはそれからさらに強くなった。その娘である瑞姫も、母親に言われて私からは距離を置いていたけれど、彼女は私に対抗意識を燃やすだけで、嫌がらせとかは決してしようとしなかった」


「そうなのか。あいつはただ七条に勝ちたいだけなんだな。にしても、二位でも十分すごいと思うけどな。俺なんて、五十位以内に入れればいいほうだってのに」


 俺が苦笑いをしながら頭をかくと、七条はふっと小さく微笑んだ。


「稲葉君は勉強、苦手なの?」


「得意とは言えないな。特に英語と数学なんて、呪文書にしか見えないときがあるよ」


 俺の情けない返答を聞いて、七条は少し考え込むような仕草をした。


 そして、スプーンを軽く置くと、まっすぐに俺の目を見つめて提案した。


「ねえ。土日だけなら、勉強を見てあげてもいいよ」


「え?」


 予想外の言葉に、俺は思わず声を裏返してしまった。


 学年トップの彼女が、平均点を越えられるかどうかであくせくしている俺の勉強を見てくれる?  そんな贅沢な話があっていいのだろうか。


「い、いや、悪いよ。七条だって自分の勉強があるだろ」


「大丈夫。私の順位は、それくらいじゃ揺るがないから。それに他人に教えると自分のためにもなるし」


 自信に満ちた、でも嫌味のないその笑顔に、俺は言葉を失った。


 七条はスプーンを再び手に取り、静かにビーフシチューを口に運ぶ。


 そして、どこか安心したような、それでいて少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。


「私たちは、週末だけの関係だからね。週末ならそんなこともありだよ」


 その週末だけの関係として、その夜も俺たちは身体を重ね合わせ、互いの体温と高まり合う鼓動を確かめ合うように深く愛し合った。



   §


 

 翌日、土曜日の午前九時。


 街の喧騒から離れた市立図書館の一角で、俺たちは向かい合って座っていた。


 週末の図書館は、受験勉強に励む高校生や資格の勉強をする大人たちで静まり返っている。微かに聞こえるのは、ページをめくる紙の音と、エアコンの低い駆動音だけだ。


 俺の目の前には、分厚い数学の問題集と、真っ白なノート、そしてシャープペンシルが転がっている。


「さてと……どこから手をつければいいか、自分でも分かんないんだけど」


 俺は頭を抱えながら、白紙のままのページを指さした。


 七条は自分のバッグからノートを取り出し、すらすらとペンを滑らせながら顔を上げた。その真剣な横顔は、やはり学年トップのオーラをまとっている。


「まずは、どこでつまずいているかを確認するね。昨日言っていた、数学の二次関数。ここを基礎からやり直せば、中間考査の平均点は確実に超えられるから」


「平均点……それは魅力的だな」


「ほら、この問題を見て」


 七条がスライドさせてくれた問題集を覗き込む。彼女の髪から、微かに香るシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。


 ドキリとする自分を必死に抑え込みながら、俺はペンを握りしめる。


「ええっと、ここに代入して……こうか?」


「ううん、違う。そこは符号が逆。ほら、こうやって考えてみて」


 彼女は俺の隣にスッと椅子を寄せ、身を乗り出すようにしてノートにペンを走らせた。


 その距離が近すぎて、思考が半分ほど停止しかける。


 しかし、七条の教え方は驚くほど論理的で分かりやすかった。学校の授業であんなに難解だった公式が、彼女の言葉にかかるとスルスルと頭に入ってくる。


「……あ、そっか!  こうすればいいのか」


「そう。分かれば難しくないでしょ?」


 七条は少しだけ得意げにふふっと笑った。

 その表情がやけに可愛らしく見えて、俺は思わず見とれてしまう。


「……なに?  私の顔に何かついてる?」


「い、いや、何でもない!  勉強に戻る!」


 慌てて視線をノートに戻すと、七条のクスクスと笑う声が小さく聞こえた。



   §



 お昼を少し過ぎた頃、俺たちは図書室を一度出て、近くの公園のベンチでパンをかじっていた。


 雲一つない青空の下、風が心地よく吹き抜ける。


「ねえ、稲葉君」


 パンを飲み込みながら、七条が唐突に切り出した。


「ん?」


「瑞姫のこと……怖かった?」


「いや、怖くはなかったけどさ……すごい執念だなとは思った。あんなに真っ直ぐ誰かに対抗できるって、ある意味ですごいエネルギーだと思うよ」


 俺の答えを聞いて、七条は遠くの空を見つめた。


「あの子はね、ずっと私を追いかけてるの。本妻の娘としての誇りと、私に負けたくないっていうプライドで必死なんだよ。だから、私も中途半端な気持ちで向き合うわけにはいかないの」


 その横顔には、どこか寂しさと、それでも逃げないという強い意志が宿っていた。血縁という逃れられない運命の中で、彼女たちはそれぞれの戦い方で生きている。


 俺は、そんな彼女の背中に、そっと言葉をかけた。


「七条は、一人で全部背負い込みすぎなんだよ。たまには息抜きも必要だろ?」


「息抜き……?」


「ほら、こうやって俺と勉強して、くだらない話をするのも、たまには悪くないだろ?」


 七条は目をパチクリとさせ、それからふっと柔らかく微笑んだ。完璧な優等生ではなく、等身大の彼女の笑顔だった。


「……そうだね。こういう時間も、悪くないかもしれない」


 彼女はそう言って、再び立ち上がった。


「ほら、休憩は終わり。午後の部が残ってるよ、渚澤君」


「はいはい、鬼コーチ様」


 俺たちは並んで再び図書館へと歩き出す。


 週末という限られた時間の中で、少しずつだけれど、確実に俺たちの距離は縮まっていた。




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