第4話 雷鳴の夜、震える声
先週と同じように七条を抱いて深く繋がり合った後、俺は自分の部屋に戻って風呂に入り直し、ベッドで横になった。
目蓋を閉じると、自然と浮かんでくるのは、先程間近で見た七条の艷やかで瑞々しい身体。
今日の七条は、先週末よりも積極的に動いて、快楽を求めていた。
処女を失った時の痛みをともなった初体験の時と違い、行為にも身体が慣れて余裕が生まれたのかもしれない。
そんな彼女はとても魅力的で、俺もつい一回では終わらず、続けて快楽を貪ってしまった。
そんなふうに、行為の後の余韻に浸っていると、耳をつんざくような激しい轟音が鳴り響いた。
いつしか雨脚は強まり、窓ガラスを叩きつけるように、激しく降り落ちている。
稲妻が閃くたびに、カーテンの隙間から青白い光が室内を這うように差し込んでいた。ゴロゴロと腹の底に響くような低い地鳴りのような雷鳴が、不気味に遠くから近づいてくる。
今日は朝まで降りそうだな……。
そう思いながら、もう一度目を閉じようとしたその時だった。
静まり返った自室に、乾いた着信音が鳴り響いた。
こんな時間に誰だろう?
眉をひそめながらスマホを手にとり画面を見ると、七条芹愛と表示されていた。
直接電話をかけてくるなんて、どうしたんだろうと訝しみつつ、緑色のアイコンをスワイプし、耳元にスマホをあてがう。
「もしも──」
「稲葉君、助けて……っ」
言葉の途中で遮られるように飛び込んできたのは、か細く、そして震えた彼女の声だった。
普段の、あの凛とした、落ち着きのある七条のものとは思えない、まるで怯えきった小動物のような、痛々しい声音。
「七条!? どうしたんだよ、そんな声出して。いったいなにがあったんだ……?」
俺の問いかけにも、彼女はうまく言葉を返せない。
受話器の向こうからは、ハァハァと乱れた浅い呼吸音ばかりが聞こえてくる。
「っ……、とにかく、今すぐ来て……っ。お願い……!」
それだけ言い残すと、彼女は返事を待つこともなく、プツリと一方的に通話を切ってしまった。
「おい、七条っ!」
画面が暗くなったスマホを握りしめ、俺は反射的にベッドから飛び起きた。
何があったのかは分からない。けれども、あの怯えきった声は演技などではない。
彼女の身に、あるいは彼女の精神に、何か尋常ならざる事態が起きていることだけは確実だった。
迷っている暇などなかった。
パジャマの上に慌ててパーカーを引っ被り、自分の部屋の玄関ドアを開け、すぐ隣の202号室へと走り出す。
インターフォンを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
姿を見せた七条の顔面は血の気が引いたように真っ青だった。額には冷や汗が滲み、潤んだ瞳には恐怖の色がまざまざと浮かんでいる。
「ごめん……、こんな夜遅くに、急に呼び出して……っ」
震える唇でかろうじて紡ぎ出されたその言葉に、俺は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「謝るなよ。そんなことより、いったいなにがあったんだ? 怪我でもしたのか、それとも不審者か何か……」
「ううん、そうじゃないの……。中で話すよ。とりあえず、中に入って……」
彼女はフラフラとした足取りで立ち上がろうとしたが、その細い両脚は恐怖で上手く力が入らないらしく、バランスを崩してよろめいた。
俺は慌てて彼女の腕を支え、そのままリビングへと導いた。
俺はソファの端に腰掛け、彼女をその隣に座らせた。
彼女はまるで縋るように、俺の袖の端をギュッと小さな指で握りしめている。
「で、どういうわけなんだ?」
俺がそっと問いかけると、彼女は俯いたまま、しばらく唇を噛み締めて沈黙していた。
その沈黙を破るように、再び窓の外で世界を揺るがすような激しい雷鳴が轟いた。
「きゃああっ!」
「うわっ……!」
反射的に、七条は俺の腕にしがみつき、その顔を俺の胸元に埋めた。
彼女の全身が、小刻みにぶるぶると震えている。華奢な身体の熱が、衣服越しに痛いほど伝わってきた。
「もしかして……雷が、怖いのか?」
俺の問いに、彼女は胸元に顔をうずめたまま、こくんと小さく首を縦に振った。
「……うん。すごく、怖いの……」
「雷が、そんなに……?」
「……トラウマ、なんだ……」
途切れ途切れの、か細い声。
彼女は震える息を整えながら、誰にも言ったことのないような秘密を、絞り出すように語り始めた。
「私はね……愛人の娘なんだ……」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
学校で誰もが憧れる才色兼備の高嶺の花。何不自由なく育てられた完璧なお嬢様──そう周囲から見られていた彼女の口から語られたのは、あまりにも重く、歪んだ家庭環境の現実だった。
「幼い頃に私を生んだ母親は、私の養育を父親に任せて、私を置いて出て行ったの。それから、父親の本妻や家族とは離れて、私は本邸から離れた敷地内の別棟でずっと暮らしていた」
彼女の声は、過去の記憶を呼び起こすように、冷たく凍てついていた。
「本家の人間はめったに来ないし、そんな私の身の回りの世話をしてくれていたのは、真鍋さんっていう使用人のお姉さんだった。私にとって真鍋さんは、母親代わりのような、たった一人の温かい存在だったの……」
外でまた一つ、ピシャリと激しい稲光が走る。一ノ瀬はさらに身体を縮こまらせ、俺の服を強く握りしめた。
「ある日……その真鍋さんが、どうしても外せない用事で、数日間お休みをとることになって、私はその別棟の部屋に、たった一人で取り残されたの。……その日の夜、外は大雨で、今日みたいに激しい雷が鳴り響いていた」
彼女の瞳に、当時の恐怖がフラッシュバックしているのが分かった。
「家の中は真っ暗で、雷の音がするたびに電気が落ちて……。誰もいない、誰も助けに来てくれない恐怖の中で、私は一晩中、布団を頭からかぶって、ただ震えるしかなかった。……叫んでも、誰も聞いてくれなくて……」
ぽろり、と彼女の目から大粒の涙が零れ落ち、俺のパーカーの生地を濡らした。
完璧を装う彼女の仮面の裏に、こんなにも孤独で、泥臭いまでの恐怖の記憶が隠されていたなんて。想像しただけで、胸の奥が締め付けられるように痛む。
「それから……それがずっとトラウマになってしまって、今でも雷の音を聞くだけで、あの時の恐怖がよみがえって、身体が勝手に竦んじゃうの……。一人でいると、あの夜に戻ったみたいに息ができなくなって……だから、どうしても耐えられなくて……稲葉君に、電話しちゃった……」
「そうだったのか……」
俺は言葉を失い、ただ彼女の背中にそっと手を回し、優しく包み込むようにさすった。
いつも学校で隙を見せず、凛として微笑んでいる彼女が、どれだけの孤独と恐怖を一人で抱え込んでいたのか。
それを知った今、彼女がどれほど勇敢に今までを生き抜いてきたのかが伝わってきた。
「お願い……稲葉君、今日は朝まで、私のそばにいて……。一人にしないで……っ」
顔を上げた彼女の瞳は涙で濡れ、縋るような熱を帯びて俺を見つめていた。
その懇願を、断れるはずがなかった。
「わかった。朝まで、ここにいるよ」
俺がはっきりとそう告げると、七条は安堵したように小さく息を吐き、少しだけその表情を緩ませた。
「君には、美味しい料理をご馳走になったからな。それに週末は一緒に過ごすってことだったし……これは俺たちの契約の範疇だ」
俺たちはリビングのソファに並んで腰掛けたまま、雷鳴が遠ざかるのを待つ間、彼女の恐怖を少しでも紛らわせるため、オンデマンドの配信サービスで映画を一緒に観ることにした。
画面に映し出されたのは、ライトな青春ラブストーリーだった。
最初は怯えていた七条も、物語が進むにつれて少しずつ落ち着きを取り戻し、時折クスリと笑うなど、いつもの穏やかな表情に戻っていった。
けれど、映画が終盤に差し掛かったその時、予想外の展開が訪れた。
主人公の二人がこれまでのすれ違いを乗り越え、互いの気持ちを確かめ合うように、突然、画面いっぱいに熱烈なキスシーンが映し出されたのだ。
「あっ……」
リビングの薄暗い空間に、ドラマチックなBGMと、登場人物たちの息遣いだけがやけにはっきりと響き渡る。
気まずい空気が、一瞬にして部屋を支配した。
それまで自然に並んで座っていたはずなのに、急に意識が互いの存在へと引き寄せられる。
横を向くと、七条の綺麗な横顔が薄明かりに照り映えていた。
彼女も気恥ずかしそうな複雑な表情で、明らかに目を泳がせていた。
「えっと……その、なんだ、いい雰囲気だな」
「う、うん……そうだね……」
耳たぶまで真っ赤に染めている七条の姿を目の当たりにして、俺の心臓も先ほどとは違う意味で激しく鳴り始めた。
学校の高嶺の花である彼女と、深夜の密室で、こんなゼロ距離でラブシーンを見せられているという事実。
既にそれ以上の関係に至っているというのに、ただのキスシーンが妙に気持ちをざわつかせる。
気まずさのあまり、どちらからともなく視線をテレビから外し、微妙な沈黙が流れる。
しかし、その沈黙ですら、妙に甘酸っぱくて心地よい緊張感を伴っていた。
その後、他愛のない雑談を交わしながら映画を見終えた頃には、外の嵐もすっかり嘘のように静まり返っていた。
いつの間にか、七条は俺の肩に頭をもたせかけるようにして、スースーと穏やかな寝息を立て始めていた。
その寝顔は、学校で見せるどの表情よりも無防備で、そして愛らしかった。
俺は彼女を起こさないようにそっと身動きを慎み、そのまま彼女の温もりを感じながら、静かに朝を迎えたのだった。
カーテンの隙間から差し込む朝日がリビングを柔らかく照らす中、目を覚ました七条は、自分が俺の肩にもたれかかって寝ていたことに気づくと、恥ずかしそうに視線をそらした。
そんな彼女の初々しい反応に、俺も思わず照れくさくなりながら朝食のトーストを一緒に食べた。
「じゃあ、そろそろ自分の部屋に戻るよ」
時計を見て俺が立ち上がり、玄関へ向かおうとしたその時、七条は真剣な眼差しで俺の袖をそっと引き止めた。
「ねえ、稲葉君。昨日も言ったように……この後、祈がこの部屋に遊びに来ることになってるから」
羽川祈の名前が出た瞬間、昨日の嵐の夜の甘い空気はスッと引き締まり、現実のルールが再び目の前に立ち塞がった。
「ああ、分かっているよ。廊下で鉢合わせたりしないように、今日はしばらく部屋から出ないようにする」
「うん、ありがとう……。面倒な詮索を避けるためにも、今日はいつも以上に慎重にいこうね」
彼女のその言葉に、俺は静かにうなずいた。
学校ではあくまで『その他大勢の地味な陰キャモブ男子』と『高嶺の花』。
けれど、この週末の夜を経て、俺と彼女の間には、他の誰も踏み込むことのできない、確かな絆と秘密が結ばれていた。




