第3話 雨音とブリ大根、そして近づく距離感
その週の金曜。
外の世界は、朝から冷たい雨がシトシトとアスファルトを濡らしていた。
低く垂れ込めた灰色の雲が街全体を包み込み、どこか憂鬱な気分にさせられるような湿った空気。
けれど、俺の胸の内は、そのどんよりとした天候とは裏腹に、温かな期待感で満たされていた。
夕方の六時半に指定されていた約束の時間が近づき、俺は自分の部屋のドアを静かに開け、すぐ隣にある202号室の前に立った。
先週のような緊張感は少しだけ和らいでいたが、それでも高鳴る鼓動を抑えることはできない。
軽く深呼吸をして、インターフォンを指先で押した。
ピンポーン、と柔らかな電子音が響いた直後、ガチャリと軽い音を立てて扉が開く。
「いらっしゃい、稲葉君」
そこに立っていたのは、エプロン姿の七条だった。
学校での隙のない『高嶺の花』としての仮面を綺麗に脱ぎ捨て、柔らかな私服に身を包んだ彼女の笑顔は、雨の日の寒さを忘れさせるほどに穏やかで綺麗だった。
「お邪魔します……って、うわ、めちゃくちゃいい匂いがする」
玄関を跨いだ瞬間、鼻腔をくすぐったのは、醤油と生姜、そして出汁が絶妙に絡み合った、深く芳醇な香りだった。
「さあ、上がって上がって。今日は料理をご馳走してあげるから」
言われるがままにリビングへと足を踏み入れると、そこはすでに温かな生活の匂いが満ちていた。テーブルの上には、湯気をあげる白米と味噌汁、そして、今日の主役が鎮座している。
席に着き、箸を手に取った俺の目の前にあるのは、しっかりと煮込まれたブリ大根だった。
飴色に輝く煮汁を纏った大根は、中までしっかりと味が染み込んでいることがひと目でわかる。添えられたブリの切り身からは、食欲をそそる芳ばしい香りが立ち上っていた。
「……すごい。これ、本当に七条が作ったのか?」
「失礼だなあ。私だって、和食の基礎くらい一通りできるんだから。さ、冷めないうちに食べてみて」
促されるまま、俺は箸で大根を一口分、丁寧に割って口へと運んだ。
瞬間──。
「っ……!」
思わず、言葉が喉の奥で詰まった。
箸でスッと切れるほど柔らかく煮込まれた大根からは、噛み締めた瞬間にじゅわりと濃厚で上品な出汁があふれ出す。生姜の爽やかな香りがアクセントになり、甘辛いタレの味が芯まで染み渡っている。魚の臭みは一切なく、ブリの旨味がこれまた絶妙に引き立てられていた。
「どう……かな?」
七条は少しだけ不安そうな、けれどどこか期待を込めた瞳で、まっすぐに俺の顔を見つめる。
その表情がなんとも愛らしくて、俺は慌てて口の中のものを飲み込み、心からの称賛を口にする。
「……めちゃくちゃ美味い。なにこれ、料亭の味かよ。大根の染み込み方が異常だぞ」
「本当? よかったぁ……。初めて作るから、ちょっと味が濃すぎないか心配だったんだ」
七条は胸を撫で下ろすように小さく息をつき、それからパァッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
学校では決して見せない、年相応の無邪気な笑顔。
その破壊力に、俺の心臓はまたしても不規則な跳ね方をする。
「和食もそつなくこなすとか、ホントに料理上手なんだな、七条は」
「実家にいた頃にお世話してくれてたお手伝いさんに一から教えてもらったんだ。それにしても、稲葉君は本当に美味しそうに食べてくれるよね。作りがいがあるなあ」
「そりゃ、実際美味しいからな。俺にとっては、世間の下手な定食屋や店で出されるものよりも、断然こっちの方が好みだし、ありがたいよ」
「大絶賛だね。そこまで言ってもらえると、作り手冥利につきるな」
彼女も自分の分の箸を持ち、上品にブリの身をほぐしながら口に運ぶ。
外で激しさを増す雨音をBGMに、静かで温かい夕食の時間が流れていく。
美味しい料理と、心地よい空間。
お腹が満たされるにつれて、心の中の緊張の糸もすっかりほぐれていった。
§
食事が終わり、七条が手際よく片付けを済ませた後、リビングのテーブルには湯気を立てる淹れたてのコーヒーが置かれた。
カップから立ち上る苦く甘い香りを楽しみながら、俺はふと、最近気になっていた疑問を口にした。
「なあ……七条。一つだけ気になってたことがあってさ」
「ん? なに? 気になることって」
七条はマグカップを両手で包み込むように持ち、首をかしげながら俺を見た。その艶やかな黒髪がサラリと肩を滑り落ちる。
「この前、学校で常磐が遊びに誘ってきただろ? あのとき、あっさり断ってたよな」
「あぁ……あのカラオケの誘いのこと?」
「そう。なんで断ったんだ? 相手はサッカー部のエースで、学年でも一、二を争うイケメンだぞ。女子の人気もすごいし、あんな奴に誘われたら普通は悪い気はしないんじゃないか?」
俺の問いかけに、七条はふっと小さく息をつき、どこか困ったような微苦笑を浮かべた。
「別に、イケメンだからどうとかは関係ないよ。……私ね、彼のあの感じ、ちょっと苦手なんだよね」
「苦手? 常磐が?」
「うん。悪い人じゃないのは分かるんだよ。誰に対してもフレンドリーだし、クラスのムードメーカー的な存在なのも知ってる。でもね……なんていうのかな、無自覚にこっちのプライベートの領域にズカズカと踏み込んで来るところがあるの。悪気がないのは分かっても、それがちょっと窮屈で……」
「あぁ、確かに……言われてみれば、そういう一面はあるよな。距離感の詰め方が上手いというか、いつの間にか懐に入り込んできてる感じがするし。俺も、ああいうタイプは少し苦手だな」
俺が率直な感想を漏らすと、七条はきょとんとした後、クスッと上品に笑った。
「ふふっ、稲葉君はそもそも人付き合い全般が苦手そうだけどね」
「……それは、まあ、否定はできないけどさ」
図星を突かれて苦笑いを返す俺に、七条は柔らかな視線を向けた。
「でも、私とはこうしてフランクに接してくれるよね」
「そりゃあ……。すでに関係を持ってしまったわけだし……。最初にセフレになってくれなんて言われた時には、ビビッてフリーズしてたぞ。なんせ学園のマドンナに不意に、だったからな」
「マドンナなんて大げさだなあ。でも、そんな私にとっては、常磐君みたいなタイプより、稲葉君の方がよっぽど付き合いやすいよ」
「あのイケメンの常磐よりも、俺の方が付き合いやすいって?」
「うん。もちろん、初体験の相手っていうのもあるけどさ。飾らないでそのままの自分でいられるのは、不思議と稲葉君の前だけかな」
その言葉の響きに、胸の奥がキュッと締め付けられる。あの完璧な七条芹愛が、学校の誰にも見せない素顔を俺に向けてくれている。
「あのイケメンよりも俺の方が、なんて……なんだかおこがましい気もするけどな」
「そんなに卑屈にならなくてもいいのに。気持ちいいセックスと美味しい料理にありつけてラッキー、くらいに気楽に思っておけばいいんだよ、私との付き合いなんて」
「そうさせてもらうよ。下手に勘違いして、自分が優れた人間だなんて思い込んだりしたら、あとで手痛いしっぺ返しを食らいそうだしな」
俺が自嘲気味に肩をすくめると、七条は「ふふっ、それもそうだね」と楽しそうに微笑んだ。
しばしの沈黙の後、七条はスッと表情を引き締め、真面目なトーンで切り出した。
「あ、そうだ。もう一つ、大事なことを言っておかないと」
「大事なこと?」
「明日はね、祈がこの部屋に遊びに来る予定なの。だから、もし明日、食事の買い出しとかで外出する時は、このマンションの廊下やエントランスで鉢合わせないように、少しだけ気をつけておいてほしいんだ」
羽川祈の名前が出た瞬間、俺は背筋をスッと正した。
「ああ、わかった。確かに、羽川に隣の部屋に俺が住んでいることを知られたら、面倒なことになりそうだしな」
「うん。色々と面倒な詮索を避けるためにも、そこは徹底しておきたいんだ。ごめんね、気を使わせちゃって」
「いいや、謝ることじゃないさ。お互いの秘密の安全のためだしな。十分に気をつけるよ」
俺がうなずくと、七条は安心したようにふわりと笑みをこぼした。
外では相変わらず冷たい雨が降り続いていたが、この温かな部屋の中だけは、まるで別世界のように穏やかな空気が流れていた。
学校での仮面と、この部屋で見せる素顔。
週末だけの、贅沢で秘密めいた関係は、身体だけでなく、静かに、二人の心の距離をも近づけていっているように俺には思えた。




