第47話 秋空の下で、体育祭の始まり
俺にとっては憂鬱でしかない体育祭の日が、ついにやって来た。
秋の爽やかな風が吹き抜けるグラウンドには、色鮮やかなテントが立ち並び、各クラスの応援旗がパタパタと誇らしげにはためいている。
早朝から登校してきた生徒たちの足取りはどこか弾んでおり、運動会特有のワクワクとした熱気と、勝利を目指す闘志が校庭全体を包み込んでいた。赤、白、青、黄の四色に分かれた生徒たちはそれぞれのシンボルカラーのハチマキを締め、気合十分の表情で開会式の開始を待っている。
そして、午前九時。本部席からの大きなファンファーレの音とともに、全校生徒がグラウンドの中央へと整列し、開会式が始まった。
校長先生のありがたい挨拶のあとは、選手宣誓の時間だ。
「宣誓!」
グラウンド中央のマイクの前に進み出たのは、白組の団長を務める男らしい体格の男子生徒だった。彼は、ピシッと背筋を伸ばし、凛とした佇まいで力強くマイクの前に立つ。
そのよく通る張りのある声が、拡声器を通じてグラウンド全体に響きわたった。
「私たちは、これまでの練習の成果を存分に発揮し、正々堂々、最後の最後まで諦めず、青春のすべてをかけて戦い抜くことを誓います!」
その堂々とした選手宣誓に、全校生徒から盛大な拍手が巻き起こる。
その様子を眺めながら、俺は「お、なかなか気合が入ってていい宣誓だな」と、胸の奥で静かに賛辞を送っていた。
§
開会式が終わり、いよいよ午前の競技が次々とスタートしていった。
徒競走や借り物競走などの種目が続き、あちこちから大歓声が飛び交う賑やかな空気が広がっていく。
そんな喧騒のなか、我が白組のテントの隅で、俺は自分の出番をのほほんと待っていた。
俺がエントリーしているのは、色別対抗の『玉入れ』のみ。気楽なものである。
「『玉入れ』に参加する生徒の皆さんは、グラウンド中央の競技エリアへ集合してくださーい!」
やがてその玉入れの時間になり、放送委員の元気なアナウンスに従い、俺はゆっくりとした足取りで、玉入れのカゴが設置されたエリアへと歩み出た。
しばらくして、競技が始まると、周囲の生徒たちは「いけー!」「もっと投げろ!」と必死の形相でお手玉をカゴめがけて放り投げ始めた。
さて、モブとしての役割を全うするとしよう。
俺は周囲の激しい勢いに巻き込まれないよう、カゴの真下ではなく、少し離れた位置に陣取った。
そして、「えい、やっ」と適度な力加減で、ポーンとお手玉を上に放り投げる。俺が投げた白い玉は、綺麗な弧を描いてポトリと白組のカゴの中へと吸い込まれていった。
おっと、入りすぎたか。慌てて次の球は少し軌道をずらし、わざとカゴの縁に当てて下に落としてみる。
周囲のクラスメイトたちが「あーー、惜しい!」「もっと密集して投げろー!」と必死に声を掛け合うなか、俺は一人だけマイペースに、いかにも運動が苦手な少年のようにモソモソとお手玉を拾い、適度な動きで時間を潰し続けた。
うん、完璧だ。これなら誰も俺の運動神経を疑うまい。
そうして無難な結果で玉入れの競技が終わると、次は『障害物競走』が始まった。
ネットをくぐり、平均台を渡って、マットの上を転がり、パンを口でくわえてゴールを目指すという、バラエティ豊かなレースだ。
グラウンドの端から、出場する生徒たちの名前が呼ばれていく。
そのなかに、ふとよく覚えのある名前が混じっていた。
「続いてのレーン、一年C組、白組、七条芹愛さん!」
えっ、芹愛が障害物競走に?
俺が慌ててテントの前に進み出て、コースのスタート地点に目を凝らしてみると、そこには、確かに芹愛の姿があった。
「位置について……よーい、ドンッ!」
ピストルの乾いた音とともに、一斉にスタートが切られる。
芹愛は、最初の難所であるネットくぐりを、低い姿勢を保ったまま、スルスルとこなし、あっという間にトップに躍り出た。
続く平均台のエリアでも、バランスを崩すことなく渡りきり、その後のパンも難なく一回のジャンプでくわえ込み、最後のスパートの直線コースに入った時には、すでに2位の選手に大差をつけてぶっちぎっていた。
「うわ、早いっ……!」「さすが七条さん、すげえ!」
グラウンドのあちこちから、驚きと称賛の歓声が沸き起こる。
芹愛はそのままの勢いを一切緩めることなく、風を切るようにトップでゴールテープを勢いよく破った。
そうしてゴールしたあと、彼女は少しだけ息を弾ませながら、嬉しそうにはにかんだ。その額に滲んだうっすらとした汗が、秋の陽光に照らされてキラキラと輝いている。
さすがは運動神経も抜群の芹愛。ああして堂々とグラウンドを駆け抜ける彼女の姿は、息をのむほどカッコよくて美しかった。
そんな彼女の活躍に、俺はテントの隅から、そっと拍手を送って胸を熱くしていた。
§
各組による華やかな応援合戦を最後に午前の部が終了し、プログラムの合間の『昼休憩』に入った。
午前中の競技で心地よい汗を流した生徒たちは、それぞれのグループごとにテントや木陰に分かれ、持ってきたお弁当を広げ始めている。
そんな中、俺は校舎裏手の木漏れ日が心地よく差し込む静かな木陰のスペースへと足を向けた。
そこには、すでにレジャーシートが広げられており、ランチタイムを共にするメンバーが集まり始めていた。
「お疲れ様、奏介君」
「稲葉君、お疲れー」
明るい声をかけたのは、先に来て大きな二段重ねのお弁当箱を前に待っていた芹愛と羽川だ。
「二人とも、午前中の応援合戦お疲れ様。めちゃくちゃ目立ってたぞ」
俺がそう言うと、芹愛は恥ずかしそうに両手で自分の頬を軽く押さえた。
「もう……恥ずかしかったよぉ……。全校生徒にあんな格好で見られるなんて……」
「嘘だぁ、芹愛めちゃくちゃノリノリで踊ってたじゃん! 私知ってるんだからね!」
羽川がニヤニヤしながら横から茶々を入れると、芹愛は「祈のいじわる……!」とむっと頬を膨らませた。
そんな賑やかなやり取りをしながら、俺はレジャーシートに腰を下ろした。
すると、こちらに近づいてくる一人の少女の姿があった。
芹愛の異母妹である瑞姫だ。
「お疲れ様、瑞姫。せっかくだから、一緒にお昼どうだ?」
俺が声をかけると、瑞姫は少しだけツンとした様子でそっぽを向きながらも、俺の隣に腰を下ろした。
「……別に、あなたたちのところにわざわざ来たわけじゃないわよ。ただ、他は日差しが強かったから、日陰で少し休もうと思っただけなんだからね」
そのツンデレな物言いに、羽川が「はーいはい、そういうことにしとこーねー!」と楽しそうに笑う。
それに続くように、木陰の小道のほうから、お洒落なカジュアルスーツに身を包んだ女性が優雅に歩いてきた。
芹愛の母親である真中さんだ。
「お待たせ、みんな。遅くなってごめんなさいね」
彼女は今日、仕事が奇跡的にオフになったらしく、どうしても娘の晴れ舞台である体育祭を一目見たくて、一般観覧の保護者として駆けつけてくれたのだ。
「お母さん。来てくれてありがとう」
芹愛はパッと顔を輝かせ、嬉しそうに母親を迎えた。
「ええ、せっかくの愛娘の晴れ舞台だからね。障害物競走も、さっきの可愛いチアガールのダンスも、ちゃんと特等席で見せてもらったわ。本当によく頑張っていたわね、芹愛」
お母さんは愛おしそうに芹愛の頭を優しく撫でてあげた。その温かな親子のやり取りを、他の皆で微笑ましく見守る。
「さてそれじゃあ、お昼にしようか。私、朝から気合入れて作ってきたんだ」
芹愛は嬉しそうに微笑むと、二段重ねのお弁当箱の包みを丁寧にほどき、パカッとその蓋を開けた。
お弁当箱のなかには、芹愛自慢の彩り鮮やかなおかずが綺麗に詰められている。ジューシーな唐揚げに、卵焼き、海老のソテー、色とりどの野菜のピクルス、そして一つひとつが丁寧に握られた可愛らしいおにぎりたちなど。
「うわぁ……! すごい、めちゃくちゃ美味しそう……!」
羽川は目を輝かせ、両手を合わせて「いただきまーす!」とさっそく唐揚げに手を伸ばした。
「んーーっ! 美味しいっ! 外で食べる芹愛の手作り弁当、最高すぎでしょこれ!」
「ふふ、よかった。多めに作ってきたから、遠慮しないでいっぱい食べてね」
芹愛が嬉しそうに微笑むと、真中さんもお箸を取り、卵焼きを一口食べて「本当ね、すごく優しい味がして美味しいわ」と賞味した。
そんな和やかな食事のなか、ふと羽川が、隣に座っていた瑞姫のほうへと顔を向けた。
「そういえばさっきの午前の部でさ、私、すっごく可愛いものを見ちゃったんだよねー!」
「……何よ、急に。にやけた顔して」
瑞姫が少し警戒するように眉をひそめる。
「いやさ、瑞姫も障害物競走に出てたけど、瑞姫、自分の背丈より少し上に吊るされたメロンパンをゲットするために、その場で何度も一生懸命ピョンピョンってジャンプしてたでしょ? あの必死に背伸びしてる姿が、もう子猫ちゃんみたいでめちゃくちゃ可愛かったなーって思ってさ!」
その羽川のからかうような発言に、瑞姫の顔が一気に真っ赤に染まる。
「ッ……!! なっ、何変なこと言ってるのよ、祈……ッ!!」
瑞姫は照れ隠しのように、羽川の肩をバシッと軽く叩いた。
「べ、別に必死になんかなってないしっ! ただ、あのパンの位置が意地悪な高さに吊るされてたから……ちょっとだけ、必死にならざるを得なかったってだけよ!」
「はーいはい、そうですねー!」
羽川はケラケラと楽しそうに笑いながら、悪びれる様子もなくおにぎりを頬張る。
「でさ、最後にやっとパンをくわえ取ったあと、周りを見回して『誰も見てないわよね……?』って感じでコソコソ確認してたの、私、しっかり目撃してたからねー!」
「ぅっ……うるさい! もう二度とその話はしないでちょうだい!」
瑞姫は拗ねたように、小さくうずくまってしまった。
その可愛らしいリアクションに、俺は思わずクスリと笑ってしまう。
そんな賑やかなやり取りを、温かい眼差しで見守っていた真中さんは、グラスの麦茶を一口飲んでから、穏やかな声で呟いた。
「……ふふっ。本当に、みんな仲がいいのね。こうして一緒に集まって、お互いのドジを笑い合ったり、美味しいお弁当を分け合ったりして……。見ていて、なんだかすごく胸が温かくなるわ」
「うん……そうだね、お母さん。私、今本当に毎日が楽しくて……。学校には大好きな友達がいて、家にはお母さんがいて……そして……」
芹愛は言葉を途中で少しだけ濁し、チラリと隣に座る俺のほうへと視線を滑らせた。
その瞳に込められたメッセージを、俺はしっかりと受け止め微笑み返した。
「ほんとうに、素敵な仲間たちに囲まれているわね、芹愛。お母さん、安心して見ていられるわ」
と真中さんが感慨深げに目を細める。
この賑やかで優しい時間が、これからの未来もずっと続いていくようにと願いながら、俺は芹愛の美味しい手料理の味を噛み締めていた。




