第46話 疾走するモブと暴かれた仮面
日曜日である今日は、地方ロケに行っていた真中さんが帰ってくる日だ。
数日ぶりの再会となるその日、朝から俺たちは芹愛の部屋で少しだけ落ち着かない時間を過ごしていた。
真中さんから事前に「ロケの疲れを癒やすついでに、三人で美味しいものでも食べに行きましょう。素敵なお店を予約しておくから」と連絡が入っていたのだ。
「奏介君、このシャツの襟、変じゃないかな……? おかしなところはない?」
リビングの鏡の前に立ち、自分の服装を何度も気にしながら首をかしげる芹愛は、どこかソワソワと落ち着かない様子だった。
今日の彼女は、清楚な白いブラウスにふんわりとした秋色のチェックスカートといういでたちで、いつも以上に可憐な雰囲気をまとっている。真中さんとの母娘関係を取り戻して以来、彼女の表情は本当に豊かになり、時折見せるこうした年相応の初々しさがとても愛おしかった。
「大丈夫だって、すごく似合ってるよ。真中さんもきっと褒めてくれるさ」
俺が微笑みを向けながら声をかけると、芹愛は「そっか……よかったぁ」とホッとしたように胸を撫で下ろした。
それからほどなくして、玄関のチャイムが鳴り帰宅した真中さんが顔を見せた。
「お待たせ、二人とも準備はいいかしら?」
その問いに、俺と芹愛は頷きを返し、こうして俺たちは、三人並んでマンションを出発したのだった。
§
予約しているというレストランの店舗があるエリアは、駅から少し離れた落ち着いた商業地区で、綺麗に舗装された歩道の脇にはイチョウ並木が色づき始めていた。休日ということもあり、通りには家族連れや買い物客の姿がちらほらと見受けられ、どこかのんびりとした穏やかな空気が流れている。
「予約しているお店は、ここをまっすぐ抜けた大通りのすぐ裏手にあるの。個室をとってあるから、ゆっくりお話しできるわ」
トレンチコートを上品に翻しながら先導する真中さんが、満足げに微笑んだ。
その隣を歩く芹愛は、真中さんの腕にそっと自分の腕を絡ませ、嬉しそうに楽しげな話題を振っている。後ろを歩く俺は、その仲睦まじい親子の後ろ姿を眺めながら、温かい気持ちになっていた。
あの日、真中凛花というトップ女優の仮面の裏にあった孤独と葛藤を知り、そしてすべてが氷解した今、こうして三人で並んで休日を過ごしていることが、まるで嘘のように奇跡的で、そして確かな現実として胸に染み込んでいく。
けれど、そうしているのも束の間、不意に、その平和な空気を切り裂くような、甲高い女性の叫び声が響き渡った。
「きゃあああっ! 泥棒っ! 誰か、捕まえて! バッグが……引ったくりよっ!!」
びくりと背筋が震えるような緊張感が走る。
声のしたほうへ一斉に視線を向けると、五十代ほどの上品な女性がその場にしゃがみ込み、青ざめた顔で前方角を指差して叫んでいた。
その視線の先、俺たちの十数メートル先にある交差点のほうから、黒いパーカーのフードを目深にかぶった男が、女性物の高価そうなハンドバッグを片手に、ものすごいスピードでこちらに向かって逃走してくるのが見えた。
「うわっ……!」
「きゃっ、危ない……!」
周囲にいた歩行者たちが驚いて左右へと跳び退き、道行く人々がパニックに陥る。
引ったくり犯は息を荒くしながら、俺たちの目の前の歩道を、一目散に突っ切ろうと全速力で走り込んできた。
「芹愛、真中さん、危ない!」
俺は反射的に声を張り上げ、芹愛と真中さんの体を自分の背後へとグイッと引き寄せた。
「っ……!」
直後、犯人が目の前を通過していく。
その蛮行を働いた相手を前に、身体が、勝手に動いていた。
逃がすかよ。
俺は地面を強く蹴りつけ、爆発的な加速で飛び出した。
逃走する引ったくり犯との距離を猛烈な勢いで詰め寄る。
「なっ……!?」
後ろから突然猛追してきた気配に気づいた犯人が、振り返ろうと顔を引きつらせたその時には、すでに遅かった。
俺は勢いのままに、犯人の背中へとダイレクトにタックルをかました。
その俺の体当たりをモロに受けた犯人は、受け身を取る間もなく、前のめりに派手に路上へと叩きつけられた。
「ぐあっ……!?」
手からハンドバッグが離れ、犯人が苦悶の声を漏らす。
ここで逃がすわけにはいかない。
反撃される隙を一切与えず、俺は素早く馬乗りの姿勢へと移行し、暴れようとする犯人の右腕をガッチリと掴み取ると、躊躇うことなく流れるような一連の動作で関節技へと持ち込んだ。
「いっ……! 痛い、痛い痛いっ……! 折れる、腕が折れるぅぅっ!」
全体重を乗せたまま腕の関節をきっちりと極められ、犯人は絶叫に近い声を上げた。完璧な制圧ポジションに持ち込まれたことで、犯人から瞬く間にすべての戦意が失われていく。
「おい、そこまでだ。大人しくしてろ」
俺が冷ややかな目を向けながら低く抑え込んだ声でそう告げると、犯人は「もう動きません……! 降参です、勘弁してください……!」と、完全に白旗を上げた。
パトカーのサイレンの音が、遠くから近づいてくる。
騒ぎを聞きつけたのだろう。
やがてパトカーから降りた二人の制服警官が息を切らしながらものすごい勢いで走ってきた。
「そこまでだ、動くなっ……! 警察だ!」
「よし、確保したぞ。そこの若いお兄さん、怪我はないか?」
駆けつけた警官たちが、完全に動けなくなっている犯人に素早く手錠をかけ、確保する。
「はい、怪我はありません。この男が、あそこの女性のバッグをひったくった犯人です。被害品のバッグもここにあります」
俺が淡々と事情を説明しながら立ち上がると、警官の一人は感心したように大きく頷いた。
「見事な制圧だったな……! プロの格闘技でもやってるのか? 助かったぞ、協力感謝する!」
あっという間に野次馬が取り囲み、「すごいな、あの高校生が一瞬で犯人の動きを封じたぞ」「カッコいい……!」と、あちこちから驚きと賞賛のざわめきが起こり始めた。
まずい……! これ以上ここに長居したら、通行人から質問攻めにあったり、やたらと目立ってしまう……!
俺は、野次馬たちの視線が集まる前に、すぐ近くの歩道でポカンと口を開けて突っ立っていた芹愛と真中さんのもとへと、そそくさと駆け戻った。
「さ、行くぞ二人とも! 野次馬が増える前にここを離れるんだ!」
「あ、うん……!」
まだ少し現実が追いついていない様子で目を丸くしていた芹愛の小さな手をそっと引き、俺たちは足早にその場から離脱し、目的地のレストランへと急ぎ足で向かったのだった。
§
喧騒を無事に振り切り、俺たちは無事に予約されていたレストランの個室へと案内された。
その洗練された空間のなかで、俺はふうっと小さく息をつきながら、二人とともに席に腰を下ろした。
そうして、注文を済ませ、冷たいお水で喉を潤したあと、真っ先に口を開いたのは芹愛だった。
彼女はじっと俺の顔を見つめながら、少しだけ頬を膨らませた。
「ねえ、奏介君……」
「ん? どうしたんだよ、芹愛。急にそんな顔して」
「あのさ……この前の体育祭の種目決めの時、私が『足速いの?』って聞いたでしょ? その時、奏介君、『いや、普通だぞ』って答えたよね?」
「あぁ、言ったな。そんなこともあったっけ」
「あれ、嘘でしょ……?」
芹愛のその鋭いツッコミに、俺は少しだけ言葉に詰まった。
「いや、嘘って言うかだな……」
「嘘だったじゃない! さっきの動き、あれのどこが『普通』なの!」
芹愛が身を乗り出し、抗議するように声を荒らげる。
「ものすごいスピードで走って、一瞬で犯人に追いついて、一瞬で拘束して……あんなの、普通の高校生の動きじゃなかったよ!」
「まあまあ、芹愛、そんなに責め立てないであげてちょうだい」
隣に座っていた真中さんが、上品にクスリと笑いながらグラスを置いた。
「でも、私も同意見だわ。ねえ、奏介君、ほんとのところはどうなの?」
真中さんは切れ長の美しい瞳を細め、どこか見透かすような鋭い眼差しで俺を見つめた。
「まあ……速いか遅いかでいえば、足は速い方でしょうけど……」
俺は気まずそうに頭をかき、視線を逸らしながら答えた。
「謙遜上手ねぇ。あの初動の爆発的な加速、そして迷いのないタックルからの関節技での制圧。あれはただ足が速いだけのレベルじゃないわ。まるで鍛え上げられたアスリートや格闘家の動きそのものだったもの。陸上部の記録保持者ですって言われても、私なら何の疑いもなくうなずける走りだったわよ」
「ほんとうだよ! あんなに足が速くて運動神経抜群なら、どうして体育祭の希望調査票で『玉入れ』かなんて地味な種目を選んでたの!」
芹愛が不満そうにほっぺたをさらにぷくっと膨らませる。
「あんなに速いなら、クラスの代表として『色別対抗リレー』の選手にでも選ばれればよかったのに……絶対大活躍できたはずだよ!」
リレー、か。
全校生徒の視線が一身に集中し、校庭中の大歓声を浴びる自分の姿が脳裏に浮かび上がってきた。鳥肌が立つほどに、おぞましい光景だった。
「知ってるだろ、芹愛。俺は極力目立ちたくないんだよ」
俺はため息をつきながら、やれやれといったトーンで返した。
「ああいう全校注目のリレーなんてのは、常磐みたいな華やかなイケメンスポーツマンの役目だろ。俺みたいな地味なモブ男子が出しゃばったら、ブーイングが起きちまうよ。静かに玉を投げて終わるのが、俺の平穏なモブライフにとって一番の幸せなの」
「もう……! 奏介君はいつもそればっかり!」
芹愛が呆れたように大きなため息をつく。
「せっかくのカッコいい見せ場なのに、もったいないなぁ。ねぇ、お母さんもそう思わない?」
「そうねぇ……」
真中さんは楽しそうに微笑みながら、紅茶のカップに口をつけた。
「世間の目から隠れて地味に生きるのも悪くないけれど、いざという時に大切な人を守るためにその強さを使えるというのは、とても素敵で誇らしいことだわ。ね、奏介君?」
その、すべてを見透かしたような、それでいてどこか温かみのある真中さんの言葉に、俺は思わず苦笑いを返すしかなく、ただ「……ありがとうございます」と小さく感謝するにとどめた。
その後のレストランでの食事は、先ほどの引ったくり騒動の緊張感もすっかり消え去り、終始和やかで笑いの絶えない幸せなひとときとなったので、まあプラマイゼロということにしておこう。




