第45話 湯気の向こうの温もりと、ほどけない絆の夜
秋も深まり冷え込む週末の夕方、俺はマンションの廊下を歩き、隣の202号室のドアの前に立った。
チャイムを押してしばらく待つと、カチャリと軽やかな音を立ててドアが内側へと引かれた。
「いらっしゃい、奏介君」
エプロンを身にまとった芹愛が出迎えてくれた。結ばれた黒髪がふわりと揺れ、彼女の纏う柔らかな雰囲気が、一日の終わりに溜まった疲れをスッと癒やしてくれる。
今夜、この部屋に母親である真中さんの姿はない。ドラマのロケのため数日間の泊まりがけで地方へ出向いているため、今日の夜はまた、かつてのように二人きりの静かな時間が戻ってきていた。
「ああ、お邪魔するよ、芹愛」
俺が靴を脱いで上がり、リビングへと足を踏み入れると、ダイニングテーブルには、すでに大きな土鍋がドンと置かれていた。部屋中に満ちているのは、昆布と鰹節の出汁がしっかりと染み込んだ、どこか懐かしくそして最高に食欲をそそる芳醇な香りだった。
「この匂いは……今夜のメニューはおでんか」
俺が見当をつけると、芹愛はおたまを片手に誇らしげに胸を張った。
「ふふ、そうだよ。最近すっかり寒くなってきたでしょ? だから、体の中から温まってほしくて、朝からコトコトと仕込んでおいたんだ。味もしっかり染み込んでるはずだから、楽しみにしててね」
そう言う彼女に促されるままテーブルにつき、俺たちはさっそくおでんを小皿に取り分けていった。
取り分けられたお皿のなかでは、じっくりと出汁を吸い込んだ大根が琥珀色に透き通り、結び白滝、しっかりと味が染みた厚揚げ、竹輪、そしてほろほろと柔らかそうな牛すじ串が湯気を立てている。
「それじゃあ、冷めないうちにいただこう。いただきます」
「いただきます」
箸を割り、まずは一番の醍醐味である大根を一口大に割って口に運ぶ。
瞬間、ハフハフと小さな息を漏らしてしまうほどの熱いスープとともに、出汁の優しい旨味が口いっぱいにジュワッと広がった。噛み締めなくてもすっと崩れていくほど柔らかく煮込まれた大根は、まさに絶品だった。
「ん……! めちゃくちゃ美味い……。出汁が中までしっかり染みてて、冷えた体に染みるよ、これ」
俺が率直な感想を告げると、芹愛は「ほんとう? よかったぁ……!」と、笑みを浮かべた。
「スーパーでいい大根を選んできて、下茹でもしっかりしたんだ。奏介君にそう言ってもらえると、朝から頑張って仕込んだ甲斐があったよ」
彼女も自分の小皿から大根を一口食べ、美味しそうに目を細めている。
この素朴だけれどかけがえのない穏やかな時間が、俺たちの胃袋と心を優しく満たしていく。
ふと、湯気の向こうで、芹愛が箸を止め、俺の顔をじっと見つめた。
「ねえ、奏介君」
「ん? どうした、芹愛」
「あのさ、この前の体育祭の種目決めの時も思ったんだけど……奏介君って、いつも喧嘩の時とかすごく腕っぷしが強いじゃない? 黒崎君の連れの大きな不良も一発でノックアウトしちゃったし……それって、足もすごく速かったりするの?」
足の速さ、か。
予想外の方向からの質問に、俺は思わず箸を止めて苦笑いを浮かべた。
「いや、別にお前の期待を裏切るわけじゃないけど……俺の足の速さは、いたって普通だぞ。クラスでも真ん中くらいか、良くて中の上ってところだろうな」
「えっ、そうなの……?」
芹愛は意外だとばかりに目を丸くした。
「もっとこう、運動神経が抜群で、リレーの選手に選ばれるようなタイプなのかと思ってた。だって、あんなに身のこなしが軽やかだし、いざという時にすごく頼りになるから……」
「運動神経が抜群っていうか、以前空手を習ってたってだけだよ。足が特別速いわけじゃない」
肩をすくめてそう答える。
「そっか。奏介君のことだから、きっと足も風のように速いのかと思ってた」
「そういえばさ、芹愛。お前こそ、応援団の方はどうなんだよ。確か、体育祭で応援合戦やらないといけないんだろ?」
その質問を投げかけた瞬間、芹愛の動きがピタリと止まった。
彼女の頬が一気に真っ赤に染まり、持っていた箸がカチャリと茶碗のふちにぶつかる。
「うっ……! そ、それを聞かないでよ、奏介君……!」
芹愛は両手で顔をパッと覆い、恥ずかしさのあまり小さく身悶えし始めた。
「応援合戦って……ただ大声でエールを送るだけじゃなくて、応援団の女子全員で、その……『チアガールの衣装』を着て、みんなの前でポンポンを持って踊らなきゃいけないんだよ……!」
「チアガール……?」
俺は思わず目を瞬かせた。
普段は凛としたお嬢様として隙のない芹愛が、ヒラヒラとしたチアガールの衣装に身を包み、ポンポンを持ってポンポンと飛び跳ねながら踊る姿。
それを想像しただけで、思わず鼓動が速まる。
「絶対に変だよ! 全校生徒の視線が一斉に集まるなんて、考えただけで恥ずかしすぎるし……! なんであの時祈の誘いを断らなかったんだろうって、今でも後悔しきりだよ……」
そんな彼女の恥じらう姿を見ていると、ちょっといじわるしてやりたい気持ちがもたげてきた。
「でも、すごく、似合うと思うけどな」
「そんなの、絶対にお世辞だよ……! あんな可愛い格好、私には似合わないし、みんなの前で恥をかくだけだもん……」
「お世辞なんかじゃないって。お前のその整った顔立ちと、スラッとしたスタイルなら、どんな衣装だって完璧に着こなせるに決まってる。学校中の男子が全員お前に釘付けになって、白組の勝利どころじゃない大騒ぎになるかもしれないぞ」
俺が手放しにそう褒めると、芹愛の顔はさらに真っ赤に染まり、彼女は「もーーっ! 奏介君のいじわる……!」と、近くにあったおしぼりを丸めてぽんと俺の胸元に投げつけてきた。
俺はそんな芹愛を見ながら、声を上げて笑った。
§
美味しいおでんを綺麗に平らげ、片付けを終えたあと、俺たちはリビングのソファに並んで座り、続けて穏やかな時間を過ごしていた。
窓の外の夜空には、秋の澄んだ空気に映える白い月がぽっかりと浮かんでいる。部屋の中は温かな暖房が程よく効いており、心地よい静けさが漂っていた。
真中さんがいないこの部屋で、二人きりで過ごす夜。
その事実が、自然とお互いの距離を近づけ、空気を甘い熱へと変えていく。
「……奏介君」
並んでソファに座っていた芹愛が、ふと小さく掠れた声で俺の名前を呼んだ。
彼女の顔はわずかに上気しており、その潤んだ瞳は、言いようのない切なさと熱を帯びて俺をじっと見つめている。
言葉はなくとも、彼女が何を求め、何を考えているのかは手に取るようにわかった。
「……行こうか」
俺が静かに囁きながら手を差し出すと、芹愛は恥ずかしそうに微笑み、その手をしっかりと俺の手のひらに重ね合わせた。
俺たちはゆっくりと立ち上がり、お互いの体温を確かめ合うようにして、そのまま静かなベッドルームへと足を踏み入れた。
部屋の明かりを下げ、二人静かに抱き合う。
服がゆっくりと床に滑り落ち、お互いの素肌が露わになる。重なり合う肌と肌が、驚くほど熱く、溶け合うように体温を分かち合っていく。
「ふぅ……っ……、奏介君……」
芹愛の細く引き締まった身体を抱きしめ、唇を重ね合わせる。
甘く、そしてどこか切なさを伴う口づけのなかで、お互いの息が一つに重なり合っていく。
もう、これで何度目だろうか。
互いの吐息の音だけが聞こえる薄闇のなかで、俺はふとそんなことを考えていた。
初めて身体を重ね合わせたあの日の、戸惑いと不安に満ちていた夜から始まり、こうして幾度となくお互いを求め合ってきた。
不思議なことに、身体を重ね合わせる回数を重ねれば重ねるほど、慣れが生じるどころか、むしろ芹愛への想いは募るばかりだった。
以前の俺なら、この胸の昂りを必死に押し殺し、自分の心に分厚い蓋をしていたはずだ。
どうせ、芹愛はいずれ父親の決めた政略結婚の道具として、見知らぬ誰かのもとへ嫁いでいく身なのだから。
俺のような地味なモブ男子が、彼女のような高嶺の花を本当に愛していいはずがない。
そんな諦めと自己防衛の壁を作り、彼女への想いがこれ以上深くならないように、必死で自分にブレーキをかけていた。
けれど、今はもう違う。
彼女は自分の手で父親と縁を切り、自分を縛り付けていた政略結婚の呪縛もすべて白紙に戻した。
まだ法律上の手続きは終わっておらず、真中さんに親権が移るのはまだ当分先のことになるだろうが、裁判で負ける確率は低いだろうとのことだった。
おかげで彼女は今、こうして俺の腕のなかで、心の底から安心したように穏やかな微笑みを浮かべている。
だからこそ、もう心の蓋を閉じ続ける必要なんてどこにもなかった。
「奏介君……もっと、強く抱きしめて……私を感じさせて……っ!」
芹愛の潤んだ瞳が暗闇のなかで妖しく、そして愛おしく光り、掠れた声で俺の名を呼ぶ。
その熱を帯びた吐息が肌を撫でるたび、残っていたわずかな理性の糸さえも、心地よい音を立ててちぎれていった。
俺は彼女の細く美しい身体をさらに強く引き寄せ、すべての感情をぶつけるように深く、深くへと沈み込んでいく。
幾重にも重なり合う呼吸、肌と肌が擦れ合う微熱、そしてお互いの鼓動が狂おしいほどのテンポで一つに重なっていく。
幾度もの甘美な波が押し寄せ、それがゆっくりと引いていくのを感じながら、俺たちはもつれ合うようにしてシーツの上で静かに息を整えた。
芹愛は満足したように微笑みながら、俺の胸元にそっと顔をうずめ、すやすやと心地よさそうな寝息を立て始めている。
その無防備で愛おしい寝顔を見つめながら、俺は優しくその髪を撫で続けた。
いつか、この想いを芹愛に伝えたい。
ただの『隣人』でも、『秘密の共有者』でもなく。
一人の女性として、心から愛しているという真実を、自分の言葉で、まっすぐに彼女に伝えたい。
その決意を胸の奥に深く刻み込みながら、俺は静かに目を閉じ、彼女の温もりを感じ取りながら、穏やかな眠りの中へと落ちていった。




