第44話 体育祭に向けて
十月も中旬に差し掛かり、季節は本格的な秋へと移り変わっていた。
朝晩の空気には肌寒さが混じり、登下校時にすれ違う並木道の木々は、少しずつ赤や黄色へとその装いを変え始めている。
芹愛と母親である真中さんとの同居生活が始まってからというもの、俺たちの日常は驚くほど穏やかで、確かな温もりに満ちていた。
忌まわしい過去の呪縛や、世間を揺るがせたスキャンダルの影はすっかり消え去り、芹愛の纏う空気は以前よりもずっと軽やかで、どこか柔らかい光を帯びていた。
学校での『完璧なお嬢様』としての気高さを崩さないのは相変わらずだ。
けれど、ふと目が合った時に見せてくれる柔らかい微笑みや、廊下ですれ違う瞬間の嬉しそうな表情は、間違いなく彼女が自分の足で新しい未来を歩み始めた証拠だった。
そんな穏やかな日常のなか、白峯高校は、新たな学校行事の足音に包まれ始めていた。
十一月初旬に控える、全校生徒参加の一大イベント──『体育祭』である。
§
一年Cクラスの教室には、ワクワクとした高揚感と、クラスメイトたちの賑やかな声が満ちていた。
窓から差し込む秋の柔らかな西日が、黒板に書かれた『体育祭種目決め』という白い文字を照らし出している。
「えー、それではこれより、来月頭に迫った白峯高校体育祭の、我が1-Cにおける各種目へのエントリーを決定しまーす!」
教壇の真ん中に立ち、クラスの旗振り役である委員長が、大きな声で宣言した。
その言葉を合図に、教室のあちこちから「よっしゃ、今年はリレーで絶対目立ってやる!」「私、応援団やってみようかなー」といった、楽しげな意見や笑い声が一斉に湧き上がった。
俺といえば、いつものように前髪を深く下ろし、目元を覆った『地味な陰キャモブ男子』の仮面をしっかりと装着したまま、自分の席の隅っこで教科書をぼんやりと眺めていた。
クラスの中心で大声援を浴びながらリレーを走るような陽キャのポジションでもない。こういう全校行事の時は、いかに目立たず、いかに平和に自分の担当種目をこなし、静かにやり過ごすかが最優先事項だった。
「ねえねえ、芹愛はどの種目に出るの?」
横の方で、ポニーテールを元気に揺らしながら、羽川が目を輝かせて振り返る。
「うーん、私はまだ決めてないの。どれにしようかなって考えてたところで……」
芹愛が少し困ったような笑みを浮かべながら首をかしげる。
「もう、迷ってるヒマなんかないって! こういう行事はさ、思いっきり楽しまなきゃ損損!」
羽川は自分の調査票を威勢よくパタパタと振りながら、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「ちなみに私はさっき、もうすでに決めたもんねー!」
「え? 祈は何にエントリーするつもりなの?」
「借り物競走。それと応援団だよ、応援団!」
祈が自信満々に胸を張る。
「だってさ、全校生徒の前で大声出してエールを送るのって、めちゃくちゃカッコいいじゃん? 運動神経に自信がなくても、声のデカさと気合だけで勝負できるし、最高に目立てる最高のポジションだと思ってさ!」
「なるほど……祈らしい、すごくエネルギッシュな選択だね」
芹愛がクスリと上品に笑う。
「でしょでしょ? でね、実は私、一人じゃ寂しいから、芹愛も一緒に巻き込んじゃおうと思ってねー!」
「えっ……!?」
芹愛が目をパチクリさせ、驚いたように親友を見つめた。
「ちょっと待って、祈、私応援団なんて……!」
「いいじゃん! 一緒にやろうよ! 思い出作りの一環だと思ってさ!」
羽川がウインクしながら、グッと親指を立ててサムズアップしてみせる。
「もう……祈は相変わらず勝手なんだから……」
芹愛は呆れたように大きなため息をつきつつ、困ったような微笑みを浮かべて自分の頭を軽く押さえた。
「でも……応援団、かぁ。私に務まるかな……今まで一度もやったことないから、少し不安だな……」
「大丈夫大丈夫! 芹愛のその凛とした綺麗なお顔立ちと、清楚な佇まいは、応援団のハチマキと法被を絶対に着こなせるから! 全校生徒の視線が釘付けになること間違いなしだって!」
羽川のその強引で、けれど決して憎めない熱量に押され、芹愛は躊躇いがちながらも、小さく首を縦に振った。
そのやり取りを少し離れた席から眺めながら、俺は心の中で「さすがは羽川、相変わらず容赦ないな」と苦笑いを漏らしていた。
だが、同時に想像してみる。全校生徒の注目を集める応援団の団員として、ハチマキを締め、凛とした姿勢で声を張り上げる芹愛の姿を。
絶対に、似合うに決まっている。あの白峯祭のメイド喫茶の時と同じように、彼女が本気を出せば、学校中の視線を一瞬で奪っていくことだろう。
そんなことを考えていると、教壇の委員長が再び大きな声を張り上げた。
「えー、ちなみに今年の1-Cは『白組』になりまーす!」
委員長のその宣言とともに、教室のあちこちから「お、白組か!」「よし、優勝目指そうぜ!」という声が上がる。
白峯高校の体育祭は、全学年を赤組、白組、青組、黄組の四つに分け、総合得点を競い合うシステムになっている。
俺たちの1-Cは、今年は『白組』の一員として競い合うことになったらしい。
「白組だって、芹愛! 私たちが応援団として白組を全力で引っ張って、優勝旗を絶対にもぎ取ろうね!」
羽川が声を弾ませながら、ガッツポーズを作る。
「うん、そうだね。白組の皆と協力して、頑張ろう!」
芹愛も力強く頷き、その瞳に闘志とワクワクした光を灯した。
§
教室のあちこちで種目決めの話し合いがさらにヒートアップするなか、俺は自分の手元にある希望調査票の用紙をじっと見つめていた。
走る系の個人競技や、華やかな団体競技の名前には、当然のように俺のペンが伸びることはない。
クラスのモブとして、できる限り存在感を消し、かつ誰の迷惑にもならず、無難にポイントを稼げる種目──そう、それこそがあの競技だ。
「よし、俺はこれにしよう」
俺はそっとペンを動かし、希望種目の欄に『玉入れ』と丁寧に書き込んだ。
玉入れなら、みんなでわいわいとカゴに向かってお手玉を放り投げるだけだし、個人の得点がそこまでダイレクトに勝敗を分けることも少ない。何より、大勢の中で紛れ込むことができるため、目立ちたくない俺にとってはこれ以上ないほど完璧な選択肢だった。
「稲葉君、何にしたの?」
不意に、隣からよく通る明るい声が降ってきた。
ビクリと肩を揺らしながらそちらを向くと、いつの間にか席を離れて俺の近くまでやってきていた羽川が、覗き込むようにして立っていた。
「驚かせないでくれよ、羽川。……別に、大したもんじゃない。見ての通り、無難に玉入れだよ」
俺が答えると、羽川は「えー、玉入れ?」と大げさに首をかしげた。
「もったいないなぁ! せっかくの体育祭なんだから、もっとこう、障害物競争で粉まみれになるとか、二人三脚で誰かとガッチリ組んで転げ回るとか、そういう青春っぽい種目にすればいいのに!」
「丁重にお断りするよ。俺は静かに玉を投げて、静かにポイントに貢献したいんだ。そういう派手なイベントは、羽川や常磐みたいな陽キャの皆にお任せするさ」
俺がため息をつきながらそう返すと、羽川は「もう、稲葉君は相変わらず地味なんだからぁ!」と楽しそうにケラケラと笑った。
そうしていると、そのやり取りを聞いていたらしい芹愛が、スッと俺たちのほうへ歩み寄ってきた。
以前は俺たちは、学校では他人のふりをしていた。
けれど、学園祭で仲良くしているところをクラスメイト数人に見られていたようなので、開き直ってこれからはある程度近しい間柄の友人として接するように話し合って決めたのだ。
その芹愛は、俺の手元にある調査票をそっと覗き込み、ふっと柔らかく微笑んだ。
「玉入れ、なんだね」
「ああ。芹愛は応援団で忙しいんだろ? 俺はのんびり玉でも投げておくよ」
「うん……でも、玉入れも、みんなで協力してカゴを狙うから、すごく楽しそうだよね。私も、奏介君の玉入れの勇姿、しっかり見ておくからね」
「い、いや、そんな大げさなもんじゃないって……。ただのお手玉投げだぞ」
「ううん、大げさなんかじゃないよ。クラスの皆と一緒に頑張る姿、私にとってはすごく大切なものだもん」
芹愛はまっすぐに俺の目を見つめ、そう言って誇らしげに微笑んだ。
その無邪気で、確かな愛情がこもった眼差しに、俺は気恥ずかしさから思わず目を逸らし、「……勝手にしろよ」と小さく呟くしかなかった。
そんな俺たちのやり取りを、羽川は「ふーん……?」と意味深な、どこか面白がるような鋭い視線で見つめながら、ニヤニヤと口元を緩めていた。
「ねえねえ、芹愛と稲葉君さぁ、最近なんだか妙に雰囲気が良くない? もしかして、私に隠れて何か美味しい進展でもあったわけ……?」
「なっ……! な、何言ってるの、祈! 私たちは、ただのお友達で……!」
芹愛は顔を真っ赤に染め上げ、慌てて両手をパタパタと大きく横に振って否定にかかった。
その狼狽えぶりがあまりにも可愛らしくて、見ているこっちまでドキドキしてしまう。
「ほらー、そんなに慌てるってことは、やっぱり何かある証拠じゃなーい?」
「もう、からかわないでよ、祈……っ!」
芹愛が眦を吊り上げて、拳を振り上げるジェスチャーをする。
「あはは。ごめんて」
そんなじゃれ合う彼女たちと同じように、教室のあちこちで、種目決めを巡る笑い声や、友人同士の楽しげな会話が響き渡っていた。
その後、調査票が回収され、俺は無事に希望が通り玉入れに選ばれた。
やがて、ホームルームの終了を告げるチャイムが、心地よく鳴り響く。
「皆お疲れ様! これにて今日の種目決めは終了! 提出された調査票は、学級委員のほうでまとめて先生に提出しとくからな。明日からはさっそく、各種目の練習期間に入るから、皆気合入れていこうぜ!」
委員長の力強い掛け声とともに、教室の生徒たちは「はーい!」「優勝目指すぞー!」とそれぞれに意気込みを示した
§
放課後、俺は芹愛とともに学校の昇降口を抜け、緩やかな坂道を並んで歩いていた。
夕日がアスファルトの影を長く引き延ばし、空が茜色を徐々に深めていく。
学校でも友人として振る舞えるようになってから、こうして登下校を一緒にするようになっていた。
「ふう……今日は種目決めだけで、なんだかすごく頭を使った気がするなぁ」
芹愛は小さく息をつきながら、自身のバッグの肩紐をキュッと握り直した。
「応援団なんて大役を引き受けちゃったけれど、本当に私に務まるかな……今さらながら、少し緊張してきたかも」
「お前なら絶対大丈夫だって。羽川も言ってただろ? お前のその凛とした佇まいは、応援団の法被が絶対に似合うからさ。全校生徒の視線が釘付けになること間違いなしだぞ」
俺が少しからかうようで本音の混じった口調で励ますと、芹愛は恥ずかしそうに頬を朱に染めながら、軽く俺の腕をぽんと叩いた。
「もう、奏介君までそんな風に持ち上げて……。でも、そう言ってもらえると、少しだけ勇気が湧いてくるかな」
彼女は嬉しそうに目を細め、夜風に揺れる黒髪をそっと耳にかけた。
「それにしても、白峯祭が終わったと思ったら、すぐに次の大イベントだもんな。気が休まる暇がないくらいだ」
「うん。でも、私、白峯祭の時とは気持ちが全然違うんだ」
芹愛がまっすぐに前を見据えながら言う。
「前は、実家のことや、お母さんのことで心がずっと怯えていて、お祭りなんて心から楽しむ余裕なんてなかった。でも、今は違う。お母さんへの誤解を解消して一緒に暮らせるようになって、私の傍にはいつも奏介君がいてくれて……私、今すごく幸せなんだって実感できるの」
その言葉は、風の音にかき消されてしまいそうなほど静かだったけれど、俺の胸の奥には驚くほど深く、そして重く響いた。
彼女の瞳には、もう過去の影も、孤独の怯えもない。そこには、自分の足でしっかりと未来を見据える少女の強い決意と輝きがあった。
「ああ、そうだな」
俺は彼女の頭にそっと手を伸ばし、その艶やかな髪を優しく撫でてやった。
「これからの行事は、全部思いっきり楽しもうぜ。体育祭だって、白組の優勝を目指して、二人で頑張ろう」
「うんっ!」
芹愛は満面の笑みを浮かべ、俺の右手に自分の手をそっと重ね合わせてきた。
秋の冷たい夕風のなかで、繋ぎ合わせた手から伝わってくる体温は、どこまでも温かかった。




