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第43話 温かな食卓と、零れ落ちる笑み


 カフェでの母娘の和解から数日後。


 秋の冷たい風が街路樹の葉を揺らす季節になっていたが、俺たちの周りを包み込む空気は、冷たさとは無縁のものに変わっていた。


 真中さんは、驚くべきスピードですべての手続きを済ませていた。


 あの日の夜、事務所のスタッフや弁護士を総動員して家庭裁判所への申し立ての準備を進めると同時に、彼女は身の回りの整理を一気に終わらせたらしい。


 そして、転校はしたくないだろうからと、自分の方が住んでいた高級マンションの部屋を引き払い、芹愛が一人で暮らしていたあのマンションの部屋へと、引っ越してきたのだ。もちろん、マンションの賃貸借契約の名義もすでに変更済みだ。


 その真中さんの身に降りかかっていたスキャンダルだが、世間の騒ぎそのものは、すでに収束へ向けて沈静化しつつある。


 それは他でもない、芹愛自身の機転と決意によるものだった。


『詳しいことは言えませんけれど、お母さんは私を守るために家を出て行ったんです。そのお母さんへの誤解も解けて、これからは一緒に暮らすことになりました』


 芹愛が自身のSNSアカウントに投稿したその短い声明は、瞬く間にネットの海へと拡散された。


 突然の告白に最初はアンチや野次馬がざわついたものの、元トップ女優である真中凛花サイドからも「過去の誤解が解け、現在は和解して共に生活を始めております」という公式のコメントが発表されたことで、過熱していたバッシングの炎はまるで水をかけられたように鎮火したのだ。


 世間は勝手に騒ぎ、勝手に納得し、そしてまた次の話題へと流れていく。


 けれど、その情報の濁流の裏側で、傷だらけだった母娘の絆がようやく正しい形へと組み直されたという事実だけが、揺るぎない現実としてそこにあった。



   §



 その日の夜、俺は隣の202号室──かつては芹愛と二人だけの秘密の時間を過ごしていたその場所の前に、少しだけ緊張した面持ちで立っていた。


 ガチャリ、と軽やかな音を立てて開いたドアの向こう側から、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いがふわりと漂ってくる。


「いらっしゃい、奏介君!」


 エプロン姿の芹愛が、満面の笑みを浮かべて玄関まで出迎えてくれた。その頬は上気しており、彼女の纏う空気はどこまでも明るく、晴れやかだった。


 促されて上がったリビングのダイニングテーブルには、この日のための豪華な手料理の数々が所狭しと並べられている。


 ジューシーなハンバーグに、シャキシャキとした色鮮やかなサラダ、コトコトと時間をかけて煮込まれたことが一目でわかるビーフシチュー、そして中央には『ようこそ、お母さん』とチョコレートで可愛らしく描かれた特製のホールケーキまで鎮座していた。


 そう、今夜はこれから、真中さんの引っ越し祝いと、これからの新しい生活の門出を祝う、記念すべき三人でのパーティーを開くのだ。


「奏介君、いらっしゃい」


「真中さん、お邪魔します。芹愛、ずいぶん気合いを入れて頑張ったみたいですね」


 俺は挨拶を返して感嘆の声を漏らしながらテーブルの席へと腰を降ろした。


「本当にすごいごちそうよねぇ。私も手伝おうと思ったんだけど、芹愛が『今日は私一人の手で全部作るの。お母さんはそこに座って待ってて!』って聞かなくって」


 そこには、テレビや雑誌で見るような作り物の完璧な笑顔ではなく、すっぴんに近いリラックスした私服姿で、マグカップを片手に微笑む柔らかい母親としての姿があった。


「だってお母さん、今日はお母さんのためのお祝いなんだから当然だよ。それじゃあ、さっそく始めようか」


 芹愛も言いながら席につき、グラスに注がれたオレンジジュースで乾杯をしたあと、俺たちは自然な流れで温かな夕食を囲み始めた。


「ん……! やっぱり、芹愛の作るご飯は最高に美味いな」


 俺がハンバーグを一口食べて率直な感想を告げると、芹愛は「ほんとう? よかったぁ……」と嬉しそうに目を細めた。


 その様子を、向かい側に座る真中さんが、慈しむような優しい眼差しでじっと見つめている。


「芹愛は料理上手よね。教えてくれた使用人の女性の指導がよかったのかしら」


「真中さんは料理はしないんですか?」


「できないわけじゃないけど、ここまで美味しくは作れないわ。それに、仕事が忙しかったから、冷凍食品なんかで済ませることが多かったし。だから芹愛が料理上手で本当に助かる」


「でも、お母さん、食事の面では改善されたかもしれないけど、これまで暮らしていた高級マンションの部屋に比べたら、ここって、だいぶ狭くなっちゃったでしょ? 正直、こんな狭いところで暮らすなんて、平気?」


 芹愛が気遣わしげに聞くと、真中さんはその言葉を遮るように、首を大きく横に振った。


「なに言ってるの芹愛、そんなことないわよ。ここは、狭いかもしれないけれど、こうして愛する娘と一緒に暮らせることが、私にとっては夢のように嬉しいの。ずっと、ずっとね……いつか芹愛とこうして同じ屋根の下で笑い合える日が来ることを、心の底から夢見ていたから」


 その告白は、偽りのない彼女の本音なのだろう。


 母親としての義務を放棄したという十字架を背負いながらも、彼女の心の中にはずっと、我が子への消えない愛情が残されていたのだ。


 芹愛はスープカップをそっと置き、そんな真中さんのほうへと身を乗り出した。


「お母さん……私ね、お母さんと一緒に暮らせるようになって、本当に嬉しいよ」


 二人の視線が交差し、温かな空気が満ちる。


 俺は、その穏やかな光景を目の当たりにしながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。


「これから、これまでの十六年間分の埋め合わせを、たっぷりと、しつこいくらいにしていくつもりよ」


 真中さんが、冗談めかした口調で宣言する。


「うん! 二人で、これから思い出を山ほど作っていこうね、お母さん」


 芹愛もまた、満面の笑みで頷いた。


 十六年分の空白の時間を、これからゆっくりと埋めていく。


 失われた時間を取り戻し、これからの未来を家族としてしっかりと歩んでいくためのスタートラインに二人は立ったのだ。


 そんな和やかな食卓で、ふと真中さんが意味深な、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「ところで、あなたたち……」


「ん? どうかしたの、お母さん?」


「これまで、ずっと二人きりで同じ時間を過ごしてきたんでしょう?」


 真中さんはクスクスと喉を鳴らしながら続ける。


「私がこうしてこの部屋に引っ越してきたことで、なんだか、邪魔をするみたいになっちゃってごめんなさいねぇ」


「な……!?」


 俺は顔から火が出るほどの羞恥心に襲われ、思わず言葉を詰まらせた。


「な、なに言ってるのお母さんっ……!!」


 芹愛のほうは、もっと激しく反応していた。


 彼女の顔が、耳たぶの先まで湯気が立ちそうなほどの勢いで真っ赤に染まる。


「突然変なこと言わないでよ! 私たちはただの、その、お隣同士兼お友達で……!」


「あら、ただのお友達なの? 本当は付き合ってたりしない?」


 真中さんはさらに楽しそうに目を細めた。


「そ、そんなわけないでしょ……!!」


「安心しなさい。私だって、若い二人を邪魔する野暮な母親になるつもりはないわ。これでも仕事柄、ドラマの撮影や取材なんかで、地方へ遠出したり、家を空けることも多いし……だから、お楽しみはその時にでも、ね?」


「お母さん――っ!! いい加減からかいすぎると、本当に怒るからねっ……!」


 芹愛は顔を真っ赤にさせたまま、まなじりを吊り上げる。


「あら、怖い怖い。ごめんなさいねぇ」


 対する真中さんはケラケラと楽しそうに笑いながら、まったく反省した様子も見せない。


 画面越しに見る、あの完璧で気高い『真中凛花』という女優の姿。


 そのパブリックイメージからは想像もつかないほど、お茶目で愛嬌のある可愛らしい一面が、今の彼女にはあった。


「ほら、芹愛、いつまでも怒ってないで食べよう。ハンバーグが冷めちゃうぞ。せっかくのごちそうなんだから」


 俺が苦笑いを浮かべながら宥めると、芹愛は頬を膨らませたまま「……うぅ、もうお母さんのいじわる……」と小さな声で呟きつつも、箸を手に取った。


「そうよ、奏介君の言う通り。さ、美味しいご飯をいただきましょう」


 真中さんも満足そうな笑みを浮かべ、再びスプーンを手に取る。


 これからの日々が、ずっとこんな風に穏やかで温かいものでありますように。


 そう願いながら、俺は芹愛の作ったハンバーグを口に運び、静かにその幸せを噛みしめたのだった。





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