第42話 母娘の再定義
翌日の放課後。
真中さんに指定された場所は、駅の近くにある隠れ家風のカフェだった。
大きなガラス張りの窓から柔らかい西日が差し込むその店は、平日ということもあってか客足はまばらで、店内には控えめなクラシック音楽が流れている落ち着いた空間だ。
俺たちは指定されていた奥まったテーブル席へと案内され、約束の時刻の少し前に腰を下ろした。
「……」
隣に座る芹愛は、テーブルをぼんやりと見つめたまま、一言も発せずに俯いている。
今日の彼女は、学校帰りであるため学園の制服姿だ。その顔色は青白く、手元に置かれた細い指先はかすかに震えている。ネットのスキャンダル記事や、母親と対面することへの恐怖であまり眠れてもいないのではないか。その痛々しい姿を見ているだけで、俺の胸は締め付けられるように痛んだ。
「芹愛、大丈夫か? 手が少し震えてるぞ」
俺が声をかけながら、自分の手を彼女の冷え切った手にそっと重ね合わせると、芹愛はハッと息を呑んで顔を上げた。
「あ……うん、ありがとう、奏介君……。平気だよ、ちょっとだけ、緊張しちゃって……」
作り笑いを浮かべようとするその表情はあまりにも痛々しい。
無理をして笑わなくていい。そう言ってやろうとした、その時だった。
「お待たせ。遅くなってごめんなさいね」
とサングラスと黒いトレンチコートを纏ったトップ女優・真中凛花が姿を見せた。
周囲に客がいないことを確認したのか、彼女はサングラスを外し、その整った切れ長の瞳を露わにする。テレビや雑誌で見る華やかな美貌は健在だったが、その顔には疲労の色が濃く滲んでいた。
「彼は付き添い……?」
対面の席に座りながら、彼女は小さく呟いた。
「そういえば、この前の学園祭の時もいたわね」
その声音からは、前日のような棘や、拒絶を突き放すような攻撃性は感じられない。
「はい。俺は芹愛の隣人であり、友達です」
俺は一歩も引くことなく、ハッキリと言い切った。
「……そう。私は珈琲を注文するわ。あなたたちも、何か好きなものを注文していいわよ、私が払うから」
促されて、俺と芹愛も同じように珈琲を注文した。
テーブルに重苦しい沈黙が降りる。
やがて注文の品が運ばれてくると、真中さんは珈琲のカップを静かに口に傾け、ゆっくりと顔を上げた。その切れ長の瞳が、まっすぐに芹愛を捉える。
「この前はあんな酷い言い方をしてしまって、ごめんなさい」
その謝罪の言葉は、あまりにも唐突で、そして俺の耳を疑わせるものだった。
「……え……?」
思わずというように、芹愛の喉から驚きの声が漏れる。
「信じてもらえないかもしれないけれど、あの言葉は私の本心ではなかったの」
真中さんは自嘲気味に唇を歪め、目を伏せた。
「世間の目を恐れて、自分のキャリアを守るためにあなたを拒絶した──それは事実よ。でも、あの場であなたにあんな暴言を吐いたのは、あなたを守るために、私から遠ざけようと思ったからなのよ。……言い訳に聞こえるかもしれないけれどね」
あの日の冷酷な拒絶が、芹愛を守るためのものだったなんて、そんな虫のいい話を、すぐに信じられるはずがなかった。
けれど、彼女の震える声の端々には、どうしようもないほどの深い後悔と、追い詰められた人間の切実さが滲んでいるのも事実だった。
「まずは、私が家を出て行った理由から、ちゃんと話さないといけないわね」
真中さんは珈琲のカップにそっと指をかけ、遠い過去を思い出すように、静かに語り始めた。
「私はあの人……あなたの父親と、若い頃の一夜のあやまちであなたを身ごもった。お互いに愛のない行きずりの関係だったわ。それであの人はすぐに『堕ろせ』と私に迫ったの。当時の私は駆け出しの役者で、自分のことで精一杯だったし、彼は愛人の子供を抱え込むという醜聞を避けようとした」
愛人と聞いていたが、そこに愛はなく行きずりの関係だったらしい。
「でも、私は堕ろさなかった。あの人のことは好きじゃなくても、お腹の中に宿った小さな命は、当時の私にとって唯一のかけがえのない愛おしい存在だったから。だから、世間から隠れるようにして、あなたを産んだの」
その言葉を聞いた瞬間、芹愛の瞳が潤んだ。
愛情のない政略結婚の駒としてしか扱わない父親とは違い、この人には望まれて、愛されて生まれてきたのだという事実が、彼女の心を揺さぶったのだろう。
「けれど……現実は甘くなかったわ」
真中さんの声が、わずかにかすれた。
「その頃の私はまだ無名で、金銭的にも時間的にも、一人で子育てをするだけの余裕なんてまったくなかった。それに、当時は家を勘当同然で飛び出してきた身だったから、実家に頼ることもできなかった。ボロボロのアパートで、ミルク代にも事欠くような生活の中で、私は本気で途方に暮れていたの」
彼女の華やかな女優としてのイメージからは想像もつかない、泥臭く、そして絶望的な過酷さがそこにはあった。
「やむにやまれず、私はあの人に相談したわ。そしたら、あの人はこう言ったの。『後継ぎ候補として我が家で厳格に育ててやる。そのかわり、お前は二度と娘には会うな。母親としての権利も放棄しろ』ってね」
それが、真中さんが家を出た理由なのか。娘を捨てたわけじゃなく、やむなく引き離された結果。
「もし、その約束を違えれば、あなたを私の手元から無理やり引き離すだけでなく、あなたの扱いを酷くして、さらに『隠し子がいる女優』という真実を世間に公にして、私の役者人生を完全に終わらせてやると脅されたわ。当時の私にとって、女優の道だけが唯一の自分の誇りであり、生きる道だった。私は、自分の夢を捨てずに、あなたをあの家で何とか生き延びさせることを選択したの」
彼女はそこで言葉を切り、こらえきれなくなったように目を閉じた。一筋の涙が、その整った頬を伝ってすっと流れ落ちる。
「私はあなたの幸せを願って、あの人のもとにあなたを託した。……でもね、それは綺麗事よ。本当は、自分が可愛いから、女優としての夢を諦めたくなかったから、あなたを手放す口実を探していただけなのかもしれない。私は、母親失格よ」
胸が締め付けられるように痛んだ。
冷酷だと思っていた母親の裏側に隠されていたのは、あまりにも不器用で、どうしようもないほど哀しい、母親としての葛藤と選択だった。
「だからこそ、この前は、あなたが私に未練を感じて、あの人の不興を買わないように、あえて冷たく突き放したの。あなたが私を嫌いになってくれたほうが、あなたのためになると思ったから……でも、私の胸は張り裂けそうだった。苦しくって、苦しくって……それで、今回スキャンダルになって母娘関係が発覚したことで、もう隠しておく必要もないと思って、こうして自分の本当の気持ちを打ち明ける気になったの」
真中さんはそこまで一気に語ると、まるですべての力を使い果たしたかのように、深く息をついた。
隣でその一部始終を聞いていた俺は、ゆっくりと息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
ホッとした。そう、俺の心境はまさにそれだった。
真中さんは、決して芹愛を見捨てたわけではなかった。母親として、彼女なりに愛し、彼女の未来を必死に守ろうとした結果が、その残酷な別れだったのだとわかったからだ。
「……話してくれて、ありがとう、お母さん」
芹愛は震える声で気持ちを伝え、まっすぐに母親を見つめた。
「お母さんが……そんな風に悩んで、私を産んでくれていたなんて、知らなかった……でも、なんでお母さんは、今になってそのことを打ち明けようと思ったの?」
「その……今更こんなことを言い出すのは虫が良すぎるって、思うかもしれないけれど……」
真中さんは苦笑いしながら、躊躇いがちに続けた。
「私が今日、あなたをここに呼び出したのは、謝罪をするためだけじゃないの。……あなたを、私のところへ引き取らせてもらおうと思って」
「引き取る……?」
「今回のスキャンダルで、私の女優生命は完全に絶たれたかもしれないわ。もう表舞台に立つことはできないかもしれない。でもね、これまでの芸能活動で蓄えた貯えなら、もう一生遊んで暮らせるくらいには十分にあり余っているの。だから、あなたが大人になって社会に出るまで、私が責任を持ってあなたを養い、支えることは十分にできるわ」
真中さんの瞳には、強い光が宿っていた。
「あの家では、あなたは父親の道具として扱われ、望まない政略結婚を強いられようとしているんでしょう? そんな息苦しい場所から、あなたを救い出したいの。今度こそ、本当の母親として、あなたのそばにいたい。……許されるなら、私と一緒に暮らしましょう」
その提案は、芹愛にとっては酷く魅力的に映っただろう。
真中さんは弁護士のように冷静な口調で説明を続ける。
「家庭裁判所に対して、親権者や監護者の変更を申し立てるつもりよ。父親による政略結婚の強制、それによって子供が受けている精神的な苦痛、そしてこれ以上その環境に置くことが子供の利益を著しく害するという実態──それらをすべて訴えればいい。裁判所が『子供の健やかな成長のために、父親よりも母親が育てる方が望ましい』と判断すれば、親権や監護権は母親である私側に必ず変更されるはずだわ。私の財産と弁護士をつければ、勝算は十分にある」
もしそうなったら、芹愛は自分を縛り付けている呪縛から解放されることになる。
「俺は、賛成だ」
俺は、はっきりと力強い声でそう言った。
「奏介君……」
「当たり前だろ。今の家を出て、クソみたいな政略結婚なんてせずに済むなら、それが一番いいに決まってる。お前が心から笑える場所に行くべきだ」
「うん……私も、そうしたい。お母さんと一緒に暮らしたい……!」
芹愛のその返事を聞いた瞬間、真中さんの美しい顔に、これまでに見たこともないような、心からの安堵と歓喜の笑顔がパッと咲いた。
彼女は席から立ち上がり、芹愛のほうへ歩み寄ると、その体を優しく、抱きしめた。
「嬉しい……そう言ってくれて、本当に嬉しいわ、芹愛……!」
けれど、そうしながら、真中さんはふと何かを思い出したように、少しだけ眉をひそめて芹愛から身を離した。
「でも……本当にいいの? あなたの幸せを願って身を引いたのは本当だけど、自分の夢を諦めきれなかったから母親としての義務を放棄したのも、紛れもない事実なのよ。私はあなたに胸を張って『良い母親だ』と言えるような人間じゃないわ」
彼女のその自責の念に満ちた言葉を聞き、芹愛は首を横に振った。
そして、自分の両手で彼女の手をしっかりと握り返す。
「ううん、いいの。お母さんは、私を堕ろさずに産んでくれた。だからこそ、今の私がある。お母さんは、私をちゃんと望んでくれたんだもん」
芹愛は、真中さんの瞳をまっすぐに見つめ返し、はっきりと告げた。
「私をただの道具としてしか見ていないお父さんとは違う。お母さんは、ちゃんと私を愛してくれた……だから、私はお母さんと一緒に、新しい人生を歩みたいの」
その言葉を聞いた瞬間、真中さんはもう言葉を発することができなくなり、ただ両手で顔を覆って、子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。
これで、お互いの心に突き刺さっていた棘が、ようやく綺麗に抜け落ちただろう。
店内に流れるクラシック音楽の音色に包まれながら、長い間すれ違っていた母娘は、互いの体温と存在をゆっくりと確かめ合っていた。




