第39話 凍てつく舞台裏
校内で起きた黒崎翔矢と金髪の不良による突然の暴力騒動は、駆けつけた教師陣と警備員の迅速な対応によって、ひとまずの決着を見た。
先に暴力を振るってきた金髪の不良は警察に通報され、連れ添っていた翔矢も共犯扱いで教師たちに連行されていくという、自業自得の結末を迎えたのだ。周囲の生徒たちの証言も完璧に揃っており、俺の正当防衛は揺るぎない事実として処理されることになった。
騒ぎの直後、現場に居合わせた生徒たちの間には一時的な動揺が走ったものの、そこは年に一度の最大のお祭りである『白峯祭』。次々と繰り広げられるイベントの熱気にかき消されるように、その事件の噂もすぐに周囲の喧騒の中へと溶け込んでいった。
そして、午後三時を少し回った頃。
俺と芹愛は、騒動の喧騒から少しだけ離れた、緑豊かな中庭の木陰にあるベンチに腰を下ろしていた。
「はい、奏介君。あーん」
優しげな微笑みを浮かべながら、芹愛は自分の手元にあったクレープを俺のほうへと差し出した。クレープの生地の上には、たっぷりの生クリームと、甘酸っぱいイチゴ、そして艶やかなチョコレートソースがトッピングされている。
「お、おい、芹愛……。ここ、中庭だぞ。他の生徒に見られたら……」
「いいの! さっき、私をかばって殴られちゃったんだから、これくらいのお世話を受けるのは当然の権利だもん。ほら、口開けて?」
その押しの強さに負け、俺は観念して小さく息をつき、おずおずと口を開けた。
芹愛は嬉しそうに目を細め、一口サイズに整えられた甘いクレープをそっと俺の口元へと運ぶ。
「美味しい?」
「……あぁ、すごく甘くて、美味いよ」
生クリームの柔らかな甘さとイチゴの酸味が口いっぱいに広がる。
「よかった」
微笑みつつ、自分でもクレープを一口食べた芹愛は、ふうっと小さく息をついた。
「せっかくの白峯祭が、台無しにならなくてよかった」
「さっきはお前に怖い思いをさせて悪かったな、芹愛」
「ううん、謝らないで、奏介君。悪いのはあんな卑怯なやり方で絡んできたあの人たちだもん。それに、奏介君が私のためにあんな風に守ってくれたこと、私、すごく嬉しかったの。ありがとう、奏介君」
芹愛はクレープを持っていない方の手を、そっと俺の手に重ね合わせてきた。
平和で、温かく、そして永遠に続いてほしいと思えるような、穏やかな二人だけの時間。
そうやってしばらくお互いに無言のまま過ごしていると、二人の女子生徒がキャッキャと楽しげに喋りながらこちらに歩いてきた。
彼女たちは手に持つ学園祭のパンフレットを見ながら、興奮を隠し切れない様子でこんな会話を交わした。
「ねえ、もうすぐ体育館の特設ステージに、あの超大物女優の真中凛花がサプライズで来るんだって!」
「知ってる! 今やってる秋ドラマの宣伝を兼ねて、全国の高校の文化祭を回るキャンペーンの一環なんだよね! まさか、私たちの白峯高校に本物の真中凛花が来るなんて、夢みたい!」
「テレビで見るより、実物は絶対綺麗だよね……! 絶対に見に行こうよ、一番前の席を取らなきゃ!」
その会話を聞いた芹愛が喉を鳴らす。
「……今……なんて……?」
芹愛の震える声が、零れ落ちた。彼女の瞳は大きく見開かれ、目の前の空間を虚ろにさまよっている。
「芹愛……」
「今、あの人たちが……真中凛花が、この学校に来るって……そう、言ったよね……?」
言葉を紡ぐ彼女の唇が、細かく震えていた。
あの日の夜、雷鳴轟く自室で彼女が語ってくれた過去の記憶が、鮮烈な痛みを伴って蘇ってくる。
愛人の娘として生まれ、その母親に捨てられ、父親の本妻や家族から隔離された別棟で、冷たい孤独の中で震えていた幼い日の記憶。
自分を捨てて芸能界の栄光とキャリアを選び、一度たりとも連絡を寄こさなかった実の母親──その名前が、今、自分たちが通う白峯高校の校内で、お祭り騒ぎのイベントの目玉として呼ばれている。
「芹愛、落ち着け……。聞き間違いかもしれないし……」
「間違いじゃない……!」
芹愛は首を横に振って強く否定した。
「ネットのニュースで、見たの。今期の秋ドラマのタイアップ企画で、高校を訪問するって……。でも、まさかそれが私たちの学校だなんて……思わなかった……」
彼女の胸が、激しく上下している。
楽しかったはずの白峯祭の空気が、一瞬にして冷たく凍りついていく。
「……どうする?」
俺は、彼女の震える両肩をそっと優しく包み込み、真正面からその瞳を見つめ返した。
そうした瞬間、俺は彼女の決意に気づかされた。
彼女は、逃げようとしていない。戸惑いながらも、その心の底では、何かを確かめようと激しい葛藤の炎を燃え上がらせていた。
「……私、会いに行ってみる」
芹愛は、瞳に強い光を灯し、きゅっと唇を引き結んだ。
「……お母さんに、会うのか?」
「うん……。ずっと、ずっと思ってたの。どうして私を捨てて家を出て行ったのかって。どうして、私をあんな冷たい家に一人ぼっちに残していったのかって……。その本当の気持ちを、一度でいいから、あの人の口から直接聞いてみたい……!」
その声には、長年抱え続けてきた少女の孤独と、母親への複雑な愛憎が、痛いほどに詰まっていた。
「分かった。なら、俺も一緒に行く」
俺は一切の迷いなく、力強く告げた。
「奏介君……でも……」
「一人で行かせるわけないだろ。お前がどこへ行こうと、俺はいつでもお前の傍にいる。だから、安心してくれ。俺がずっと、お前の傍で見守っているから」
俺のその偽りのない言葉に、芹愛は一瞬驚いたように目を瞠った後、「うん……!」と頷いた。
「ありがとう、奏介君……一緒に来て……!」
§
午後四時過ぎ。
白峯高校の第一体育館は、足の踏み場もないほどの生徒や来場者で埋め尽くされていた。
ステージの上では、『真中凛花スペシャルトーク』の講演が無事に終了し、司会を務める教師の挨拶とともに、歓声の渦が巻き起こっている。
「本日は素晴らしいお話をありがとうございました! 女優の真中凛花さんでしたーっ!」
割れんばかりの拍手と歓声の中、ステージの照明が眩しく瞬く。
その檀上の中央に立っているのは、テレビや映画のスクリーンで見るのと何一つ変わらない、圧倒的な美貌と気品を纏った女性──真中凛花。
完璧にセットされた艶やかなロングヘア、洗練された秋物のジャケットスーツ、そして一切の隙のない端正な顔立ち。彼女が上品に微笑みながら観客席へと軽く手を振るだけで、女子生徒たちからは「キャーッ、綺麗すぎる……!」「顔が小さすぎる!」という黄色い悲鳴が上がる。
その華やかなステージの熱狂から少し離れた、暗幕の裏側に広がる『舞台袖』のスペースに、俺と芹愛は足を踏み入れていた。
その芹愛の右手は、しっかりと俺の左手に握りしめられている。俺は彼女の小さな手のひらから伝わってくる汗を感じながら、彼女の盾になるようにして静かにステージの裏側へと歩みを進めた。
そうしていると、講演を終えて舞台袖に下がって来た真中凛花の姿が、俺たちの視界に入った。
その瞬間。
芹愛の喉の奥から、絞り出すような声が漏れた。
「──お母さん……っ!」
その声に、真中凛花がピタリと足を止めた。
彼女はゆっくりと、冷ややかな動作で首を巡らせ、声のした方へと視線を向ける。
その切れ長の瞳が、実の娘である芹愛の姿を捉えた瞬間、彼女の美しい顔に浮かんでいた『ファンの前で見せる完璧な笑顔』は、一瞬にして消え去った。
「……っ!」
真中さんは、自分の娘を見た瞬間、露骨な嫌悪と不快感をその整った顔に浮かべた。
「お母さん……! どうして……どうして、私に一言も連絡もくれずに……!」
芹愛は震える足で一歩、また一歩と母親のほうへと歩み出た。その瞳からは止めどなく涙が溢れ、彼女の胸の奥底に長年閉じ込められていた切実な問いかけが、ようやく形になろうとしていた。
なぜ、私を捨てたの?
どうして、私を一人ぼっちにしたの?
私を、愛してくれなかったのは、どうして……?
すると、周囲に控えていたマネージャーらしき男性が、突然現れたメイド服姿の女子生徒と、トップ女優である真中凛花のただならぬ空気を察し、慌てて間に入ろうとした。
「君、ここは関係者以外立ち入り禁止だよ。サインならあとで……」
とマネージャーが手を伸ばそうとしたが、真中さんは、そのスタッフたちの動きを制した。
「……いいわ。下がってちょうだい」
感情の欠落した声で言った真中さんは、目の前で涙を流している娘の姿を、上から下へと冷ややかに見下ろした。
「お母さん、って……誰のつもりでそんな風に呼んでいるの?」
その耳を疑うような冷酷な一言が、静まり返った舞台袖の空気を切り裂いた。
「え……?」
芹愛が息を呑み、その美しい瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
「お母さん……? ふざけないでちょうだい」
真中さんは、冷淡な眼差しを向けたまま、一切の慈悲も込めることなく、残酷な言葉を次々と紡ぎ出していった。
「そう呼ぶのはやめて。私はあなたの母親であることを、とっくの昔にやめたのよ」
「っ……!? そんな……! 私は、あなたの……血を分けた娘なのに……っ!」
芹愛の震える声が、虚しく木霊する。
その言葉を聞いても、真中さんは顔色一つ変えることはなかった。彼女は冷ややかに鼻で笑うと、まるで仕事上の面倒なクレームを処理するかのように、淡々と、容赦なく言い放った。
「血が繋がっていれば何だと言うの? あなたのせいで、私の女優としてのキャリアや未来がすべて台無しになるところだったのよ。あなたをあの家に置いて家を出た時、私は自分の人生において、母親という役割を完全に捨て去ったの。だから、今さら娘面して『お母さん』なんて呼ばれるのは、吐き気がするほど不愉快だわ」
芹愛の胸の奥深くへと容赦なく突き刺さるような言葉のナイフ。
どれだけ傷つき、どれだけ寂しい思いをしても、心のどこかで微かな希望を捨てきれずにいただろう少女の幻想が、今、目の前で音を立てて完全に粉々に打ち砕かれた瞬間だった。
「あ……あぁ……っ……!」
芹愛の足から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになり、俺は慌てて一歩前に踏み出し、両手で彼女の身体をしっかりと支え起こした。芹愛の身体は、まるで氷のように冷たく、激しく震えていた。
「こういうことをされるのは本当に迷惑なの。私のプライベートや今後の仕事にこれ以上泥を塗るような真似をするなら、学校側に言って、それなりの処分を受けてもらうことになるけれど……それでもいいのかしら?」
その最後通告のような言葉を突き付けると、真中さんは、振り返ることもなくスタスタと控室のほうへと歩き去っていった。
「あ……あぁぁぁっ……!!」
芹愛は、絞り出すような絶望の悲鳴を漏らすと、俺の胸元にしがみつき、激しくむせび泣き続けた。




