第37話 二人で回る白峯祭
白峯祭二日目、一般公開の熱気がさらに高まっていた正午過ぎ。
一年Cクラスの和風メイド&執事喫茶『雅』の店内は来場者たちで溢れ返り、注文の声を上げるメイドや執事たちがフロアを飛ぶように駆け回っていた。
俺は、厨房の片隅で洗い物の山と格闘しながら、額に滲んだ汗をタオルで拭い、ふうっと小さく息をついた。
先ほど、玖珂玲於奈の妹である玲美ちゃんに『さくらんぼのお兄ちゃん』として正体を見破られるという冷や汗もののハプニングがあったものの、なんとかその場を取り繕うことができ、今は再び裏方モブとしての平穏を取り戻しているところだった。
「お疲れ様、奏介君」
背後から、心地よく澄んだ鈴のような声が降ってきた。
振り返ると、そこには着物風のメイド服に身を包んだ芹愛が立っていた。整えられたハーフアップの黒髪の隙間から覗く白い額には、うっすらと薄い汗が滲んでいる。
「お疲れ、芹愛。午前中のシフト、本当によく回したな。外の行列なんて、途切れるどころか増え続ける一方だぞ」
俺が労いの言葉をかけると、芹愛はふっと柔らかく、どこかホッとしたような笑みを浮かべた。
「うん、本当にすごい人出だったね。あんなにたくさんの人たちに私たちのクラスのお店に来てもらえるなんて、準備を頑張った甲斐があったよ。足がパンパンになっちゃったけれど、すごく充実してる」
彼女は両足のつま先をトントンと動かしながら、楽しげに目を細めた。
彼女にとって、この学園祭の熱気の中でお客さんと笑顔で言葉を交わす時間は、案外悪くないものだったのかもしれない。
「それでね、奏介君」
芹愛は少しだけ周囲の様子を窺い、他のクラスメイトたちが注文の対応で忙しく動き回っている隙を突いて、一歩だけ俺との距離を詰めた。その瞳が、まっすぐに俺の顔を捉える。
「私の午前中のシフト、ここで一区切りなんだ。ねえ、せっかくだし、二人で一緒に回らない?」
「は……?」
予想外すぎるその提案に、俺は思わず手に持っていた皿を落としそうになり、慌てて両手でしっかりと抱え直した。
「ま、回るって……何をだ?」
「決まってるでしょ、白峯祭をだよ。他のクラスの出し物も面白そうなのがたくさんあるし、せっかくの大きなお祭りなんだから、私だってお客さんとして楽しんでみたいの。……ダメ、かな?」
芹愛は少しだけ上目遣いになりながら、不安と期待が入り交じったような潤んだ瞳で俺を見上げた。
その可愛らしい懇願の仕方に、心臓がドクリと大きく跳ね上がる。
「いや、ダメってわけじゃないけどさ……」
俺は慌てて周囲に視線を走らせた。
地味な雑用係のモブ男子である俺が、校内一の美少女である彼女と二人きりでデート気分でお祭りを楽しむなどということが発覚したら、それこそ全校生徒の好奇の視線と嫉妬の炎に焼き尽くされてしまうだろう。
「考えてもみろよ。俺たちは学校ではあくまで『ただのクラスメイト』なんだぞ。そんな俺たちが二人で連れ立って校内を歩いていたら、それこそ変な噂の格好の餌食になるかもしれない。『あの地味な稲葉が、なぜ七条さんと一緒に……?』って、全校の男子から総スカンを食らうのは目に見えてるって」
俺が必死になって現実的なリスクを説くと、芹愛はふっとどこか悪戯っぽい小悪魔的な笑みを浮かべた。
「クラスの宣伝ってことにしておけば全然不自然じゃないよ。私、このメイド服を着たまま行くし、もし誰かに何か言われたら『宣伝を兼ねて校内を巡回しています』って答えるから、完璧な言い訳が成立するの!」
「そう都合よくごまかせるかな……」
「大丈夫! それに、今日は週末だから特別にね。あなたとゆっくりお祭りを見て回りたいの……いいでしょ?」
その甘えるような声音に、俺の理性の防壁はあっさりと音を立てて崩れ去った。
こんな真っ直ぐな瞳で誘われて、断れる男がこの世にいるだろうか。いや、いない。
「……はぁ。わかったよ。お前のその押し切る作戦には毎度参るな」
俺が観念したように大きく息をつくと、芹愛はパァッと顔を輝かせ、「やった!」と嬉しそうに小さく両手を合わせた。
こうして、俺たちは束の間の休憩時間を利用して、白峯祭の喧騒の中へと二人で繰り出すことになった。
§
一年Cクラスの教室のざわめきを背に受けながら、俺と芹愛は並んで廊下を歩き始めた。
模擬店から漂う香ばしいソースの匂いや、ポップコーンの甘い香り、そしてあちこちから聞こえてくる生徒たちの活気ある笑い声が五感を心地よく刺激してくる。
すれ違う他クラスの生徒や一般の来場者たちは、思い思いに手作りの仮面をつけたり、風船を持ったりしながら楽しそうに歩いている。
その人の群れの中で、着物風メイド服に身を包んだ芹愛の存在感は圧倒的だった。
白と紅の艶やかな衣装に、ハーフアップの黒髪、そして上品で凛とした佇まい。彼女が通り過ぎるたびに、周囲の男子生徒たちはもちろん一般の男性客までもが思わず二度見をする。
「おい、あれ見たか? めちゃくちゃ可愛いメイドさん歩いてるぞ……!」「どこのクラスの出し物の子だ?」と、あちこちでざわめきが起きていた。
ほら見ろ、やっぱりめちゃくちゃ目立ってるじゃないか……!
俺は少しだけ距離を置き、彼女の付き添いの裏方風を装いながら冷や汗を拭った。
しかし、当の本人はそんな周囲の視線などどこ吹く風といった様子で、楽しそうに周囲の看板や装飾を眺めながら、俺のほうをチラリと振り返った。
「ねえ、奏介君、あそこの中庭のほう、すごく賑わってるよ。何かやってるみたい」
「ああ、確か軽音部の野外ライブだったはずだな」
「行ってみよっか!」
「ああ」
頷いて芹愛と二人でそこへと向かうと、中庭のステージでは、激しいバンドの演奏が響き渡り、多くの生徒たちが歓声を上げながら手を突き上げていた。
その熱気を少し離れた木陰から眺めていると、芹愛が提案してきた。
「ねえ、奏介君、お腹空いてない? あそこのテントでフランクフルトと、あと冷たいレモネードを売ってるみたい。私、ちょっと気になっちゃったな」
「お、いいな。じゃあ、俺が買ってきてやるよ。ここで大人しく待っててくれ」
「ううん、一緒に並ぼうよ。並んでる時間も、二人でお喋りできて楽しいから」
§
バンド演奏から離れて校舎内に戻った俺たちが次に向かったのは、三年生が運営している本格的な『お化け屋敷』だった。
教室の窓がすべて黒い遮光カーテンで目張りされ、入り口のドアのあたりからは、いかにも不気味な低い効果音や、中から聞こえる女子生徒たちの黄色い悲鳴が漏れ聞こえてきている。
「うわ……ここ、本格的だね……。なんだか、入り口の看板のガイコツの絵だけでもちょっと怖そう……」
お化け屋敷の行列の前に立った芹愛は、先ほどまでの楽しげな表情を少しだけ引き締め、不安そうに瞳を泳がせた。
実はこうしたホラー系のエンタメはあまり得意ではないらしい。その少し怯えたような仕草が、普段の凛とした姿とのギャップを生んでいて、なんだかやけに愛おしかった。
「おいおい、ビビってるのか? 嫌なら別のところに行くけど?」
俺が少しからかうように尋ねると、芹愛はむっと頬を膨らませて首を横に振った。
「そ、そんなことないもん! ほら、順番が来たみたい、行くよ、奏介君!」
強がりを見せながらも、彼女は俺の袖の端をキュッとしっかりと掴んだ。
「それでは、二名様ご案内しまーす。気をつけてお進みくださーい」
係員の生徒に案内され、俺たちは暗闇に包まれたお化け屋敷の内部へと足を踏み入れた。
中は、薄い闇に包まれていた。
わずかに足元を照らす青白いフットライトの光だけが頼りで、壁や天井からはおどろおどろしい包帯のマネキンや、血のりを模した装飾がぶら下がっている。耳障りな心音の効果音と、どこからか聞こえるうめき声が、不気味な雰囲気を高めている。
「ひゃっ……!?」
足を踏み入れた瞬間、天井から突然プシューとエア噴射の仕掛けが作動し、芹愛は小さく悲鳴を上げて俺の背中にピタリと身を寄せた。
「わ、わわっ……びっくりしたぁ……! いきなり何なのこれ……!」
彼女の両手が、俺のTシャツの裾をギュッと強く掴み、そのまま身体全体が密着してくる。彼女の体温と、驚いて早鐘を打つ心臓の鼓動がダイレクトに伝わってきた。
「大丈夫か、芹愛? ほら、しっかり掴まってろよ」
俺が振り返って励ますと、芹愛は安心したようにコクコクと頷いた。
「う、うん……。暗くて何も見えないし、なんだかすごく怖いよ、奏介君……置いていかないでね……?」
「置いていったりしないって。ほら、ゆっくり歩こう」
俺は片方の手で彼女の手を優しく包み込み、暗い廊下をゆっくりと進んでいった。
途中で、壁の隙間から「ギャァァーッ!」と叫びながら包帯男の格好をした男子生徒が飛び出してきたり、足元で仕掛けがガタガタと動いたりするたびに、芹愛は「ひゃうっ!」と可愛い声を上げて俺の腕にしがみついてきた。
そのたびに、彼女の柔らかい身体の感触が腕や背中に伝わり、ホラーの恐怖よりも別の意味で心臓が破裂しそうになる。
それでも、何とか出口の明るい光が見えてくると、芹愛はホッと深い溜息をつき、顔を真っ赤に染めながらも、どこか誇らしげに笑った。
「はあ……怖かったぁ……。でも、奏介君がずっと手を握っていてくれたから、最後まで泣かずに歩けたよ。ありがとう、奏介君」
「おう、よく頑張りました。お化け屋敷制覇だな」
§
お化け屋敷のあとも、俺たちは白峯祭を存分に満喫した。
体育館のステージで行われていた有志のダンス発表を立ち見で鑑賞したり、歴史研究部が主催する古い校舎を再利用した展示教室で昔の白峯高校の写真を見比べたり、中庭の露店で買ったチョコバナナを二人で分け合ったりした。
そうして、午後二時を回り、一般公開の熱気はピークを迎え、校内のどこを歩いても人の波が途切れることはない。
「ねえ、奏介君、あそこの講堂のほうで、演劇部の公演やってるみたい。時間的に、ちょうど次の演目が始まるところみたいだけど……ちょっと覗いていかない?」
校内マップのパンフレットを片手に、芹愛が嬉しそうに提案する。
「いいな、行こうか。少し足も疲れたし、座ってゆっくり観賞できるならちょうどいい」
俺たちは講堂へと足を向け、すでに多くの観客が席を埋め始めている広々としたホールの中へと入った。
運よく後方の並び席が空いていたため、俺たちはそこに腰を下ろし、間もなくして暗転したステージの上で繰り広げられる演劇部のファンタジー劇に見入った。
ストーリーは、王国の誇る騎士と、森の精霊の少女が織りなす切ない冒険譚だった。
プロの劇団ほどではないものの、部員たちが一生懸命に練習を重ねたことが伝わってくる熱演で、照明や音響の効果も相まって、観客席はしっかりと物語の世界観に引き込まれていた。
隣に座る芹愛も、ステージのほうへ真剣な視線を向けながら、「うわぁ、今の演出綺麗……」と小さく感動の声を漏らしている。
その横顔を眺めているだけで、この時間がずっと続いてほしいと、俺は心の底から願った。
やがて、演劇がクライマックスを迎え、盛大な拍手とともに幕が下りると、会場の明かりがパッと明るく灯った。
「すっごく良かったね……! 最後のシーン、なんだか少し泣きそうになっちゃった」
目を少し潤ませながら感想を語る芹愛の笑顔は、とても眩しかった。
「そうだな。皆頑張ってたよ。さて、それじゃあ、そろそろ行こうか」
「うん」
俺たちは席を立ち、出口へと向かう観客たちの波に混ざりながら、外へと通じる廊下に出た。
その時だった。
「噂のメイド喫茶ってやつはどこなんだ?」
雑踏の向こう側から、ひときわ耳障りで、聞き覚えのある不快な声が響いてきた。
足が、ピタリと止まる。
背筋に冷たい氷水を流し込まれたような、強烈な悪寒が全身を駆け抜けた。




