第36話 白峯祭の喧騒と、裏方モブの致命的な誤算
『白峯祭』二日目──本日は一般公開日。
白峯高校の校舎は前日を遥かに上回る熱気に包まれていた。
「おいおい、冗談だろ……? どんだけ来るんだよ……!」
1-Cの教室の前、特製の和風鳥居と行灯が飾られた『雅』の入り口で、俺は手にした『満席・整理券配布中』と書かれた看板を支えながら、思わず引きつった声を漏らした。
昨日の校内公開の時点ですでに大盛況だったが、今日の一般公開の威力は文字通り桁違いだった。
開門と同時に雪崩れ込んできた来場者たちは、一目散に目当ての出し物へと走り出し、我がクラスの和風メイド&執事喫茶の前には、わずか数分であっという間に数十人の行列が形成されてしまった。
「皆さん、落ち着いてください! 順番にご案内しますので、走らないでくださーい!」
羽川が持ち前の元気いっぱいの声を張り上げて客の列を整理している。
その隣では、執事服に身を包んだ常磐が「どうぞ、足元にお気をつけください」と、いつもの爽やかなスマイルで来場者たちをスマートに誘導していた。
俺の役割は、今日も変わらず裏方のモブとしての雑用、そしてこの入り口付近での列整理や案内係だった。
俺は「ただいま満席となっております。次回の案内まで少々お待ちくださーい」と、機械的に看板を掲げた。
喧騒と活気が渦巻く廊下を、次々と新しい客が通り過ぎていく。
誰も陰キャモブな俺の顔など見ていない。その安心感に浸りながら、俺は目の前の列の管理に集中していた。
§
午前中のピークタイムが少しだけ落ち着きを見せ始めた頃、通路の向こう側から、ひときわ目を引く上品な雰囲気をまとった一組の親子が歩いてきた。
母親と思われる女性は、モデルのようにすらりとした体型に洗練されたフォーマルカジュアルを着こなしている。
その傍らで小さな手を引いているのは、数ヶ月前、あの『ライムノート』でチョコレートパフェを食べていた、玖珂玲於奈の妹である玲美ちゃんだった。
栗色のボブヘアを揺らし、キョロキョロと物珍しそうに周囲を見回している玲美ちゃんは、今日も可愛らしいワンピースを着ている。
うわ……マジか。よりによって、ここに来ちまったのか……?
俺の背筋を、一瞬にして冷たい汗が駆け抜けた。
自分があの喫茶店の店員であることに気付かれるわけにはいかない。学校での俺は、あくまでクラスの隅にいる地味な陰キャモブなのだから。
俺は慌てて看板の裏側に身を隠すように体を半身にし、顔を隠そうとした。
だが、その願いは非情にも打ち砕かれることになった。
「あ――っ!?」
玲美ちゃんがパッと目を輝かせ、母親の手を離してトコトコと俺の方へ駆け寄ってきたのだ。
そして、俺が持っている看板のすぐ横にぴたっと立ち止まり、見上げるようにしてこう叫んだ。
「あの時のさくらんぼのお兄ちゃんだ!!」
……ガーン、と頭の中で鐘が鳴り響いたような衝撃を受けた。
よりによって、こんな大勢の生徒や来場者が行き交う学校の廊下の真ん中で指摘されてしまうとは。
「え……? 玲美、どうしたの急に? お兄ちゃんって……?」
娘の突然の行動に戸惑った様子で、綺麗な母親がスッと近づいてきた。
周囲にいた客や、近くにいたクラスメイトたちの視線も、一斉に俺と玲美ちゃんへと集まっている。
「あ、いや、その……人違いじゃないかな……?」
俺は必死に声を低くし、いつものモブっぽい気弱な口調を作ってごまかそうとした。
しかし、玲美ちゃんは首をブンブンと横に振る。
「ううん、人違いなんかじゃないもん! だって、あの時パフェに新しいさくらんぼをくれて、『ひみつだよ』ってしーってしてくれた優しいお兄ちゃんだもん! 髪型はちょっとボサボサだけど、お声も目元も絶対におんなじだもん!」
子供の純粋で鋭すぎる直感の前には、いかなる偽装も無力だった。
周囲の生徒たちから「えっ? 何?」「え、あの地味な稲葉が、玖珂の妹と知り合い……?」というヒソヒソ声が波のように広がり始める。
その時、ちょうど店内のほうから、汗を拭いながら玖珂玲於奈本人が出てきた。彼女はざわめく廊下の様子に気づき、不審そうに眉をひそめながら歩み寄ってくる。
「どうしたの? うちの妹が、何か騒ぎを起こしたわけ……?」
玖珂は冷ややかな、しかしどこか面倒臭そうな目を向けながら俺たちに近づいたが、目の前にいるのが自分の妹と、よりによってクラスで一番影の薄いはずの稲葉奏介であることに気づくと、目を丸くして完全に固まった。
「……ちょっと、どういうこと?」
玖珂玲於奈は、腕を組み、目を細めて俺を睨みつけた。
周囲の視線があまりにも痛かったため、俺は冷や汗を拭いながら、「い、いや、ちょっとこっちに来てくれ……」と、彼女をクラスの教室の隅、誰もいないダンボールの積まれたデッドスペースへと引っ張っていった。玲美ちゃんはその様子を不思議そうに見守っている。
「ちょっと、急に引っ張ったりして何よ! 説明しなさいよ、稲葉。うちの妹が、何であなたのことを『さくらんぼのお兄ちゃん』なんて呼んでるわけ?」
玖珂は声を潜めながらも、その整った顔立ちに怒りと疑問の色を浮かべて追及してきた。
逃げ場はないと悟った俺は、もう観念したように大きく息を吐き出した。
「いや、その……実は俺、週末に駅前の隠れ家喫茶店『ライムノート』でバイトをしててだな……」
「は……? 『ライムノート』で? あなたが?」
玖珂は信じられないものを見るような目で、俺の足の先から頭のてっぺんまでをじろじろと観察した。
「嘘でしょ……? あなたがあの店で働いてたあの人だっていうの? だって、学校でのあなたと、全然見た目が違うじゃない!」
「あっちの店では、マスターの命令で髪をこう……ワックスで上げてセットしてて……その、接客用だから、一応見た目をちゃんとしてるんだよ。学校では、その、面倒なことに巻き込まれたくないから、いつもはこの前髪で隠してるだけで……」
俺がたどたどしく弁解すると、玖珂はしばらくの間、じっと俺の顔を凝視していた。
そして、彼女はふっと息を吐き、自分の額に手を当てて呆れたように首を振った。
「……信じられない。言われてみれば、確かに骨格とか目元とか、なんとなく面影があるような気もしなくもないけれど……まさか、学校の隅っこで気配を消してるあの稲葉が、週末はイケメン風の店員として愛想を振りまいてるなんてね」
「た、頼むから、このことは他の奴らには黙っといてくれ……! 特に、こんなところでそんなバイトの正体なんてバレたら、学校生活が完全に崩壊しちまうんだよ……!」
俺が必死に両手を合わせて懇願すると、玖珂はふん、と鼻で笑い、それから少しだけ表情を和らげた。
「はあ……わかったわよ。口止めでしょ? 別に、わざわざクラスの皆に言いふらしたりしないわよ。それに……あなたにはあの時の借りもあるしね」
「借り……?」
「忘れたの? 妹が泣きそうになってたのを助けてもらった恩くらい、ちゃんと覚えてるわよ」
玖珂はそう言って、やれやれといった風に肩をすくめると、急に真剣な目をし、俺の顔をしげしげと眺めながら、思わぬことを口にした。
「それにしても……あなた、ちゃんとした格好をして、髪を上げていれば、結構見れる顔立ちなんだから、普段からああしていればいいのに。どうしてそんなに地味にしてるわけ?」
「嫌だ。目立ちたくないんだよ、面倒なことはごめんだからさ」
「まあ、いいけど……生き方は人それぞれだしね」
玖珂がそう言ってため息をついた、その時だった。
「お姉ちゃんーー!」
トコトコと歩いてきた玲美ちゃんが、玖珂のスカートの裾を引っ張った。
「お姉ちゃん、さくらんぼのお兄ちゃんと、なに話してるの?」
玲美ちゃんは不思議そうに首をかしげながら、俺と玖珂の顔を交互に見上げる。
「なんでもないよ、玲美。ちょっと、学校のお仕事についてお話ししてただけ」
玖珂は優しく微笑みながら、妹の頭をポンポンと撫でてやった。その慈愛に満ちた表情は、学校で見せる女王様としての顔ではなく、あの時に見た優しいお姉ちゃんの顔そのものだった。相変わらず別人かと思うくらいのギャップだ。
「そうなんだ! お兄ちゃん、お仕事がんばってね!」
「あ、ああ……ありがとうな、玲美ちゃんも、お祭り楽しんでいってくれよ」
俺が作り笑いを浮かべて手を振ると、玲美ちゃんは嬉しそうに「うん!」と返事をして、再び母親の待つ方へと駆け戻っていっていった。
玲美ちゃん親子の姿が一般客の波の中に消えていくのを見送りながら、俺は胸をなで下ろすように深く息をついた。
「ふう……冷や汗もんだったぞ……」
「まったく……気付かれないように気をつけなさいよ」
玖珂は呆れたような笑みを浮かべながらも、それ以上追究してくることはなく、自分の担当しているフロアの方へとヒラヒラと手を振って戻っていった。
しかし、この一件で、俺は自分のモブとしての仮面が意外と脆いものであることを痛感させられた。
世間は案外狭いもので、どこで誰と繋がっているか分からない。芹愛と羽川に続き、まさか玖珂にもその正体を知られてしまうとは。
これ以上、誰かに正体がバレるようなハプニングが起きなきゃいいけど……。
そんな不安を心の中に抱えつつ、俺は再び入り口のほうへ戻り、看板を手に持って列の整理を再開した。




