第35話 白峯祭初日、開幕
秋の冷涼な風が白峯高校の校舎を包み込み、木々の葉がわずかに色づき始める十月初旬。
いよいよ、一年間の中で最も生徒たちが心待ちにし、そして準備に奔走してきた一大イベント『白峯祭』の幕が上がった。
朝の澄んだ空気の中、正門をくぐる生徒たちの足取りはどこか軽やかで、それぞれが胸の高鳴りを隠しきれない様子で校舎へと吸い込まれていく。
本日は、一般客を入れず、生徒と教職員のみで行われる白峯祭の一日目。校内限定の開催とはいえ、各クラスが趣向を凝らした看板や装飾を競い合うこの初日は、明日以降の一般公開に向けた最大の試金石でもあった。
俺──稲葉奏介は、いつものように目立たないように前髪を深く下ろし、地味なモブ男子としての仮面をしっかりと装着したまま、ひっそりと校舎の階段を上っていた。
校内の雰囲気は普段の学校生活とは全く異なっている。廊下のあちこちに色鮮やかなポスターが貼り巡らされ、クラスの準備の仕上げに追われる生徒たちの慌ただしい足音や、ワクワクした笑い声がそこかしこに響き渡っていた。
ついに、始まっちまったな……。
胸の奥で小さく呟きながら、俺は自分が担当する一年Cクラスの教室へと向かった。
この数週間というもの、俺は裏方の雑用係として段ボールを運び、ペンキを塗り、和風の装飾を組み立てるために文字通り泥まみれになって働いてきた。
華やかな表舞台に立つことはない。けれど、自分が地道に作り上げた土台の上でクラスの皆が楽しんでくれるなら、それで十分だ。そう自分に言い聞かせながら、俺はCクラスの扉をそっと開けた。
§
午前九時。全校生徒が体育館へと招集され、白峯祭の盛大な開会セレモニーが執り行われた。
ステージの上では、生徒会長の力強い挨拶に続き、各クラスの代表者たちがそれぞれの出し物のPRを簡潔に行う。体育館の天井が割れんばかりの拍手と歓声が飛び交う中、俺はひな壇の端のほうで、周囲の熱気に圧倒されないように小さく身を縮こまらせていた。
そして、セレモニーが終わり、生徒たちはそれぞれのクラスへと戻っていく。
一年Cクラスの教室は、開店に向けた最後の仕上げと最終確認を行うため、一気に緊迫と興奮が混じり合った空気に包まれた。
教壇の前に立ったのは、クラス委員長を務める男子生徒だった。彼ははちまきを頭にしっかりと締め直し、気合十分の表情で教卓を叩いた。
「おい、皆! いよいよ白峯祭初日の扉が開くぞ! 俺たちの出し物、和風メイド&執事喫茶『雅』は、すでに全校で噂になっている!」
委員長のその声に、教室のあちこちから「おーーっ!」と頼もしい歓声が上がる。
「ここまで、皆で内装を作ったり、看板を準備したり、本当に頑張ってきた! 裏方の奴らも、本当によくやってくれた!」
その言葉に、クラスメイトの何人かがちらりと俺の方に視線を向け、軽く会釈をしてくれた。俺も小さく頷き返す。
「目標はもちろん、全クラスの頂点、白峯祭の『最優秀賞』だ! みんな、最高の笑顔と接客で、お客さんを骨抜きにしてやろうぜ!」
委員長が右手を力強く突き上げる。
「「「目指せ、最優秀賞――っ!!」」」
教室中に響き渡るような気合の入った掛け声とともに、一年Cクラスの士気は最高点へと達した。
§
午前十時。校内放送のチャイムが鳴り響き、ついに白峯祭一日目がスタートした。
その瞬間。
一年Cクラスの教室の前に作られた特製の和風鳥居と、色鮮やかな赤い和紙の行灯が飾られた入り口の向こう側から、信じられないほどの数の足音が押し寄せてきた。
「おい急げ! 一年C組のメイド喫茶、もう開くぞ!」
「マジか、早くしないと待たされるぞ!」
「七条さんたちのメイド姿を絶対に見逃すな……!」
「執事服姿の常磐君に会わないと……!」
開け放たれた教室の扉の向こう側は、まさに黒山の人だかりだった。
他クラスの生徒たちはもちろん、上級生の男子グループから、噂を聞きつけた女子生徒たちまで、一斉に押し寄せてくる。
「い、いらっしゃいませ……っ!」
入り口の受付を担当していた女子生徒が、あまりの圧倒的な人数の多さに少しだけ引きつりながらも、声を張り上げて客を迎え入れる。
瞬く間に、教室内に並べられた竹林風の装飾が施されたテーブル席は、すべて埋め尽くされた。それどころか、席に座りきれなかった生徒たちが通路にまであふれかえり、入場制限すれすれのパニック状態に陥る。
「す、すごい熱気だな……」
俺は厨房の隅、給仕の邪魔にならない位置に身を潜めながら、その凄まじい光景に思わず圧倒されてしまった。
教室の中央では、和風の執事服に身を包んだ常磐弓弦が、完璧なまでの爽やかな笑顔とスマートな身のこなしで客を席へと案内している。その整ったセンターパートの髪型と、体にフィットした黒の執事服の組み合わせは、まるで少女マンガから飛び出してきた王子様のようで、遠くで見ている女子生徒たちから「キャーッ!」という黄色い歓声が惜しみなく送られていた。
そして、その執事たちのサポートを受けながら、フロアを縦横無尽に動き回る『和風メイド』たちの姿こそが、この『雅』の最大の目玉だ。
和を基調とした白と紅の着物風メイド服──それが、今回の1-Cの女子たちが身にまとっている衣装だった。
伝統的な和服の優美なシルエットを残しつつ、動きやすさを考慮した膝丈のプリーツスカート風の裾、そして胸元には可愛らしいリボンと、頭には小さな和風の髪飾りがあしらわれている。その絶妙なデザインは、着用する少女たちの魅力を限界まで引き出していた。
まずフロアの中心で、圧倒的な存在感を放ちながら客の注文を受けていたのは、芹愛だった。
「お待たせいたしました。ご注文の『特製・抹茶オレとあんみつセット』でございます」
芹愛のその落ち着いた、鈴を転がしたような美しい声音が、喧騒に包まれた教室にスッと響き渡る。
彼女の完璧に整えられた黒髪のハーフアップには小さな白い花の髪飾りが揺れ、着物風のメイド服が彼女のすらりとした気高いスタイルを上品に包み込んでいた。学校のアイドルとしての気高さと、喫茶店の店員としての丁寧なホスピタリティが完璧に融合しており、注文をしている男子生徒たちは、彼女の顔を直視することすらできずに真っ赤になってモジモジしている。
「さ、最高だ……。生で見る七条さんの和風メイド姿、破壊力が高すぎる……っ!」
「あんなの直視したら心臓が持たないって……!」
客席のあちこちからそんな感嘆の声が漏れる中、芹愛は少しだけ困ったような、けれど完璧なプロの微笑みを崩さずに、テキパキと仕事をこなしていく。
そのすぐ隣のテーブルでは、まるで対照的なキャラクターでフロアを明るく盛り上げている少女がいた。羽川だ。
「はーい、お待たせしました! アツアツのみたらし団子と、甘ーいお汁粉だよ! いっぱい食べていってね!」
羽川はポニーテールをピンと揺らしながら、底抜けに明るい笑顔を振りまいていた。
彼女の着る和風メイド服は、少しだけリボンが大きく、活動的な彼女の雰囲気にぴったりとマッチしている。運ばれてきた甘味をテーブルに置く際も、「美味しくなるおまじない、美味しくなれ~、萌え萌えキューン!」と愛嬌たっぷりのポーズを披露し、それを目の当たりにした男子グループは「うおーーっ、可愛いすぎるだろ!」と完全にノックアウトされていた。
彼女の周りには常に楽しげな笑い声が絶えず、クラスのムードメーカーとしての才能を遺憾なく発揮している。
さらに、フロアの隅の落ち着いた席で、周囲の喧騒を一切気にせず、完璧すぎる手際でお盆を操っていたのは、瑞姫だった。
「……お邪魔します。ご注文のほう、お伺いしてもよろしいかしら」
瑞姫の着こなす和風メイド服は、彼女の少しクールで孤高な雰囲気を引き立てるように、シックな色合いの紺をベースにしたものだった。
切れ長の涼しげな目元で客を見据えるその姿は、少しツンとしたところがあるものの、それが逆に一部の熱狂的なファンの心を猛烈に刺激しているらしかった。
「……あ、あの、おすすめは何ですか?」
「おすすめは、こちらの『白玉ぜんざい』よ。甘さ控えめで、小豆の風味がしっかりしてるから。……文句言わずに、それ頼みなさいよ」
少しだけ口調が鋭くなりながらも、ちゃんと客の好みに合わせた提案をする瑞姫の姿に、注文した男子は「は、はい! それを頼みます!」とガチガチに緊張しながら頭を下げていた。彼女が時折見せる照れ隠しのような不器用さも、この喫茶店においては最高のスパイスとなっている。
そして、極めつけは、フロアの華としてひときわ異彩を放っていた玖珂玲於奈だった。
「あら、いらっしゃい。私たちの『雅』へようこそ。今日はたっぷり楽しんでいってくれる?」
インフルエンサーとしても活動している玖珂は、ごく自然にモデルさながらの完璧なポーズと、思わず息を呑むほど妖艶で魅力的な微笑みを返していた。
彼女の着るメイド服は少し着こなしがアレンジされており、華やかなアクセサリーが上品に輝いている。彼女が近くを通るだけで、周囲の空気がパッと華やぎ、男子生徒たちはもちろん、見学に来ていた他クラスの女子たちまで「うわ、玖珂さんやっぱりめちゃくちゃ可愛い……!」と見惚れてしまうほどだった。
§
『雅』の勢いは、昼を過ぎても衰えるどころか、ますます加速していく一方だった。
料理の美味しさと、和風メイド&執事たちの圧倒的なビジュアルの良さが口コミで一気に校内に広がり、教室の外には常時数十人もの行列ができるほどの超人気スポットと化していたのだ。
特に、フロアが少し落ち着いた時間帯に突如として始まった『記念撮影サービス』は、教室のキャパシティを超えるほどの熱狂を巻き起こした。
「す、すみません! 七条さんと一緒に写真撮ってもらってもいいですかっ!?」
「あ、私も! 羽川さんと玖珂さんと一緒に……!」
客たちからの熱烈なリクエストに応え、芹愛、羽川、瑞姫、そして玖珂の四人が並び、特設された和風の屏風の前でポーズをとる。
パシャパシャとスマホやデジカメのシャッター音が鳴り響き、彼女たちはそれぞれの個性あふれる最高の笑顔やポーズでそれに応じた。フラッシュの光の中、その四人の美少女が並ぶ光景は、もはやプロのアイドルグループの撮影会さながらの華やかさだった。
みんな……すげえな……。あんな大勢の前で、あんなに堂々と……。
俺は厨房のカウンターの隙間からその様子を眺めながら、思わず圧倒されて感嘆の息を漏らした。
自分のようなモブには一生縁のない、眩しすぎる世界だ。
……と、その時だった。
ひときわ賑わう入り口のほうから、聞き覚えのある低く威厳のある声が響いてきた。
「おや、ここはすごい賑わいだな。一年C組のメイド喫茶は、噂以上の大繁盛じゃないか」
「ほんとですねぇ。先生、私たちもちょっとお茶でもしていきませんか?」
その声の主たちに、教室の入口で案内をしていた男子生徒が「ひっ……!?」と声を詰まらせ、完全に固まった。
そこに立っていたのは、我が校の鬼教頭として恐れられている厳格な教師と、生徒指導を担当する若い女性教師の二人組だった。
まさか、学校の教師陣が、よりによってこの生徒たちで埋め尽くされたメイド喫茶に直接やってくるとは誰も予想していなかったため、教室内の空気が一瞬でピタリと凍りついた。
「せ、先生方……!? あの、ここはですね……!」
「おいおい、そんなに怯えるな。我々は別に営業妨害に来たわけじゃない。生徒たちの頑張りを見に来たのさ。……空いてる席はあるかね?」
鬼教頭と呼ばれている厳格な先生が、意外にも楽しげな笑みを浮かべながら店内を見回す。
そのピンチを救ったのは、我がクラスの看板娘である芹愛だった。
彼女は少しも動揺することなく、プロの微笑みを崩さずにスッと教師たちの前へと歩み寄った。
「先生方、ご来店ありがとうございます。ただいま満席となっておりますが、特別にこちらの特等席をご用意いたします。どうぞ、こちらへ」
芹愛のその物腰の柔らかく、かつ隙のない完璧な案内ぶりに、鬼教頭も「おぉ、七条君か。ありがとう、それじゃあお邪魔しよう」と、すっかり機嫌を良くして席についた。
その後ろで、羽川や玖珂、瑞姫も絶妙なタイミングでお茶のメニューを差し出し、教師たちを完全に手懐けてしまったのだ。
まさか、厳格な鬼教師までが列に並んでメイドのおもてなしを受けるという事態に、教室の生徒たちは「まさか教頭が来るとは……!」「七条さんの接客スキル、マジで神がかってるな……!」と、驚愕と称賛の声を上げていた。
§
やがて、夕方の鐘が校内に響き渡り、白峯祭一日目の終了時刻である午後四時を迎えた。
「──以上で、本日の営業を終了といたします! 皆様、ご来店誠にありがとうございましたーっ!」
羽川の元気いっぱいの声が響き渡ると、教室を埋め尽くしていた生徒たちや、最後まで残っていた教師たちから、割れんばかりの大歓声と盛大な拍手が巻き起こった。
「やったぁぁぁ――っ! 終わったぁ――っ!」
「大成功だ、大成功! 客の数がマジでエグかったぞ!」
教室の中は、緊張の糸が切れた生徒たちの歓喜の叫びと、充実感に満ちた笑顔であふれ返った。
疲労の色を隠せないものの、皆の顔には「やり切った」という最高の達成感が輝いている。
和風メイド服を着た芹愛、羽川、瑞姫、玖珂の四人も、大きなテーブルの周りに集まり、パタパタと軽く自分たちの顔を扇ぎながらホッと息をついた。
「ふう……疲れたぁ! でも、すっごく楽しかったね!」
「うん。大変だったけど、皆喜んでくれてた」
「足がパンパンだけど……これだけ繁盛してくれたら、明日の一般公開も期待できそう」
「……お疲れ様、皆。とりあえず、今日はゆっくり休みましょう」
四人がそれぞれに笑顔を交わし合う姿は、疲れていながらも最高に美しかった。
俺はというと、厨房のカウンターの片付けをしながら、その賑やかな光景を遠くから静かに眺めていた。
表舞台に立つことはなかったけれど、自分が裏方として支えたこのクラスの出し物が、これほどまでの大成功を収めたという事実が、胸の奥をじんわりと温かく満たしてくれていた。
白峯祭、一日目。大成功。
明日はいよいよ、一般公開の二日目がやってくる。
けれど、その華やかな熱狂の裏側で、静かに不穏な運命の歯車がい動き始めていることに、この時の俺はまだ気づいていなかったのだ。




