第34話 二人きりで買い出し、飲み込む言葉
一年Cクラスが決定した学園祭の出し物である『和風メイド&執事喫茶』。
その準備期間が本格的に始まってからというもの、放課後の教室は常に独特の浮かれ気分と、何かを創り上げる熱気とに包まれていた。
教室の中では、男子たちが竹林風の装飾を作るために段ボールを緑色の画用紙で包み、女子たちは着物風メイド服の試作品や、和風の髪飾りのデザインをめぐってキャッキャと賑やかに声を弾ませている。
そんな喧騒の中心から少しだけ離れた場所で、俺は両袖をまくり、茶色の段ボールを大量に抱えていた。
「おい、稲葉! その段ボール、そこのロッカーの脇に積んでおいてくれ!」
「了解」
クラス委員長の声に短く返事をし、俺はザラザラとした紙の質感を肌に感じながら重たい荷物を運ぶ。
看板の作成、買い出しのリストアップ、内装のための資材調達。クラスの誰もやりたがらない泥臭い作業のほとんどは、自然と俺の役割になっていた。
目立たないモブ男子。裏方の雑用係。
それは周囲から都合よく使われているだけのポジションかもしれないが、華やかな表舞台の人間関係や、クラスのめんどくさいしがらみから一歩引いた安全な場所で息を潜めていられるという意味では、今の俺にとって最も居心地の良い隠れ家でもあった。
「あー、もう! 赤い和紙の在庫が足りないじゃん! これじゃあ、入り口の行灯が作れないよ!」
教室の前方、黒板の近くで、買い出しのメモを片手に頭を抱えていたのは羽川だった。彼女は困ったように振り返り、教室全体を見回す。
「ねえ、誰かさ、今から駅前のショッピングモールまで、買い出しに行ってきてくれない? 赤い和紙と、あとテーブルクロス用の布地も追加で必要なの!」
羽川の声に、クラスの生徒たちはそれぞれの作業の手を止め、あるいは気まずそうに目を逸らした。
「えー、今から買い出し? 俺たち、内装の組み立てで手が離せないよ」「私、クラスの衣装係の型紙直しで忙しいー」といった声が次々と上がり、誰もが自分に与えられた持ち場で手一杯の様子だった。
「うーん、困ったなぁ……。放課後のうちに買い出しを済ませないと、明日の作業に間に合わないのに……」
羽川がぷぅっと頬を膨らませて腕を組んだその時、彼女の鋭い瞳が、窓際の隅で地味に段ボールの整理をしていた俺をスッと捉えた。
そして、彼女の顔にパッと悪戯っぽい、どこか企んだような笑みが浮かぶ。
「あ! そうだ! 稲葉君!」
「……俺か?」
嫌な予感が背筋をスッと駆け抜けたが、時すでに遅しだった。羽川はスタスタと足音軽く、まっすぐに俺のところへと歩いてきた。
「稲葉君、今手の空き具合どう? 買い出し、行ってきてくれないかな?」
「俺一人でか? いいけど、荷物が多くなるなら二人くらいで行った方が……」
「そうだよね! 一人じゃ大きな布地とか持って帰るの大変だもんね!」
羽川は俺の言葉を遮るように勢いよく頷くと、くるりと鮮やかな身のこなしで教室の反対側を振り返った。
「ねえ、芹愛! ちょっとこっち来て!」
「え? 私?」
呼ばれたのは、クラスの中央で和風メイド服の布地サンプルを眺めていた芹愛だった。彼女は首をかしげながら、俺たちの方へと歩いてくる。
「どうかしたの、祈?」
「ねえ、買い出しなんだけどさ、稲葉君一人じゃ大変でしょ。だから、芹愛も一緒についていってあげなよ!」
その羽川の爆弾発言に、俺は「はっ……?」と間の抜けた声を漏らし、隣にいた芹愛は「えっ、私が……?」と目を見開いてフリーズした。
教室の空気が、ほんの一瞬だけピタッと止まったような気がした。学園祭の準備の最中とはいえ、クラスの誰もが憧れる高嶺の花である芹愛と、地味な雑用係のモブ男子である俺が、二人きりで放課後の買い出しに出かける。そんな組み合わせ、客観的に見ればどう考えても不自然極まりない。
「い、いや、羽川、待てよ。俺一人でもなんとか……」
俺が慌てて弁解しようとすると、羽川は「何言ってるの!」とその背中をパーンと景気よく叩いた。
「ほら、他に今手が空いてる人なんて誰もいないっぽいし、芹愛はさっき『衣装の布地選びなら私の意見も聞くといいよ』って自分で言ってたでしょ! だから、布の質感とか色合いとかをちゃんとチェックできる芹愛が一緒に行くのが一番確実なの!」
「で、でも……」
芹愛は困惑したように俺と羽川の顔を交互に見つめた。彼女の瞳の奥には、周囲の目を気にする戸惑いが複雑に揺らいでいるのがわかる。
「じゃあ、羽川も一緒に来いよ。三人で行けばもっとスムーズだろ」
俺が苦し紛れにそう提案すると、羽川はフッと鼻で笑い、手をヒラヒラと振ってみせた。
「無理無理! 私はこのあとクラスの内装全体のデザイン図を委員長と一緒に仕上げなきゃいけないから大忙しなの! ほら、二人とも、とっとと言った行った!」
羽川は俺と芹愛の背中を両手でグイッと力任せに押し、教室の扉の方へと追いやった。
「ほら、ボサッとしてないの! いってらっしゃい!」
その推しの強さの前に、俺たちは抵抗する間もなく、半ば強制的に放課後の教室から押し出されてしまったのだった。
§
校舎の外に出ると、夕方に差し掛かる柔らかな黄金色の光が、白峯高校の校庭を優しく包み込んでいた。
風が吹くたびに、プラタナスの枯れかけた葉がカサカサと乾いた音を立てて足元を転がっていく。
俺たちは並んで学校の正門を抜け、駅前へと続く緩やかな坂道を歩き始めた。
「……まったく、祈の勢いにはいつも本当に驚かされるよね。勝手に話を決めちゃって……ごめんね、奏介君、無理やりみたいになっちゃって」
芹愛が少し申し訳なさそうに眉を下げながら、俺を上目遣いで見上げる。
「いや、芹愛が謝ることじゃないさ。あの勢いじゃあ、誰も羽川には逆らえないって」
俺が苦笑いしながら答えると、芹愛は「ふふっ、確かにそうだね」とクスリと笑った。
「それにしても、こうして二人で放課後に並んで歩くのって、なんだかんだではじめてじゃないか?」
「そうだね……。学校では、どうしてもお互いの立場を気にしなきゃいけないから、こうしているだけで、すごく新鮮で、自由になれた気がするよ」
俺たちはそのまま他愛のない雑談を交わしながら、駅から少し離れた場所にある大型のショッピングモールへと足を進めていった。
平日の夕方ということもあり、モールの店内はそれほど混雑しておらず、落ち着いた空気が流れている。
俺たちはまず、羽川から頼まれていた和風メイド喫茶用の『赤い和紙』を探すため、文具・雑貨コーナーへと向かった。
「あ、これなんてどうかな? 少し厚手だし、行灯の骨組みに貼るにはちょうどよさそうだけど」
芹愛が棚から一冊の鮮やかな赤い和紙を取り出し、私に見せてくれる。
「お、いいなそれ。破れにくそうだし、色合いも和風喫茶の雰囲気によく馴染みそうだ」
「じゃあ、これを必要分、五冊ほどカゴに入れちゃおうか」
テキパキと買い物をこなしていく彼女の姿は、普段の完璧なお嬢様としての凛とした美しさの中に、どこか家庭的なしっかり者の一面が垣間見えて非常に微笑ましい。
文具コーナーでの買い物を終えたあと、俺たちは、次は布地を取り扱う手芸・ファブリック専門店へと移動した。
「次は、テーブルクロス用の布地だね……。祈のメモによると、落ち着いた紺色か、あるいは深い緑色が希望だったはず……」
広い店内の棚の間を歩きながら、芹愛は真剣な眼差しで色とりどりの布地のロールを見比べていく。
その横顔を眺めながら、俺はふと、学園祭の出し物が決まった時のクラスの喧騒を思い出していた。
「そういえばさ、芹愛」
「ん? どうしたの、奏介君?」
彼女が足を止め、首をかしげながらこちらを振り返る。
「皆は盛り上がってるけど、実際はどうなんだ? メイドで給仕するのって。抵抗とかないのか?」
「……メイド服、かぁ……」
その問いかけに、彼女は小さく呟くと、両手で自分のスカートの裾を軽くキュッと握りしめた。
「正直に言うとね……私、すごく恥ずかしいなって思ってるんだ。だって、学校の文化祭で、大勢の生徒や外部から来た人たちの前であんな可愛い格好をしてお盆を持たなきゃいけないなんて……想像しただけで顔から火が出そうだよ。……本当は、キッチンの奥でひたすら料理を作っているだけの担当のほうが、よっぽど気楽でよかったのに……」
そう言って、芹愛は困ったように小さくため息をついた。
「だよな。お前が表に出て給仕なんてしたら、男どもが全員お前のところに群がって大変なことになりそうだもんな」
俺が少しからかうような口調で言うと、芹愛は「もう、からかわないでよ……!」とぷぅっと頬を膨らませた。
「でもさ、クラスの男子たちにとっては、それが一生の夢みたいなものらしいぞ。皆、『七条さんのメイド姿が見れる』って本気で狂喜乱舞してたからな」
「そんなに見たいものかな……男の人って、本当にそういうの好きだよね」
芹愛は呆れたような複雑な微笑みを浮かべた。
「そりゃあ、学園のマドンナのメイド姿なんて、いつでもどこでも見られるもんじゃないからな。メイドは、いつの時代も、男にとっての絶対的な需要があるんだよ」
俺が冗談めかしてそう答えると、芹愛はクスッと上品に笑い声を立てた。
そして、彼女は少しだけ足を止め、俺の顔をじっと見つめながら、小首をかしげた。
「ねえ、奏介君」
「ん? なんだよ」
芹愛の瞳が、ふっと悪戯っぽく細められる。
「……奏介君も、私のメイド姿、見たい?」
その直球すぎる問いかけに、俺は思わずドキリとした。
「ま、まあ……見たくなくもないというか……」
「ふふっ、なにそれ」
「見たくないと言えば嘘になるというか……その、ぶっちゃけ、めちゃくちゃ見たいに決まってるだろ……!」
最後は半ば自暴自棄になるように本音を吐き捨ててしまうと、芹愛は満足したようにパッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「ふふ、そう言ってくれるなら……じゃあ、当日、ちょっとだけ我慢して、可愛いメイドさんを頑張ってみようかな」
その彼女の言葉に、俺の胸の奥は甘い熱で満たされた。
クラスの誰もが羨む彼女のメイド姿を、彼女の秘密の隣人として、誰よりも近い距離で感じられる──そう思うだけで、これからの準備期間も悪くないなと心から思えた。
§
手芸店での買い出しをすべて終え、俺たちはそれぞれ赤色の和紙や追加の布地が入った大きめの紙袋を手に持って、ショッピングモールを出た。
夕暮れはすっかり深まり、街のあちこちにネオンや街灯の明かりが灯り始めている。
「……なあ、芹愛」
ふと、胸の奥でずっとくすぶっていた澱みのような感情が、言葉となって喉元までせり上がってきた。
「ん? どうしたの、奏介君? 荷物、重い?」
芹愛は足を止め、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。その無邪気で優しい瞳を見ていると、これから口にしようとしている話題がいかに重たく、そして彼女を傷つけるかもしれないものであるかが痛いほどよくわかる。
母親・真中凛花が学園祭を訪れることを、彼女はもう知っているのだろうか。
それを今ここで、聞いておいたほうがいいのだろうか。
喉まで出かかった言葉を、俺は必死の思いで飲み込んだ。
もし、彼女が心の底から隠し通したい、あるいは思い出したくないと思っている過去の傷口を、俺が無神経にほじくり返してしまうことになったとしたら。
そんな想像をするだけで、胸が締め付けられるように痛む。
「……いや、なんでもない」
俺は作り笑いを浮かべ、首を横に振った。
「そう? なんだか最近、奏介君、時々すごく難しい顔をして考え事をしてるみたいだけど……何か悩んでることとか、隠してることない?」
芹愛は心配そうに眉を寄せ、俺の袖をキュッと小さな指で掴んだ。
そのまっすぐな優しさに触れるたび、彼女に嘘をついているという罪悪感が重くのしかかってくる。
「ほんとに何でもないって。ただ、学園祭の準備がこれから本格的になって忙しくなるから、ちゃんとやり遂げられるかなって考えてただけだよ」
「もう……そんなことで悩まないの。奏介君なら、どんな裏方のお仕事だって完璧にやり遂げられるって、私が一番よく知ってるんだからね」
彼女はそう言って、誇らしげに微笑んでくれた。
その笑顔の裏に、どれほどの過酷な過去が隠されているのか。
母親である真中凛花が白峯高校の学園祭にサプライズ訪問するという情報が、彼女の平穏な日常をいつ音を立てて引き裂くかもしれないという恐怖を、俺は一人で抱え込みながら、ただ彼女の手をそっと握り返すことしかできなかった。




