第33話 学園祭の出し物決め、背景のモブ
長い夏休みが終わりを告げた。
二学期の初日、一年Cクラスの教室。窓から吹き込む風が、クリーム色のカーテンをふわりと膨らませている。
始業式後のホームルームでは、担任の短い話があってから、いよいよ本日の本題に移った。
黒板の端に、チョークの白い文字で『学園祭準備について』と大きく書かれている。クラス委員長を務める男子生徒が、教壇の真ん中に立ち、周囲を見回した。
「えー、それではこれより、十月に予定されている白峯祭の、我が1-Cの出し物を決定したいと思います。何か、希望や意見のある人、手を挙げてくださーい」
その一言が発せられた瞬間、教室の空気がパッと色めき立った。それまで夏の終わりの気だるさに包まれていた空間が、一気に行事への期待という熱気を帯びて沸き立つ。
「はいっ!」
一番に声を上げたのは、クラスのムードメーカーであり、日頃から目立つことにかけては一歩も引かない羽川だった。
「クラス委員長! 私、意見があります!」
「おっ、羽川さんか。いいよ、言ってみて」
「やっぱりさ、せっかくの学園祭なんだから、皆でドカンと盛り上がれるやつがいいよね! 例えば、お化け屋敷とか! キャーって叫べるやつ!」
羽川の提案に、前方の男子グループから「お化け屋敷は暗くて女子と肌が触れ合うから賛成!」という不純な動機丸出しの声が飛ぶ。
「却下! 男子は下心隠さなさすぎ!」と、すかさず別の女子が反対の声を上げた。
その後も、「定番の模擬店で焼きそば」「いやいや、本格的な演劇をやろうよ」「教室を丸ごとカジノ風に改装してディーラーを美少女に」など、多種多様な意見が飛び交い、教室はガヤガヤと騒がしくなっていった。
そんな喧騒を、俺は少し離れた窓際の席から、ぼんやりと眺めていた。
前髪をいつも通り重たく下ろした俺は、息を潜める。こういうクラス全体を巻き込むイベントの時、自分のような『モブ』のポジションにいる人間は、とにかく意見を求められないように存在感を透明にすることが鉄則だ。
「ねえ、どうせなら見た目でインパクトがあるやつの方がよくない?」
話し合いが白熱する中、そう意見したのは玖珂玲於奈だった。彼女は髪の巻き毛を指でクルクルと弄りながら続ける。
「どうせやるなら、見た目でもしっかり楽しませたいじゃない? 来てくれたお客さんが、思わずスマホで写真を撮ってSNSにアップしたくなっちゃうような、そういう映える空間がいいと思うけど」
玲於奈のその言葉に、すかさずクラスの男子たちの目がギラリと光った。
「映える空間……?」「それってつまり、可愛い衣装とか着てくれるってことか……?」という、男子特有の邪な思惑が、教室のあちこちから目に見えるような熱気となって立ち上る。
「あ、それ賛成!」
そこに油を注いだのは、またしても羽川だった。彼女はパッと両手を叩き、面白そうに目を輝かせる。
「衣装といえばさ! 普通じゃつまんないし、せっかくなら普段着られないような特別な格好がいいよね! 例えば……そう、メイド服とか、執事服とかさ!」
その『メイド服』という単語が出た瞬間、男子たちが、一斉に「おっ……!?」「それ、めちゃくちゃいいじゃん……!」と、猛烈な勢いで食いついた。
「メイド服か! それ、男子ウケも女子ウケも抜群に良さそうだな。いいじゃねえか、それ」
一度火がついた男子たちの可愛い女の子たちのメイド姿が見たいという強烈な邪心の炎は、もう誰にも止められない。
「頼む! ダブル七条さん! 玖珂さん! 羽川さん! 一生のお願いだからメイド服着てくれ!」
「頼む! お前らのメイド姿なしでは今年の学園祭を生きる意味がない!」
男子たちの必死すぎる懇願と、女子たちの「まあ、衣装が可愛いなら悪くないかもね」という軽いノリが混ざり合い、議論はみるみるうちにその方向へと流されていく。
「では多数決をとります!」
委員長も、この熱気に押されるようにして黒板の前に立ち、チョークを握りしめた。
「1-Cの出し物は、和風テイストを取り入れた『和風メイド&執事喫茶』とする意見に賛成の人、手を挙げてくださーい!」
結果は、言うまでもなく圧倒的だった。
女子の半数以上が「和風の可愛い着物風メイド服なら着てもいい」と賛成に回り、男子のほぼ全員が両手を挙げて狂喜乱舞した。
「よし、決まりだ! 女子はメイドで男子は執事な! 女子は羽川、男子は常磐とか中心になって準備進めてくれよ!」
委員長のその宣言に、羽川と常磐は「うん、任せて!」「ああ、任せろ!」と爽やかにサムズアップしてみせた。
そんなこんながあって、教室中が「衣装はどうする」「内装は竹林風がいいか」と一気に活気づく中、俺は自分の席で、ただ静かに小さく息を吐き出していた。
「おい、稲葉」
そんな俺に、ふと、斜め後ろから声をかける男子がいたので振り返った。
「お前さ、目立たないし、地味だからさ……看板とか内装の作成とか、そういう裏方の雑用頼めるか? お前、手先器用そうだしさ」
「……ああ、分かった。引き受けるよ」
俺は心の中で「むしろそれがいい」と安堵の息を漏らしながら、淡々と頷いた。
メイドや執事の姿で華やかに表舞台を彩る役目を与えられた上位カーストのイケメンや美少女たち。
そんな彼らとは対照的に、誰も見ていないところで黙々と段ボールを運び、ペンキを塗り、雑用をこなすだけの裏方。
それが、俺の定位置だ。
同じ世界にいながら、決して交わることのない、都合の良い『背景』。
これでいい。それが、俺と彼らとの間に引かれた安全な境界線なのだから。
心の中でそう自分に言い聞かせながら、俺は手元の英語の単語帳へと視線を落とした。
§
学校での騒がしい一日が終わり、夕闇が完全に世界を飲み込んだ頃。
自室に戻った俺は、机の椅子に深く腰掛け、手にしたスマホの画面をなんとなく眺めていた。
SNSのタイムラインを流し見したり、ネットニュースのヘッドラインをスクロールしたりするだけの、いつもの退屈なルーティン。
だが、その時、ふと目にとまった一つの記事のタイトルに、俺の指の動きがピタリと止まった。
『人気女優・真中凛花、主演秋ドラマの宣伝を兼ねて、母校である白峯高校の学園祭へサプライズ訪問決定!』
画面に映し出されたその文字を、俺は信じられない思いで二度、三度と読み返した。
記事の本文によると、現在放送が始まったばかりの彼女が主演を務める大型秋ドラマのタイアップ企画の一環として、白峯高校の学園祭に、サプライズゲストとして真中凛花本人が特別訪問を行うことが決定したという。そのイベントのスケジュールや、生徒たちとの交流企画なども大々的に報じられていた。
真中凛花。
その名前を見た瞬間、俺の脳裏には、夏休みに瑞姫から教えられた衝撃的な事実が鮮やかによみがえってきた。
『彼女は、芹愛の実の母親よ』──。
瑞姫のあの言葉が、頭の中でこだまする。
世間では誰もが羨む美貌と圧倒的な演技力を誇り、テレビや映画のスクリーンの中で眩しく輝くトップ女優。華やかなスポットライトを浴び持て囃されている彼女の本当の素顔。
スキャンダルで自分のキャリアが失われることを恐れ、まだ幼かった芹愛を実の父親の元へ置き去りにし、我が子を捨てて家を出ていった冷酷な母親──そんなイメージ。
「……真中凛花が、うちの学校に来る……?」
俺はスマホを握りしめたまま、小さく呟いた。
芹愛はこのニュースを、もう知っているのだろうか。
彼女は自分の母親が、よりによって自分が通う高校の学園祭に、世間の耳目を集めるための広告塔としてやってくることを、一体どんな気持ちで受け止めるだろうか。
思い出されるのは、雷の夜に彼女が語ってくれた過去だ。
愛人の娘として生まれ、母親に捨てられ、父親の本妻や家族から隔離された別棟で、冷たい孤独の中で震えていた幼い日の記憶。
彼女にとって、『母親』という存在は、温かな愛情の象徴などではなく、自分の人生を狂わせ、自分をこの世に置き去りにしていった冷たい絶望の記憶そのものだったはずだ。
彼女に直接聞いたことはない。
けれど、自分を捨てた母親のことを、彼女がよく思っているはずがないことは、想像に難くなかった。
もし、あの華やかな芸能人が、何食わぬ顔で生徒たちの歓声を浴びながら白峯高校の門をくぐり、自分を捨てて得た栄光を振りかざしでもしたら。
そんな残酷な光景を芹愛が目の当たりにしたら、彼女の心はどれほど深く傷つき、凍りついてしまうことか。
「本当に女優としての名声とキャリアを守るために、芹愛を捨てたのだとしたら……」
胸の奥から、言いようのない黒々とした怒りと、冷たい痛みが湧き上がってくる。
世間は彼女を『美しき実力派女優』『時代のアイコン』と持て囃し、その華麗な演技に酔いしれている。
しかし、その華やかなスクリーンの裏側で、我が子を切り捨てた女の醜い本性を知っているのは、世界でほんの一握りの人間だけだ。
スマホの画面に映る真中凛花の整った笑顔が、なぜか途方もなく薄気味悪く、そして残酷な仮面のように見えて、俺は思わず画面をオフにした。
真っ暗になった液晶画面に、自分の冴えない顔がぼんやりと映し出される。
学園祭の準備、和風メイド&執事喫茶の喧騒、クラスメイトたちの浮かれた熱気。
その表面的な楽しさの裏側で、どうしようもなくドス黒い現実の歯車が、音を立てずに回り始めているような予感がした。
芹愛を守りたい。
そのために、俺に何ができるのだろうか。
裏方の雑用係としてモブに徹し、安全な境界線の内側で息を潜めているだけの俺には、芸能界という巨大な権力や、彼女の過去のトラウマに直接立ち向かう力などないのかもしれない。
けれど、もし彼女がその残酷な現実の前に再び傷つき、涙を流すようなことがあれば──その時、俺は彼女にとって、『ただの背景』ではいられなくなるかもしれない。
心の中のざわめきを押し隠すように、俺は深く息をつき、夕闇に染まる窓外に目を向けた。




