第32話 藍色の夕暮れ、うさぎのぬいぐるみと頬にキス
大盛況のうちに幕を閉じたイルカショーのあとも、俺たちは水族館のショップでお土産を見て回ったり、夕暮れに染まり始めた海辺の散歩道をのんびり歩いたりして過ごした。
気がつけば、空の青さはゆっくりと群青色へと移り変わり、遠くの水平線の向こう側から、夕闇が静かに街を包み込み始めていた。
夏の終わりの空気を含んだ夕風が、心地よく汗ばんだ肌を撫でていく。
俺たちは水族館の正面エントランス前から発車する帰りのシャトルバスに乗り込み、一番後ろの窓際の席に並んで腰を下ろした。
「ふう……今日一日、本当にあっという間だったなぁ……」
バスのシートに深く体を預けながら、芹愛は心地よい疲労感に包まれたように、ふうっと小さく息をついた。その横顔には、最高の一日を過ごした充足感が、柔らかい笑顔となって浮かんでいる。
「そうだな。朝からずいぶん歩き回ったもんな。足、疲れてないか?」
俺が少し心配そうに覗き込むと、芹愛は首を横に振って、ふふっと楽しそうに笑ってみせた。
「ううん、全然疲れてないよ! むしろ、心がずっとワクワクしっぱなしで、疲れなんてどこかへ吹っ飛んじゃったみたい。本当に、夢みたいに楽しい一日だったから……」
彼女はそう言って、窓の外へ視線を向けた。バスの窓ガラスに映る夕暮れの街並みを眺めながら、彼女は今日起きた出来事を一つひとつ大切に噛り締めるように語り始める。
「朝、水族館の入り口で見たペンギンさんの置き物、すごく可愛かったよね。スマホのフォルダ、ペンギンさんだらけになっちゃった。あ、それに、館内に入ってすぐの水中トンネルも幻想的ですごく綺麗だったなぁ。頭の上を魚が泳いでいくなんて、まるで絵本の世界に迷い込んだみたいだったし……クラゲさんの水槽も、ずっと見ていられるくらい神秘的だった」
「ペンギンのプールも面白かったよな。あそこでずっとはしゃいでるお前を見てるのが、俺の一番の楽しみだったけどさ」
「もう、からかわないでよ……!」
芹愛は恥ずかしそうに頬を染め、軽く俺の肩をぽんと叩いた。
「それにね……何といっても、一番びっくりしたし、一番嬉しかったのは、あのイルカショーのステージに選ばれたことかな……!」
彼女の瞳が、夕闇の中の星のようにキラキラと眩しく輝いた。
「あんな風に大勢の人の前でイルカさんと一緒に呼吸を合わせてジャンプを成功させるなんて、人生で一度あるかないかの大冒険だったよ。あの瞬間、水飛沫がキラキラ光って、世界で一番自分が輝けたような気がして……本当に、最高の思い出になった。ありがとう、奏介君」
まっすぐに向けられるその純粋で熱のこもった瞳に、俺は少しだけ気恥ずかしくなりながらも、胸の底から温かい感情が溢れ出すのを覚えた。
「お前がそんなに喜んでくれるなら、連れて行った甲斐があったってもんだよ。ステージの上のジャンプ、めちゃくちゃ綺麗だったぞ。本当にすごかった」
「ほんとう? よかったぁ……失敗してルルちゃんを困らせたらどうしようって、直前まで心臓が飛び出しそうだったんだから」
そう言って胸に手を当ててホッとする彼女の姿を見ていると、朝からここまでの一連の光景が鮮やかに蘇ってきた。
バスはガタンと心地よい振動を立てながら、街の明かりが灯り始めた大通りを滑るように走り続けていく。
§
それからしばらくして、バスは俺たちの住むマンションの最寄り駅へと到着し、そこから歩いて見慣れたエントランスへとたどり着いた。
夏の夜の湿った空気が、ほんの少しだけ秋の気配を帯びてひんやりと肌をかすめる。
俺たちはいつもと同じように並んで階段を上がり、二階の廊下を進んで、いつものようにそれぞれの部屋のドアの前に到着した。
ガチャリ、と芹愛が自分の部屋の鍵を開けようと鍵穴に金属を差し込んだその時、彼女は名残惜しそうにふっと振り返り、柔らかな微笑みを浮かべた。
「今日は本当にありがとう、奏介君。朝からずっとエスコートしてくれて、美味しいご飯もご馳走になって……私、生まれてきて一番素敵な誕生日になったよ。すごく、すごく楽しかった」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中で、今日ずっと用意していたサプライズの計画がスッと動き出した。
今日は芹愛の希望で、いつもの身体の関係はなしということになっているのでここでお別れなんだけど、その前に渡したいものがあったのだ。
「いや、こっちこそ楽しい一日だったよ。……あ、おい、芹愛。ちょっと待っててくれ」
「え……?」
驚きで目を丸くする芹愛をその場に残したまま、俺は自分の部屋の鍵を慌てて開け、中へと飛び込んだ。
そうして、自室のテーブルの上に置いておいた大きな紙袋を手に取り、再びバタバタと廊下へと戻ってきた。
「お待たせ。これ、芹愛に……誕生日プレゼントだ」
「えっ……私に……?」
目をパチクリさせながら差し出された紙袋を受け取った芹愛は、恐る恐る中を覗き込んだ。
そして、その中から現れたものを見た瞬間、彼女は息を呑んで動きを止める。
そこに入っていたのは、ふんわりとした真っ白な毛並みをした、手のひらよりも少し大きめの可愛らしいウサギのぬいぐるみだった。つぶらな黒い瞳と、ぴんと立った長い耳。その愛らしいフォルムは、どこか見覚えのあるものだった。
「わぁ……っ……!」
芹愛の瞳が一瞬で潤み、彼女は震える両手でそのウサギのぬいぐるみを取り出した。
「これって……あの時の……!」
「ああ。夏祭りの夜、射的の屋台で全然違う景品しか当てられなくて、あの時お前が欲しがってたウサギのやつ、取れなかっただろ? それがずっと引っかかっててさ。だから、こっそりネットで探して、取り寄せたんだよ。少し遅れたけど……誕生日おめでとう、芹愛」
俺が少し照れくさそうに頭をかきながらそう告げると、芹愛はもう言葉が出ないらしかった。彼女はウサギのぬいぐるみを両手でギュッと胸元に抱きしめ、潤んだ瞳からポロリと一筋の涙をこぼした。
「……覚えててくれたんだ……あの時のこと……私、あのキーホルダーだってもちろん宝物だけど、このウサギさんもずっと欲しかったから……すごく、すごく嬉しい……っ!」
彼女は嬉しそうにウサギの頭を自分の頬にすり寄せ、愛おしそうに撫で回した。その無邪気で子供のような喜びように、俺の胸の奥も熱く満たされていく。
「それだけじゃないぞ。ほら、もう一つある」
俺がさらに紙袋の中から取り出したのは、おしゃれなボトルに入った高級な入浴剤のセットだった。
「入浴剤……?」
「ああ。お前、いつも毎日キッチンに立ったり、色々と気を張って疲れてるだろ? だから、今夜はこれでゆっくり体を温めて、疲れを癒してほしいと思ってさ。リラックスできる香りのやつを選んでみたんだ」
「奏介君……そこまで考えてくれてたの……?」
芹愛はぬいぐるみを持ったまま、さらに感動したような、愛おしげな眼差しで俺を見つめた。
「当たり前だろ。お前の誕生日は、俺にとっても特別な日なんだからさ」
その言葉を聞いた瞬間、芹愛の中で何かが決壊したようだった。
彼女は手に持っていたウサギのぬいぐるみと入浴剤の袋をそっと床に置くと、一歩前に踏み出し、ためらうことなく俺の胸元へと飛び込んできた。
「っ……! 芹愛……?」
驚く俺の首元に彼女の細い腕がしっかりと回り、その温かい体が勢いよく押し付けられる。
そして次の瞬間──。
俺の右の頬に、ふわりと柔らかく、そして温かい感触が触れた。
チュッ。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
芹愛が、俺の頬にそっとキスをしたのだ。
「な……!」
「……いまのは……その……お礼の、だから……!」
彼女は恥ずかしさのあまり両手で自分の真っ赤な顔を覆い、自分の部屋のドアをガチャリと開けると、ウサギのぬいぐるみと入浴剤を慌てて拾い上げ、一目散に部屋の中へと駆け込んでいった。
「じゃっ、おやすみなさい、奏介君……っ!!」
「バタン!」という盛大な音を立てて、ドアが固く閉ざされた。
静まり返った廊下に、ぽつんと俺一人だけが取り残される。
俺は、彼女がキスしていった右の頬にそっと自分の右手を当てた。
まだそこには、彼女の唇の柔らかさと、熱を帯びた体温の残り香がしっかりと残っているような気がした。
週末の夜に身体を重ねるのとはまた違った甘さに、俺は頬を押さえたまま、しばらくの間、一人でニヤニヤと奇妙な笑みを浮かべ続けていた。




