第31話 イルカショーと、水飛沫のきらめき
巨大な屋外プールの周囲を取り囲むように作られた円形の観覧スタジアムは、午後三時の開演時間が近づくにつれて、夏休みを満喫する家族連れやカップルたちの熱気で埋め尽くされていった。
俺たちは運よく最前列から数えて三番目、水面が間近に見える中央寄りの席を確保することができた。
夏の強い日差しがプールの水面を眩しく照らし出し、キラキラと黄金色の輝きを放っている。潮風が心地よく頬を撫でる中、スタジアムのあちこちから子供たちの楽しげな歓声や、今か今かとショーの始まりを待ちわびる人々のざわめきが響いていた。
「すごい人だね、奏介君! 席が取れて本当によかったぁ」
隣に座る芹愛は、手元に持ったパンフレットでパタパタと軽く顔を扇ぎながら、期待に胸を膨らませたように目を輝かせている。今日の彼女のスカイブルーのワンピースは、青い空とプールの水面に溶け込むように美しく映えている。
「ああ、ほんとだな。これだけ盛り上がってるんだから、きっとすごいショーなんだろうな」
「うんっ! 私、水族館のイルカショーを生で見るのってはじめてだから、本当に楽しみなんだぁ」
彼女はまるで遠足前の子供のように嬉しそうに両手を軽く握りしめ、前方のプールをじっと見つめている。
やがて、会場のスピーカーから軽快でリズミカルなファンファーレの音楽が響き渡った。
「皆様、お待たせいたしました! 本日は〇〇水族館オーシャンスタジアムへようこそ!」
お姉さんのよく通る明るい声がマイクを通じてスタジアム全体に響きわたると、観客席から一斉に大きな拍手が巻き起こった。
「さあ、いよいよ始まるよ、奏介君!」
「ああ!」
音楽のボリュームが一層大きくなり、プールの端にあるステージの水中から、巨体を優雅に揺らしながら一頭のバンドウイルカがスルスルと姿を現した。続いてもう一頭、さらに一頭と、合計四頭のイルカたちが息を合わせたように水面へと飛び出し、ピョンと空中で綺麗な弧を描いてから、再び水中へと音もなく潜り込んでいく。
「わぁ……っ!」
その見事なチームワークに、芹愛は思わず両手をパッと合わせ、感動したように声を漏らした。
ショーが始まると、スタジアムのテンションは一気に最高潮へと駆け上がっていった。
音楽のビートに合わせて、イルカたちが水面を力強く尾びれで叩き、体長二メートルを超える巨体でありながら信じられないほどの敏捷性で次々と大技を繰り出していく。水面を垂直に突き抜けるハイジャンプ、空中でクルリと見事な回転を見せるスピンジャンプ、そしてトレーナーのお兄さんやお姉さんの指示に従って見せるコミカルなダンス。
観客席からは「すごい!」「可愛い!」という歓声とともに、大きな手拍子のリズムが次々と生まれていく。
芹愛もまた、そのリズムに乗り遅れまいと、夢中になって楽しげな手拍子を送り続けていた。彼女の細い手が軽やかな音を立てるたび、その美しいハーフアップの髪がふわりと揺れ、彼女自身がまるでステージ上の主役のように輝いて見えた。
観客席のあちこちで巻き起こる歓声と、イルカたちが水面を叩くバシャーンという豪快な水音、そして目の前で繰り広げられるダイナミックなパフォーマンス。夏の日の青空の下、五感をすべて刺激されるような素晴らしい空間がそこには広がっていた。
そして、ショーが中盤に差し掛かったその時だった。
ステージの中央に立っていたマイクを持った女性トレーナーが、観客席に向けてパッと明るい笑顔を向けた。
「皆さん、イルカたちのジャンプ、すごかったですね! さて、ここからは、本日のスペシャルコーナーに移りたいと思います!」
その言葉に、スタジアムの観客たちが「おっ」と身を乗り出す。
「本日はなんと、観客席のみなさんの中から一名様に、特別に『臨時のメイントレーナー』を体験していただきます! 実際にイルカに合図を出して、この目の前で大ジャンプを成功させてみませんか?」
その提案に、会場のあちこちから「やってみたい!」「私を選んで!」とあちこちで手が挙がり、子どもたちの歓声が一層大きくなった。
お姉さんは笑顔を浮かべながら、手にしたマイクを軽く揺らし、観客席の上段から下段へとゆっくりと視線を巡らせた。
「それでは、本日のトレーナーに選ばれるのはどなたにしましょうか……うーん、そうですねぇ……あ、では、そこの一番前の方で、誰よりも素敵な笑顔で一生懸命手拍子を送ってくださっていた、そこのお嬢さん!」
お姉さんがピンと指差したその先。
そこに座っていたのは、ほかならぬ、俺の隣の芹愛だった。
「えっ……?」
芹愛は自分の胸にそっと手を当て、信じられないものを見るような驚いた表情で自分自身を指さした。周囲の観客たちの視線が一斉に彼女に集まり、「あの子だ!」「可愛いお姉ちゃんだね!」とあちこちから声が上がる。
「わっ、私ですか……?」
「そうです! スカイブルーのワンピースがとってもお似合いの、そこの素敵なお嬢さん! ぜひ、ステージへ上がって一緒にイルカとお友達になりませんか?」
お姉さんのフレンドリーな呼びかけに、芹愛はうろたえたように両手を軽く振り、「ど、どうしよう、奏介君……私、こんなの急に無理だよ……!」と、真っ赤な顔で俺の方を振り返った。
「せっかくのチャンスじゃないか。行っておいでよ、芹愛」
俺は優しい笑みを浮かべ、彼女の背中をそっと優しく押してあげた。
「ええっ、でも、上手に合図を出せなかったら、イルカさんが困っちゃうし……!」
「大丈夫だよ。お姉さんがちゃんと教えてくれるって。お前なら絶対にできるから、自信持って行ってきなよ」
俺のその力強い励ましの言葉に、芹愛は覚悟を決めたような顔をした。彼女は深呼吸を一つし、きゅっと唇を引き結んでから、小さく頷く。
「……う、うん、分かった。やってみる……!」
芹愛は慎重に階段を上り、スタッフのお姉さんにエスコートされて、水面スレスレの特設ステージへと上がっていった。
スカイブルーのフレアワンピースに身を包んだ彼女がステージの端に立つと、その抜群のスタイルと清楚な美しさが、広大なスタジアムの中で一際鮮やかに際立った。観客席からも「おぉ、綺麗なお姉さんだね」という感嘆の声が小さく漏れ聞こえてくる。
私は客席の最前列から、スマホを取り出してその晴れ舞台をしっかりとカメラに収めようと身構えた。
「それでは、お嬢さん、お名前を伺ってもいいですか?」
「あ……七条芹愛、です……」
マイクを通した芹愛の少し緊張した綺麗な声がスタジアムに響きわたる。
「芹愛ちゃん、よろしくお願いしますね! 難しくありませんからね、私が今から出す指示の通りに、手を大きく動かして、そして元気いっぱいの声で合図を出してあげてください。きっと、パートナーの『ルル』ちゃんが素晴らしいジャンプを見せてくれますから!」
お姉さんの隣に浮かぶ水面から、ツルリとした頭を出したイルカのルルちゃんが「キュイーッ!」と可愛らしい鳴き声をあげて挨拶をした。その姿に、芹愛はふっと緊張を解くような優しい微笑みを浮かべた。
「はい、わかりました……!」
芹愛は意を決したように表情を引き締め、お姉さんの指導に従ってステージの先端へと歩み出た。
彼女は足をしっかりと揃え、背筋をピンと伸ばす。その立ち姿は、さすがは完璧なお嬢様として日々を過ごしている彼女らしく、凛としている。
「それでは準備はいいですか? 皆さん、応援の拍手をお願いします!」
お姉さんの掛け声とともに、観客席から盛大な拍手が巻き起こる。俺も両手を力強く叩き、「がんばれ、芹愛!」と心の中で大きな声援を送った。
ステージの上で、芹愛は深く息を吸い込んだ。
彼女の視線の先には、青く澄み切った水面を静かに漂うイルカのルルちゃんがいる。
お姉さんから教えられた通り、芹愛はまず右手をすっきりと空高く突き上げた。そして、澄んだ、けれどよく通る凛々しい声をプール全体に向けて響かせた。
「──ルルちゃん! お願い、ジャンプしてっ……!」
その瞬間だった。
芹愛の振り下ろした右腕の動きに合わせるように、水面にいたルルちゃんがまるでその声と意思を完全に理解したかのように、凄まじい勢いで水底へと身を沈め、そして一気に水面へと突進した。
豪快な水音とともに、イルカのルルちゃんが重力を無視するかのように空高くへと跳ね上がる。
青空を背景に、水飛沫を全身にまといながら宙を舞う巨大なイルカの姿は、まるで絵画のように圧倒的で美しかった。
スタジアム中から「わぁぁぁーーっ!」という大歓声と、割れんばかりの拍手が爆発するように巻き起こる。
空中で見事な一回転を決め、イルカが「バシャン!」と豪快に水面へと着水すると、大量の水飛沫がキラキラとした無数のダイヤモンドの粒のように周囲へと飛び散った。その水飛沫のカーテンの向こう側で、ステージに立つ芹愛の顔には、これ以上ないほどパァッと満開の花が咲いたような、最高の笑顔が浮かんでいた。
「やった……! 成功した……!」
芹愛は両手で自分の口元を押さえ、嬉しさのあまりピョンと小さく飛び跳ねた。その無邪気で喜びを爆発させた彼女の姿は、とても眩しく、俺の胸の奥を激しく揺さぶった。
俺は夢中でカメラのシャッターを切り続けながら、心の中で強く叫んでいた。
すごいぞ、芹愛。最高に輝いているよ。
夏の青空と青い水面、そしてその中央で眩い笑顔を咲かせる彼女の姿は、俺の忘れられない夏の日の宝物として、しっかりと心に刻み込まれた。




