第30話 迷子の小さなキューピッド
大きなガラス窓から青くきらめく海原を一望できる水族館のオーシャンビューレストラン。差し込む太陽の光が水面に反射し、天井のあたりにゆらゆらと波の模様を映し出す幻想的な空間の中で、俺と芹愛は向かい合って席に座っていた。
テーブルの上には、水族館の特製ランチメニューが綺麗に並べられている。芹愛が頼んだのは、色鮮やかな野菜とサーモンがたっぷりと乗った海鮮サラダボウルと、貝殻の形をした可愛らしいモナカが添えられたハーブティー。俺は、ボリューム満点のローストビーフ丼と冷たいアイスコーヒーを選んでいた。
「うわぁ、美味しそう……! 見て、奏介君、このサラダ、お魚の形をしたニンジンが乗ってるよ」
芹愛はフォークを手に取り、嬉しそうに目を細めながら声を弾ませた。その横顔には、朝からずっと絶えることのない幸福な笑みが浮かんでいて、見ているだけで俺の胸の奥まで温かくなっていく。
「本当だ、凝った盛り付けだ。食べるのがもったいないくらいだな」
「そうだね。でももうお腹ペコペコ。ほら、いただきますをしよう、奏介君」
「ああ、そうだな。いただきます」
俺たちは手を合わせてから、それぞれの料理を口プに運んだ。
「ん……! サーモンがすごく新鮮で、ドレッシングの酸味もさっぱりしてて美味しい……。ローストビーフはどう、奏介君?」
「ああ、肉が柔らかくて特製のタレとすごく合うよ。スタミナがつく味だ」
「ふふ、今日は一日たくさん歩くから、しっかり食べておかないとね」
食事をしながら交わす会話は、他愛のないものだったが、それが何よりも心地よかった。学校では周囲の目を気にし、お互いの関係を隠すように秘密のベールに包んで生きている俺たちだが、今日この場所では、そんな面倒なしがらみは一切存在しない。ただの高校生のカップル──いや、正確には『友達』とまだお互いを定義し合っている二人組として、こうして並んでランチを楽しんでいる。その事実がただただ愛おしかった。
「ねえ、奏介君」
フォークを一度置き、芹愛はグラスの水を一口飲んでから、少しだけ真剣な、けれど柔らかい瞳で俺を見つめた。
「ん? どうした?」
「今日ね……ここに来るまでの電車の中でも、水族館に入ってからも、ずっと夢なんじゃないかって思ってたの。誕生日に、こんなふうに過ごせるなんて……私、これまでの人生の中で一番幸せな誕生日かもしれない」
その言葉は、飾り気のない、彼女の心の底からの本音のようだった。
「……俺もだよ、芹愛。お前とこうして一緒に過ごせて、笑い合えてる時間が、俺にとっても何よりも大切な宝物だ。……誕生日、おめでとう」
俺が少しだけ照れくさそうにそう告げると、芹愛の頬はみるみるうちに美しい朱色に染まった。
彼女は恥ずかしそうに視線を下に落とし、小さく「ありがとう……奏介君」と囁いた。その照れた横顔があまりにも可愛らしくて、俺は思わず見とれてしまった。
§
美味しいランチでお腹を満たしたあとは、館内のショップを覗いたり、海の生き物たちの解説パネルを一緒に読んだりと、のんびりとした時間を過ごした。
そして、スマートフォンの画面を確認すると、時刻は午後二時半を回ろうとしていた。
「そろそろいい時間だな。今日のメインイベントの一つ、イルカショーが始まるまであと三十分ってところか」
「ほんとうだ! 大人気のスタジアム形式のショーだから、早めに席を確保しておかないと良い場所が取れなくなっちゃうね。急ごう、奏介君!」
俺たちは急ぎ足で、水族館の奥にある巨大な屋外プールスタジアムへと続く通路を進んだ。
その時だった。
「ん……? あの子……?」
五歳か六歳くらいの、ピンク色の小さなワンピースを着た女の子の姿が目に映った。彼女は両手で小さなクマのぬいぐるみをもぎゅっと抱きしめ、大粒の涙をポロポロとこぼしながら、周囲を見回して泣きじゃくっていた。
「うぅ……お母さん……どこぉ……?」
どうやら、お母さんとはぐれてしまったらしい迷子の子供のようだった。
「……迷子の子みたい」
芹愛は一瞬で状況を察し、優しい目を細めながら、迷うことなくその女の子のそばへと歩み寄った。彼女はスカートの裾が汚れるのも気にせず、女の子の目の前でスッと膝をついて、同じ目線の高さに合わせた。
「ねえ、大丈夫? そんなに泣かないで、お姉ちゃんたちがついているからね」
芹愛のその穏やかで包み込むような優しい声色に、女の子はビクリと肩を震わせたあと、おずおずと顔を上げた。
「……おねえちゃん……?」
「そうだよ。お名前、教えてくれるかな?」
「……り……りか……」
「そっか、りかちゃんだね。可愛いお名前だね。私は芹愛、こっちにいるのが奏介君だよ」
芹愛は優しく微笑みながら、俺の方を振り返った。俺もその場にしゃがみ込み、「よろしくな、りかちゃん」と手を軽く振ってみせた。
りかちゃんは、少しだけ安心したのか、まだ涙を溜めながらも、俺たちの顔をしげしげと眺めた。
「イルカショーの開始まではまだ少し時間があるよね。この子のお母さんがきっと探しているはずだし、私たちが一緒にインフォメーションカウンターまで連れていってあげよう、奏介君」
「ああ、そうだな。それが一番確実だろ」
「うん。りかちゃん、お母さんのところへ一緒に行こうか」
芹愛が手を差し伸べると、りかちゃんは少し迷ったあと、小さくコクと頷き、その細い指をキュッと小さな手で握りしめた。
「うん……おかあさんといっしょに歩いてたんだけど……でも、気がついたらいなくなっちゃって……」
「そっか、怖かったね。じゃあ、お姉ちゃんたちと一緒に歩きながら探そうね」
芹愛は優しく梨花ちゃんの頭をなでると、彼女をつれてゆっくりと歩き出した。
広い館内の通路を、小さなりかちゃんを真ん中に挟んで歩く。
その様子は、まるで若い家族の一コマのようで、並んで歩く俺の胸にはなんとも言えない気恥ずかしさが広がっていた。
りかちゃんは、最初はしょんぼりしていたものの、芹愛が時折「あそこに大きなタコさんの看板があるよ」「綺麗なお魚がいるね」と優しく話しかけてあげるうちにすっかり気持ちを持ち直し、トコトコと楽しそうに歩くようになっていた。
しばらくそのまま歩いていたが、りかちゃんはふと足を止め、首をかしげながら上を向いて、私たちをじっと見上げた。
そして、あどけない声音でこう尋ねたのだ。
「ねえ……おねえちゃんと、おにいちゃんは……つきあってるの?」
「──えっ……!?」
そのあまりにも直球すぎる無邪気な質問に、俺と芹愛の足はピタリと止まった。
芹愛は一瞬で耳たぶまで真っ赤に染め上げると、慌てて両手をパタパタと大きく横に振り、必死になって否定の言葉を紡ぎ出した。
「ち、ちがうの、りかちゃん! 私たちはそういうのじゃなくて……その、お友達、だよ!ね、ねえ、奏介君っ……!?」
助けを求めるような潤んだ目でこちらを見つめてくる芹愛。
俺もまた、冷や汗を拭いながら必死に笑顔を作り、りかちゃんに説明した。
「あ、ああ、そうだよ、りかちゃん。俺たちはただの……その、仲のいい友達同士でさ……」
しかし、りかちゃんは俺たちの必死の言い訳などどこ吹く風といった様子で、小さな首をこてんと傾げ、あどけない顔で首を横に振った。
「ううん、ちがうもん」
「え……?」
「だっておててつないでるし、おめめがハートになってるもん。ぜったい、こいびとどうしだもん!」
子供特有の鋭すぎる観察眼と容赦ない指摘に、俺と芹愛は完全にノックアウトされた。否定すればするほど、なんだか自分たちの意識していることが図星のように突かれている気がして、余計に恥ずかしさが倍増していく。
芹愛は顔を両手で覆い、「もう……恥ずかしすぎるよ……」と消え入りそうな声で小さく身悶えしていた。
その絶妙なタイミングで、遠くの方から「りかーーっ! 梨花ぁーーっ!」と、若い女性の必死な叫び声が響き渡った。
「あ、おかあさんだ!」
りかちゃんがパッと顔を輝かせる。
見ると、青ざめた顔の女性が、こちらへ向かって走ってくる姿が見えた。
「梨花……っ! よかったぁ……! どこ行ってたの、お母さん心配で……!」
女性は泣きそうな顔で駆け寄ると、その小さな体をギュッと抱きしめた。りかちゃんも「ごめんなさぁい」と小さく謝る。
しばらく母娘が抱き合ったあと、母親は顔を上げ、俺たちに気がつくと、何度も頭を下げて深々と礼をした。
「あのっ、うちの子を保護してくださったんですか……? 本当に、本当にありがとうございました! 見つかってよかった……本当に感謝してもしきれません!」
「いえ、無事で何よりでした。人混みで不安だったでしょうから、しっかり手を繋いであげてくださいね」
芹愛が温かい笑顔でそう答えると、母親はさらに感謝の言葉を述べ、りかちゃんの手を引いて足早にその場を離れていこうとした。
けれど、その去り際に、りかちゃんはト母親から離れ、トコトコと俺の傍に近づくと、服の裾をクイクイと引っ張った。
俺が不思議に思って「ん?」と顔を寄せると、梨花ちゃんは俺の耳元に小さな手を当てて、ひそひそ声でこう囁いたのだ。
「ねえ、おにいちゃん。れんあいは、ごういんさもひつようだよ。たまにはグイグイおさないと、ダメなんだからね」
「──っ……!?」
あまりのませたアドバイスに、俺は思わず目を見開き、言葉を失って固まってしまった。
こんなにも幼い女の子に恋愛のアドバイスをされる日が来るなんて夢にも思っていなかった。
りかちゃんは満足そうにイタズラっぽくクスクスと笑うと、「がんばってね、おにいちゃん!」と元気に言い残し、母親のもとへとスキップしながら駆け戻っていった。
そのやり取りを少し離れた場所から見ていた芹愛は、首をかしげながら不思議そうに俺を見上げた。
「ねえ、奏介君。りかちゃん、最後に何か耳元で言ってたみたいだけど……いったい何を話してたの?」
その純粋な瞳で見つめられ、俺は顔が熱くなるのを必死に隠しながら、乾いた笑みを浮かべた。
「いや……その、大したことじゃないさ。ただの、小さなおませさんの独り言だよ」
「そう……? なんだかすごく楽しそうだったけれど」
芹愛は小首をかしげたあと、ふっと柔らかく微笑んだ。
「でも、無事にお母さんに見つかって本当によかったね。なんだか、すごく心温まるハプニングだったな」
「そうだな……」
俺は心の中で、さっきのりかちゃんの言葉をそっと反芻していた。
おませさんだったが、恋愛は時に強引さも必要だというその言葉は、妙に俺の胸の奥の深いところに響いていた。
そうだ。いつまでも「週末だけの関係」なんて線引きをして、遠慮してばかりいてはいけないのかもしれない。彼女のことが好きで、ずっと一緒にいたいと願うなら、もっと自分の気持ちを真っ直ぐに、強く示していく必要があるのだ。
「さあ、奏介君! そろそろ午後三時になるよ。イルカショーの会場、急がないと満席になっちゃう!」
芹愛が嬉しそうに俺の腕をギュッと引っ張り、スタジアムの方へと歩き出す。
「おう、急ごうか!」
俺は彼女の手をしっかりと握り返し、イルカショーへと、心新たに足を踏み出していった。




