第29話 水族館に咲く笑顔
夏休みという特別な期間も、いよいよ残すところ今日と明日の二日を残すのみとなっていた。
今日の俺の胸のうちは、朝から高揚感と、どこか心地よい緊張感で満たされていた。
今日は、芹愛の誕生日。そして、俺たちが約束していた二人きりの水族館デートの日だった。
午前九時過ぎ。俺はいつもより少しだけ気合を入れて選んだカジュアルなシャツとパンツに身を包み、隣の部屋へと続く廊下を歩いた。心臓がトクトクとリズミカルに早鐘を打っている。
いつも通り、彼女の部屋の前に立ち、深呼吸を一つしてからインターフォンのボタンをそっと押した。
ピンポーン、と柔らかな電子音が静かな廊下に響く。
直後、ガチャリと乾いた音を立ててドアが内側へと引かれた。
「おはよう、奏介君」
そこに立っていたのは、あまりにも眩しくて、息を呑むほど綺麗な芹愛の姿だった。
彼女の今日のコーディネートは、普段の学校で見せる凛とした制服姿や、休日の大人っぽい私服とは一味違っていた。
ベースに選ばれていたのは、涼やかな夏空を思わせる淡いスカイブルーのフレアワンピース。動くたびにふんわりと軽やかに揺れるスカートの裾が、彼女のすらりとした美しい脚のラインを上品に引き立てている。首元やデコルテには、控えめで上品な一粒のシルバーのネックレスがキラリと控えめな輝きを放ち、動くたびに光を反射していた。
そして何よりも目を奪われたのは、彼女の髪型だった。いつもならおろしているか、あるいはきっちりとまとめている艶やかな黒髪が、今日のデートのためにハーフアップにアレンジされていた。両サイドから緩やかに編み込まれた髪が後ろでまとめられ、そこには小さな白い花のモチーフが飾られている。いつもより少しだけ大人っぽく、それでいて少女のような瑞々しい可愛らしさが同居したその完璧な佇まいに、俺は言葉を失ってしばらく彼女の顔に見とれてしまった。
「……ど、どうかな……? 変じゃない、よね……?」
俺があまりにも固まっているものだから、芹愛は少しだけ不安そうな瞳で自分のワンピースの裾をキュッとつまみながら、恥ずかしそうに頬を染めた。その上気した表情がまたたまらなく愛おしい。
「変なんかじゃない……! めちゃくちゃ、似合ってるよ、芹愛。すごく綺麗だ」
俺が絞り出すようにそう告げると、芹愛の表情は一気にパァッと花が咲いたように明るくなった。
彼女は嬉しそうに目を細め、「ほんとう? よかったぁ……今日の日のために、一生懸命選んだんだから」と、ホッとしたように胸をなで下ろした。
誕生日という特別な日を祝うために、彼女がどれほどこの日を楽しみにしてくれていたのかが伝わってきて、俺の胸の奥は一気に温かい甘さで満たされた。
「それじゃあ、さっそく行こうか。水族館行きのシャトルバスの時間もあるし」
「うん!」
俺たちはマンションのエントランスを抜け、最寄り駅の近くにある大型水族館行きの直通シャトルバス乗り場へと向かった。
§
駅から発車したシャトルバスは、都会の喧騒を少しずつ離れ、海沿いの開放的な道路を滑るように走っていく。車窓から見えるきらきらと輝く海原を眺めているうちに、バスは程なくして巨大なドーム型の外観を持つ水族館の敷地へと到着した。
夏休み中ということもあり、エントランス周辺には多くの家族連れやカップルが詰めかけ、チケット売り場には長い列ができている。
けれど、事前にネットでペアチケットを予約していた俺たちは、スムーズに専用の改札を抜けて敷地内へと足を踏み入れた。
館内のゲートをくぐり、すぐ目の前に広がっていたのは、緑豊かな中庭のスペースだった。
そして、その一角に、来場者たちを最初に出迎えるかのように、可愛らしいペンギンの大きな置き物がちょこんと鎮座していた。
「あ……っ! 奏介君、見て、あれ!」
芹愛は目をパチクリと輝かせ、まるで子供のようにパッと両手を広げながら駆け寄っていった。彼女の視線の先には、丸っこいフォルムでつぶらな瞳をしたペンギンの像が愛らしく立っている。
「わぁ、すごく可愛い……! 本物のペンギンさんを見る前なのに、もうすでに可愛いんだけど!」
芹愛はスマホを取り出すと、嬉しそうにパシャパシャとシャッターを切り始めた。自分が写り込むように自撮りをしたり、ペンギンの頭を「よしよし」と愛おしそうに撫でたり、さらには両手でその石造りの体をギュッと抱きしめるようにして、「ねえねえ、奏介君、早くこっち来て! 一緒に写真撮ろうよ!」と俺を手招きした。
学校では完璧なお嬢様として凛とした立ち振る舞いを崩さない彼女が、こんなふうにはしゃいで無邪気な笑顔を見せてくれるのは、俺の前でしか見せない特別な姿だった。
「はいはい、分かったよ。じゃあ、俺が撮ってあげるから、もっとそのペンギンに近づいてみなよ」
「えー、一人じゃ寂しいもん。ほら、一緒に写るの!」
芹愛にグイッと腕を引っ張られ、俺は彼女の隣に並ばされた。彼女が俺の方へぴったりと体を寄せた瞬間、ふわりと彼女のシャンプーと甘い柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐり、心臓が跳ね上がる。
スマホの画面の中で、満面の笑みを浮かべる芹愛と、少し照れくさそうにしている俺が並んで映し出された。シャッター音がカシャリと響き、今日の記念すべき最初の思い出がしっかりと保存される。
そして、ペンギンの置き物を十分に愛でたあと、俺たちは涼しい館内へと足を踏み入れた。
自動ドアを抜けた瞬間、外の夏の暑さが嘘のように引き、ひんやりとした静かな水の世界が俺たちを包み込む。青白い照明に照らされた空間は、まるで海の中に潜り込んだかのような幻想的な雰囲気に満ちていた。
「うわ……すごい……!」
芹愛は思わず息を呑み、見上げるようにして立ち止まった。
俺たちの頭上や左右の壁面を覆っていたのは、巨大なガラス張りの水中トンネルだった。その透明な水槽の中を、色鮮やかな熱帯魚の群れや、優雅にヒレを動かす大型のエイ、そして悠々と泳ぐサメたちが、まるで俺たちを祝福するように頭すれすれをスイスイと通り抜けていく。
「上をサメが泳いでるよ、奏介君!」
「本当だな。まるで海の中を散歩してるみたいだ」
水底から差し込むような青い光が芹愛のスカイブルーのワンピースや白い頬を美しく染め上げ、彼女の横顔は息をのむほど幻想的だった。
俺たちは手をつないだまま、ゆっくりとトンネルの中を歩いていく。周囲には他の観光客もたくさんいたが、俺たちの世界には二人以外の音が聞こえないかのように、穏やかな時間が流れていた。
トンネルを抜けると、次に現れたのは、真っ暗な空間の中で青や赤、紫の妖しい光を放ちながら揺らめくクラゲたちの水槽エリアだった。
「うわぁ……綺麗……。なんだか、時間を忘れちゃいそう……」
芹愛は丸い水槽のガラスに顔を近づけ、フワフワと水中を漂う水クラゲの繊細な動きをじっと見つめていた。水面から漏れる光を受けて、クラゲの傘がまるでガラス細工のように透き通って輝いている。その神秘的な光景に魅入られたように、彼女は言葉を失い、ただ静かにその場に佇んでいた。
俺はそんな彼女の横顔をそっと見つめながら、今日という日が彼女にとって忘れられない最高の一日になってほしいと、心の底から強く願っていた。
そうやって館内を巡りながら、いよいよその中央に位置する、大人気の半屋外エリア──ペンギンたちのいるプールへとやってきた。
「あっ、いたいた! 本物のペンギンさんたちだよ!」
芹愛は子供のようにパッと目を輝かせ、プールの柵へと駆け寄った。
水面をスイスイと気持ちよさそうに泳ぎ回るマゼランペンギンや、岩の上で羽繕いをしているキングペンギンたちが、よちよちとした足取りで歩き回っている。
「ねえ、奏介君、あの子! あそこの端っこで水面を覗いてる子、すごくない? 今にも飛び込みそうだよ!」
「本当だ、あいつやる気満々だな」
ペンギンたちの愛嬌のある動きや、時折「クワッ」と鳴き声をあげるユーモラスな姿に、芹愛は声を上げてコロコロと楽しそうに笑った。
「あんなに生き生きしてて、見ているだけでこっちまで元気をもらえるね。水族館に来るの、本当に久しぶりだったからさ……連れてきてくれて、ありがとう、奏介君」
芹愛は嬉しそうに振り返り、俺の腕に自分の腕をそっと絡ませてきた。その温かな密着感が、ひんやりとした水族館の空気の中で心地よく熱を帯びていく。
ペンギンたちをたっぷりと堪能し、気づけば時計の針はちょうど正午を指そうとしていた。
「おっと、そろそろお昼の時間だな。館内のレストラン、混む前に早めに行かないか?」
「そうだね、お腹もペコペコだし、何か美味しそうなものを食べよっか!」
そうして、俺たちは水族館の二階にある、大きなガラス窓から青い海が一望できるオーシャンビューのレストランへと向かい、予約席へとスムーズに案内された。




