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第28話 誕生日の知らせと、水族館への招待状


 夏の午後のカフェで七条姉妹、そして羽川祈という奇妙な顔合わせの末に解散したあの日の夜。


 自室のベッドに寝転がりながら、俺は昼間の出来事を脳内で繰り返し反芻していた。


 カフェの窓際で交わされたそれぞれの視線、瑞姫の不器用な照れ隠し、そして、どこか寂しげに眉をひそめていた芹愛の表情。


 あのあと、彼女たちとは別々の方向へ帰ることになったが、心のざわめきは夜が更けてもなお完全に収まることはなかった。


 そんな落ち着かない気分でスマホの画面をぼんやりと眺めていた、まさにその時だった。


 ピピッ、と静かな部屋に軽やかな通知音が響く。


 画面を確認すると、送り主は羽川だった。こんな時間に一体何の用だろうかと思いながら、俺はメッセージを開く。


・祈:稲葉君、芹愛の誕生日プレゼントはもう買った?


 誕生日プレゼント? 芹愛の?


 思考が一時停止する。俺は慌てて指を動かし、返信を打ち込んだ。


・奏介:え? 誕生日?


・祈:え? 稲葉君もしかして知らなかったの? 来週の土曜日だよ 芹愛の誕生日


 画面に映し出されたその文字を二度、三度と見つめ直す。


 来週の土曜日。それが芹愛の誕生日だなんて、俺は一言も聞いていなかった。


 冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺はさらにメッセージを返す。


・奏介:一言も聞いてないぞ


・祈:芹愛黙ってたんだ。気を使わせないようにしてたのかな


 羽川のその言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。


 完璧なお嬢様として育てられ、自分の欲求や特別な日を祝ってもらうことすらどこかで諦めさせられてきた彼女のことだ。きっと、俺に気を使わせたくないという思いから、あえて自分の口からは言い出さなかったのだろう。彼女の健気さと、それを知らなかった自分の不甲斐なさに、なんとも言えない情けなさがこみ上げてくる。


・奏介:教えてもらえてよかったよ。今からプレゼントを用意しようと思う


・祈:それだけじゃなくて、デートにでも誘ってあげたら? 瑞姫とデートしておいて、芹愛とはできないとは言わせないよ


 画面の向こうで、羽川がニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべている姿が目に浮かぶようだ。


 「瑞姫とデートしておいて、芹愛とはできないとは言わせないよ」という彼女なりの強烈なハッパは、痛いところを突かれているだけに返す言葉もなかった。


「せっかくの誕生日なんだ。なにか特別なことをしてあげたいよな……」


 俺はスマホをぎゅっと握りしめ、今からでも間に合う最高のプレゼントと、彼女を喜ばせるための計画を頭の中で必死にフル回転させ始めた。



   §



 それから一夜が明け、翌日の土曜日の夕方。


 俺はいつもと変わらない手順で、けれど心なしか少しだけ高鳴る鼓動を抑えながら、隣の202号室のインターフォンを押した。


 ガチャリ、と軽い音を立ててドアが開き、そこに現れたのはエプロン姿の芹愛だった。彼女の顔には、昨日カフェで見せた微かな翳りなど微塵もなく、いつもの穏やかで優しい微笑みが浮かんでいた。


「いらっしゃい、奏介君。ちょうど今、夕食の準備ができたところだよ」


「お邪魔するよ、芹愛」


 リビングに足を踏み入れると、すでに部屋中には香ばしい揚げ物の素晴らしい匂いが満ちていた。テーブルの上には、炊きたての白米と具だくさんの味噌汁、そして千切りキャベツの山とともに、見事なまでにこんがりと黄金色に揚がった分厚いトンカツが皿に鎮座している。


「うわ、美味そう……! 今日のメインはトンカツか」


「うん。スタミナをつけてほしくてね。さあ、冷めないうちに食べて」


 席につき、さっそく箸を手に取ってトンカツを一口大に切り分け、ソースに軽く浸して口に運ぶ。


 サクッ、という軽快な音の直後、ジューシーな豚肉の旨味と甘い脂が口いっぱいに広がり、思わず頬が緩んだ。


「ん……! 相変わらず最高の揚がり具合だな。めちゃくちゃ美味いよ、芹愛」


「ほんとう? よかったぁ……。お肉屋さんで一番いいロース肉を選んできたんだ」


 芹愛は嬉しそうに目を細め、自分の分のトンカツを上品に味わっている。


 美味しい食事を囲みながら、俺たちは他愛のない世間話を交わしていたが、俺の胸の中にはずっと、昨夜羽川から教えられた『あのこと』が引っかかっていた。


 今切り出すべきか、それとも食事のあとがいいか。


 迷った末、俺はお茶を一口飲んでから、少しだけ真剣なトーンで彼女の名前を呼んだ。


「なあ、芹愛」


「ん? どうしたの、奏介君。お代わりならまだあるけど」


 首をかしげる彼女に向かって、俺はまっすぐに視線を固定した。


「来週の土曜日さ……芹愛、誕生日なんだってな」


 その言葉を聞いた瞬間、芹愛の箸がピタリと止まった。


 彼女の瞳がわずかに見開かれ、驚愕の色が浮かぶ。


「え……な、なんで……知ってるの……?」


 うろたえたように声を上擦らせる芹愛を見て、俺はやっぱり彼女が一人で隠し通すつもりだったのだと確信した。


「羽川が教えてくれたんだよ。お前、俺に隠してたろ」


「うっ……それは……その……」


 芹愛は気恥ずかしそうに視線を彷徨わせ、両手で自分の熱を持った頬をそっと覆った。


「だって……そんなの、わざわざ言ったら奏介君に気を使わせちゃうし、そこまで負担にさせたくなかったから……」


 その言葉の端々に滲む遠慮や、自分の立場をわきまえようとする切なさに、俺は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。


「負担になんてなるわけないだろ。大切な人の誕生日なんだから、祝わせてくれよ」


 俺がそう言ってから、少しだけ息を整えて、心に決めていた言葉を紡ぎ出した。


「それで、その……もしよければ、その日の土曜日、二人で水族館に行かないか?」


「水族館……?」


「ああ。少し離れたところにある、可愛いペンギンもいるし、大迫力のイルカショーも見られるって評判の大きなところなんだ。だから……俺と、デートしてくれ、芹愛」


 まっすぐに彼女を見つめてそう告げると、芹愛の瞳はみるみるうちに潤み、言葉を失ったように俺を凝視した。


「……でも、いいの?」


 彼女は少しだけ不安そうな、けれど期待に満ちた声で尋ねる。


「瑞姫のことは、いいの……? 昨日も映画に行ってたし、私を誘ったら、瑞姫が……」


 その名前が出た瞬間、俺は苦笑いを浮かべながら首を横に振った。


「瑞姫のことは関係ないよ。あいつはただのクラスメイトで、あの時はたまたまお礼に付き合っただけだ。それ以上でも以下でもない」


「でも……瑞姫、可愛いよ? 少しは、好きになったりしない……?」


 あえて試すような響きを含んだ彼女の問いかけに、俺は真剣な眼差しで答えた。


「確かに、客観的に見れば整った綺麗な女の子だとは思うけどさ……そんなのに関わってる余裕なんてないよ。俺には、今、こうして目の前にいる芹愛との付き合いだけで、頭も心もいっぱいいっぱいなんだから」


「私との付き合いだけで……」


「ああ。私たちは週末だけの関係かもしれないけれど……少なくとも俺は、その週末を、人生のどんな時間よりも何よりも大事に思ってる。お前以外の女になんて、目もくれないさ」


 俺の偽りのない本音を込めた言葉に、芹愛はもう言葉が出ないらしかった。


 彼女はゆっくりと席を立ち、俺の隣へと歩み寄ると、そのまま俺の首元に腕を回し、ぎゅっと強く抱きついてきた。


「っ……奏介君……っ!」


 彼女の震える声と、確かな体温が俺の胸に染み渡る。


 しばらくの間、お互いの体温を感じながら静かに抱き合ったあと、芹愛は顔を上げ、嬉しげに目を細めながら、とびきりの笑顔でこう言った。


「……そう。じゃあ、決まりだね。いいよ、喜んで行く。ちょうど週末だし……何より、大好きなペンギンやイルカに、奏介君と一緒に会いたいからね」


 その返事を聞いた瞬間、俺の胸のつかえは完全に消え去り、来週の土曜日が待ち遠しくてたまらなくなった。



   §



 そして、その日の夜。


 食事を終え、リビングから自然な流れでベッドルームへと移動した俺たちの間には、言葉以上の熱量が満ちていた。


 来週の誕生日デートの約束という最高の喜びと、お互いを求め合う切なさが混ざり合い、部屋の空気は甘い熱に包まれていく。


 衣服がゆっくりと床に滑り落ち、お互いの素肌が露わになると、俺たちはまるでこれまでの不安や迷いをすべて洗い流すかのように、互いの身体を強く引き寄せた。


「奏介君……あなたを、もっと感じさせて……」


 芹愛の潤んだ瞳が暗闇の中で妖しく光り、掠れた声で俺の名前を呼ぶ。その熱を帯びた吐息が肌を撫でるたび、理性の糸は簡単に音を立ててちぎれていった。


 彼女の細く引き締まった身体を抱き締め、唇を重ね合わせる。甘く激しい口づけのなかで、お互いの鼓動が一つに重なり合っていくのが分かった。


 外の世界の冷たい視線も、複雑な家庭事情も、すべてはこのベッドルームの扉の外へと追い払われる。ただお互いの体温と存在だけを確かめ合うように、俺たちは深く、そして強く結ばれていった。


 幾重にも重なり合う呼吸と、肌と肌が擦れ合う微熱のなかで、俺たちは夜の底へと深く、深く沈み込んでいく。


 互いの孤独を優しく溶かし合い、魂の結びつきを確かめ合うようなその甘美な営みは、外の静かな夜が白々と明けていくまで、途切れることなくいつまでも優しく、そして激しく続き続けていた。





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