第27話 交差する視線と、カフェの告白
劇場の重厚なスピーカーから流れていた最後の余韻がゆっくりと消え去り、シアター内の天井の照明がパッと明るく灯った。
エンドロールの文字が流れ終わり、周囲の観客たちが次々と席を立ち、出口の方へとぞろぞろと移動し始める。その人の波の中で、俺は隣に座る瑞姫に視線を向けた。
「……お疲れ様。結構、見応えのある映画だったな」
俺が少し声を落として声をかけると、瑞姫はフッと小さく息をつき、どこか名残惜しそうにスクリーンから目を離した。
「うん……すごく、胸に響く映画だったわ。特に後半の、主人公が自分の居場所を見つけていくシーンなんて、なんだか胸が締め付けられるようだった」
彼女の横顔には、映画の感動がまだしっかりと残っているような、少し柔らかい余韻が漂っていた。
「そうだな。じゃあ、そろそろ出ようか。せっかくだから、近くのカフェでも入って、映画の感想でも話さないか?」
「うん、賛成。私、まだ少しあの世界から抜け出せないみたいだから、お茶でも飲みながらゆっくりしたいな」
俺たちは席を立ち、混雑する通路を抜けてシネコンのロビーへと足を進めた。
外に出ると、お盆の昼下がりの強い日差しが照りつけていたが、映画館の涼しい空気のあとに吹く夏の風は、どこか心地よく感じられた。
俺たちは劇場の建物からすぐ近くにある、落ち着いた木目調の内装が特徴のカフェへと入った。
店内は程よく席が埋まっていたけれど、運よく奥まった窓際のテーブル席が空いていた。
俺たちはそこに腰を下ろし、冷たいアイスコーヒーと、それぞれケーキのセットを注文した。
注文を済ませ、一息ついたところで、俺は先ほどの映画のワンシーンを思い出しながら口を開いた。
「それにしてもさっきの映画、ストーリーも良かったけれど、何より出演していたあのベテランの女優さんの演技がすごかったよな。物語の後半で主人公を諭すあの目の表情とか、背中で語るような圧倒的な存在感があって、画面に引き込まれっぱなしだったよ」
俺が率直な感想を告げると、瑞姫はグラスに添えられたストローを指先で軽く転がしながら、少しだけ冷ややかでどこか遠い目をしてフッと笑った。
「……あぁ、あの女優さんのことね」
「ん? 何か知ってるのか?」
「知ってるも何も、ね……。彼女、芹愛の父親の愛人で、芹愛を産んだ実の母親よ」
「──は……?」
思わず、俺の喉から間の抜けた声が漏れた。アイスコーヒーを飲もうとしていた手がピタリと止まる。
「え、そうなのか……? 芹愛の、母親って……あの有名な女優が?」
「ええ。でも、彼女は芹愛を産んですぐに、娘を捨てて家を出ていったけどね」
瑞姫の声音は驚くほど淡々としており、そこには怒りというよりも、どこか冷めた諦めのような響きが混じっていた。
「私は父親の本妻との間に生まれた子供で、芹愛は父親がその女優である愛人との間に作った子供よ。でも、その母親は芹愛を産んでからしばらくして、家を出ていって自分の女優としてのキャリアを取ったの。家を出ていってから、一度だって連絡を寄こしたことなんてないわ」
瑞姫は氷の浮いたアイスティーをストローで一口飲み、それから窓の外の強い日差しを見つめながら、半ば蔑むように続けた。
「どういう理由で家を出たのかなんて、本人から聞いたわけじゃないから正確にはわからないけれどね。大方、愛人というスキャンダルで女優生命が絶たれるのを恐れてってところじゃない? 華やかなスクリーンの裏側なんて、結局はそんな風にドロドロしたものよ」
俺は言葉を失った。芹愛が抱えていた過酷な家庭環境の裏側には、そうした背景が深く絡み合っていたのだ。
そんな重たい話を静かに噛み締めていた、その時だった。
「──あれ? もしかして、稲葉君だよね?」
突如として頭の上から降ってきた、よく通る明るい声に、俺はビクリと肩を揺らした。
驚いて顔を上げると、そこにはよく知る二人の少女が立っていた。
一人は、目を丸くして俺たちを交互に見つめている羽川。
そしてもう一人は、問い詰めるような視線を向ける芹愛だった。
「えっ……!?」
俺の心臓は、先ほどの映画のどんなクライマックスよりも激しく、バクバクと狂ったような音を立てて鳴り始めた。
よりにもよって、ここで芹愛と羽川にばったり遭遇してしまうなんて。
脳裏に、今朝の芹愛とのやり取りが鮮やかに蘇る。
あの時、俺は「一人で日用品を買いに行く」という嘘をついて家を出てきた。
なのに、今俺は、瑞姫と二人きりでカフェの席に座っている。
完全に、言い訳不可能な『現行犯逮捕』のシチュエーションだった。
「奏介君……どうして、瑞姫と……?」
「いや……これは、その……」
芹愛のその静かな問いかけに、答えに窮していると、隣に立っていた羽川がパッと目を輝かせ、いかにも面白そうなものを見つけた子供のような笑顔を浮かべた。
「ええーっ!? ちょっとちょっと、どういうことなのこれ!?」
羽川は両手で自分の頬を押さえ、ものすごい勢いで俺たちに詰め寄ってきた。
「地味なモブ男子であるはずの稲葉君が、まさかのダブル七条の妹の方、瑞姫ちゃんと二人きりでカフェデート!? これはいったいどういうロジックなわけ!?」
羽川の機関銃のような追及に、店内の一部の客の視線がこちらに集まる。
俺が冷や汗を拭いながら言葉を探していると、ふっと、これまで黙って座っていた瑞姫が静かに立ち上がった。
「祈、そんなに大声を出すものじゃないわよ。それに、私たちが変な誤解をされるような関係じゃないってことは、少し落ち着けば分かるでしょ」
瑞姫は冷静な声音で羽川をいさめると、それからまっすぐに異母姉である芹愛の目を見つめた。
「……ねえ、芹愛。あなた、驚いてるみたいけれど、そんなに変な顔をしなくてもいいじゃない」
瑞姫は少しだけ挑戦的な笑みを浮かべながら、異母姉を見据えた。
「あなたたち、いったいどういう間柄なのよ? 学校ではまったく接点ないのに、なんだか妙に親しそうというか……。この見た目の奏介君にもすぐに気がついたみたいだし……あなたたち、仲が良いの?」
「……うん、瑞姫には隠す必要なんて、別にないね」
芹愛は静かに頷き、言葉を続ける。
「瑞姫……私、瑞姫のことは、家族の中で唯一、信頼できる人だと思ってるの。だから、隠しておく必要もないかなって。私と奏介君って、部屋が隣同士でさ……週末に、私が彼に料理を作ってあげる、そういう仲なのよ」
「え、そうなの……?」
今度は、瑞姫が目を見開く。
「隣同士……? 料理を作ってあげる仲って……奏介君の部屋が、芹愛の住んでる部屋の隣なの?」
「うん。ほんとうに、偶然隣同士になって……それから、色々とね」
芹愛は少しだけ頬を赤らめながらも、しっかりと頷いた。
それを聞いた瑞姫は、しばらくの間ぽかんと口を開けたまま固まっていたが、やがてふっと腑に落ちたような、どこか複雑な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「ふうん……。それで、週末になると美味しい料理をご馳走してもらうようになったってわけね」
瑞姫のその言葉に、羽川が「そうそう、そういうこと!」と大きく頷いた。
「で、ねえ。二人の今日は一体どういうことなのよ?」
羽川はすぐに視線を俺の方へと戻し、どこか意味深な、探るような瞳でじっと見つめた。
「え……?」
「どうして稲葉君は、瑞姫と一緒にいるわけ?」
「いや、それはだな……」
俺が冷や汗を流しながら弁解しようと口を開きかけた時、瑞姫は小さく息をつき、自分からその理由をあっさりと明かしてくれた。
「……別に、私が無理やり誘ったのよ。奏介君のバイト先の喫茶店で以前助けてもらったことがあって、お礼がしたかったから。それで映画のチケットが余ってたから、半ば強引に付き合ってもらったの。芹愛、怒らないであげてよね」
しかし、羽川はそれで納得しなかった。彼女はニヤニヤとした笑みを浮かべ、瑞姫の顔をじっと覗き込んだ。
「ふーん……? 恩返し、ねえ? でも、それだけじゃないんじゃないのぉ?」
「な、何がよ……」
「だってさあ、他にもたくさんお礼の方法はあったはずなのに、わざわざ映画のチケットを用意して、休日を丸ごと二人きりで過ごそうなんて誘うのはさぁ……もしかして、瑞姫ちゃん、稲葉君のことが、ただの恩人以上の人として……好き、とか?」
羽川のあまりにもストレートで容赦のない突っ込みに、瑞姫は顔を真っ赤に染め上げ、信じられないものを見るような目で羽川を睨みつけた。
「な、何言ってるのよ、祈! そんなわけないでしょ! 私は別に、そんな大それた感情なんて……!」
彼女は必死になって両手をパタパタと振り、否定しようとした。けれど、その頬から耳たぶまでがトマトのように真っ赤に染まっているのはどう見ても隠しきれておらず、声もわずかに上擦っていた。
「私は、ただ……ちょっと、気になってるってだけで……!」
「ほら、やっぱり気になってるって認めた!」
「っ……! そういう意味じゃないわよ、もう!」
瑞姫は恥ずかしさのあまり頭を抱え、テーブルの上でうなだれてしまった。
その賑やかなやり取りを眺めながら、俺はふと、芹愛の変化に気がついた。
彼女は少しだけ俯き加減になっていて、口元をきゅっと結んでいた。
いつもなら、羽川のこういう悪ふざけには「もう、祈ってば……」と優しく窘めるか、あるいは呆れたような笑みを浮かべるはずなのに、今の彼女はどこか不機嫌そうに、そして少しだけ寂しげに眉をひそめているように見えた。
俺の隣で恥ずかしがる瑞姫の姿と、どこか不機嫌そうに黙り込んでいる芹愛の姿を交互に見つめながら、俺はふと胸の奥に小さなざわめきを覚えた。
芹愛がちょっと拗ねているように見えたのは、果たして、気のせいだろうか。
夏の日の午後のカフェの柔らかな光の中で、交差するそれぞれの複雑な感情を乗せた風が、静かに吹き抜けていった。




