第26話 後ろめたい気持ちと、投影のスクリーン
夏の空はどこまでも高く青く澄み渡り、アスファルトの熱を吸い込んだ風が、街の喧騒を重たく揺らしている。
お盆休みの終わりが近づくその日、俺は少しだけ早起きをして、自室のクローゼットの前でため息をついていた。
今日の予定は、七条瑞姫との映画鑑賞。
喫茶店『ライムノート』のバイト終わりに彼女から誘われ、あれからLINEでの短いやり取りを経て、しっかりと今日という休日の午前十時に実を結んでいた。
クラスメイトの、しかもあの芹愛の異母妹である瑞姫と二人きりで映画館に出かける。客観的に見れば、奇妙で、少しばかり背筋の凍るようなシチュエーションだった。
芹愛とは、身体の交わりも含めて深く結びついている。
その事実があるからこそ、双方に後ろめたさがある。
けれど、あの日の喫茶店で彼女が浮かべた、どこか切なさと不器用な期待が入り交じった笑顔を思い出すと、無下に断ることはどうしてもできなかった。
彼女が抱える孤独や、家の中での歪んだ家庭環境の一端を知っているから余計に、無関心を貫くことができなかったのだ。
「……まあ、ただの映画だし、お礼の付き合いってことで割り切っていけばいいか」
俺は自分にそう言い聞かせ、鏡の前で身なりを整えた。学校での『地味なモブ男子』としての仮面を剥ぎ、少しだけ気を使ったラフなシャツとパンツに袖を通す。前髪はワックスでセットして、『奏介さん』として会った時の見た目に変える。これは瑞姫のリクエストだ。
そうして、部屋を出て、駅へと向かおうと廊下に足を踏み出した、その瞬間だった。
隣の202号室──芹愛の部屋のドアが、カチャリと軽やかな音を立てて開いた。
「あっ……」
思わず声が漏れた。そこに立っていたのは、休日らしい爽やかな私服に身を包んだ芹愛だった。動きやすそうな淡いパステルカラーのカーディガンに、揺れるプリーツスカート。結ばれた黒髪がふわりと揺れ、彼女の圧倒的な美しさが廊下の空気を一瞬で華やかに染め上げる。
まさか、こんなピンポイントで彼女と出くわすとは。俺の心臓は不整脈を起こしたように大きく跳ね上がった。
「あ……おはよう、奏介君」
芹愛もまた、俺の姿を認めて目を丸くしたが、すぐにいつもの愛おしげな笑みを浮かべて歩み寄ってきた。その瞳には、先週末の甘い夜の余韻がまだかすかに残っているようで、見つめられるだけで胸が締め付けられるような熱を帯びる。
「お、おはよう、芹愛。その……早いな、出かけるのか?」
動揺を必死に隠しながら、俺はできる限り自然なトーンで問いかけた。声がわずかに裏返っていないか、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺は彼女の顔を見つめる。
「うん。実はね、祈から朝イチで連絡があってさ……『今日、どうしても付き合ってほしいショッピングがあるの!』って、すごい勢いで誘われちゃって」
芹愛は少し困ったような、けれど楽しそうな笑みを浮かべて軽く肩をすくめた。
「羽川か。あいつらしいな……」
「そうなの。急だったから驚いたけれど、夏休みの買い出しも兼ねて、駅前のモールにつき合ってくる予定なんだ。で、奏介君は? そんなふうにバッグを持って、どこかにお出かけ?」
芹愛のその何気ない、けれど真っ直ぐな疑問の視線が、俺の心臓を射抜いた。
どこに行くの?
その問いかけに対し、脳裏で瞬時に言い訳が組み立てられる。
今、ここで「瑞姫と映画に行ってくる」と正直に答えるべきか? いや、そんなことを言えば、芹愛がどれほど複雑な表情を浮かべるか想像もつかない。姉妹の間のデリケートな間柄や、お互いの複雑な感情を知っているからこそ、この状況で「妹と二人で映画に行く」などとは口が裂けても言えなかった。それは優しさではなく、単なる保身かもしれない。
けれど、余計な波風を立てたくないという恐怖が、俺の口を反射的に動かした。
「あ、ああ……ちょっと、買い物にな。日用品とか、足りないものを買い足しとこうと思ってさ」
とっさに口をついて出たのは、ありふれた嘘だった。
俺の言葉を聞いた芹愛は、疑う様子もなく、ふうっと柔らかく微笑んだ。
「そっか。一人でお買い物なんだね。あまり無駄な物まで買わないようにね。節約は大事だよ」
「あ、ああ。芹愛こそ、羽川に振り回されすぎないようにな」
「ふふ、大丈夫だよ。祈のお買い物につき合うのは、いつも賑やかですごく楽しいから」
彼女のその無邪気で疑うことを知らない笑顔を見ていると、胸の奥がチクリと痛んだ。嘘をついているという罪悪感が、じわりと胃のあたりを重くする。でも、ここで真実を告げて空気を濁すよりはましだと、俺は心の中で自分を正当化した。
「それじゃあ、私、そろそろ駅に向かうね。祈がもうすぐ待ち合わせ場所に着いちゃうから」
「ああ、気をつけてな。楽しんこいよ、芹愛」
「うん、奏介君もね。じゃあまた」
芹愛はふわりと手を振ると、軽やかな足取りでエレベーターの方へと歩いていった。その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐き出し、胸のつかえを無理やり押し込めた。
ごめん、芹愛。今だけは、許してくれ。
罪悪感を背負い込んだまま、俺は反対側の階段を下り、今日の本当の目的地である駅前へと足を向けた。
§
夏の強い日差しが照りつける駅前の大通りは、お盆休みということもあってか、朝から多くの人々で賑わいを見せてシームレスに流れていた。待ち合わせの場所として指定されていたのは、駅前広場のランドマークとなっている大きなブロンズ像の周辺だ。
指定された時刻の五分前。人波をかき分けながらその広場に近づくと、一際目を引く端正な少女の姿が視界に入った。
淡いミントグリーンのワンピースに、白いサンダル。すっきりと整えた黒髪のロングヘアが、夏の微風にさらさらと揺れている。学校で見せる鋭いトゲや、完璧主義の冷たさは影を潜め、どこか清楚で、少しだけ落ち着かない様子で周囲を行き交う人々を見回している彼女──七条瑞姫。
「悪い、待たせたか?」
俺は少し早足で近づき、声をかけた。
その声にハッとしたように瑞姫が振り返り、俺を見つめたその表情が、一瞬でパァッと明るくほどけた。
「ううん……! 私も、今来たところだから、全然待ってないわよ」
瑞姫はそう言って、少しだけはにかむように微笑んだ。その笑顔があまりにも自然で女の子らしくて、俺は思わず一瞬見とれてしまいそうになった。学校で見せるあの頑なな警戒心はすっかり消え失せ、今目の前にいるのは、ただ一人の年相応の可愛らしい少女だった。
「そうか、ならよかった。暑かったろ、今日日差し強いし」
「平気よ。それより……来てくれて、ありがとう、奏介君」
瑞姫は嬉しそうに目を細め、俺の顔をじっと見上げた。その瞳には、今日という日を心から楽しみにしていたという期待の色が満ちていて、俺は自分のついた嘘の罪悪感が再び胸をかすめるのを覚えた。
「おう。約束したからな。それじゃあ、さっそく映画館へ向かおうか。上映の時間もあるし」
「うん!」
私たちは並んで駅前の大通りを歩き始めた。
人混みの中、不意にすれ違った人の波に押され、瑞姫の肩が俺の袖にふわりと触れた。彼女は驚いたように小さく肩を震わせ、それからほんのりと頬を赤らめながら、少しだけ俺のほうへと体を寄せた。手を繋ぐわけではないけれど、その控えめな距離感に、俺は言いようのない気恥ずかしさと新鮮さを感じていた。
§
駅から少し歩いたところにある複合商業施設の最上階。そこにあるシネマコンプレックスは、涼しい冷房の効いた空気が外の暑さを忘れさせてくれる快適な空間だった。
お盆休みということもあり、ロビーには多くの客が詰めかけていた。家族連れや、グループ、そして若いカップルたちが、思い思いにポップコーンの匂いを漂わせながらチケットの列に並んでいる。
「すごい人ね……チケット、ちゃんと取れてるかな」
瑞姫が少し不安そうに周りを見回しながら呟いた。
「ネットで事前予約しておいたから大丈夫だ。ちょっと発券機で手続きしてくるから、ここで待っててくれ」
「うん、お願いするわ」
俺はロビーの端にある自動発券機へと向かい、スムーズに画面を操作して二枚のチケットを印刷し、手に入れた。そして、せっかくの映画だからと、売店でキャラメル味のポップコーンのMサイズと、瑞姫のリクエストで冷たいアイスティー、そして俺は定番のコーラを受け取り、彼女の待つ場所へと戻った。
「お待たせ。ちゃんと取れたぞ。ほら、ドリンクとポップコーンも買ってきた」
「わぁ……ありがとう、奏介君。ポップコーンまで買ってきてくれたのね」
瑞姫は嬉しそうにアイスティーのカップを受け取り、ストローを口に含んだ。冷たい飲み物が喉を潤したのか、彼女はふうっと心地よさそうな息をついた。
「じゃあ、そろそろ入場の時間みたいだから、シアターの方へ入ろうか」
「うん!」
俺たちはチケットをスタッフに見せ、暗く長い通路を抜けて、指定されたシアターの中へと足を踏み入れた。
場内はすでに薄暗く、巨大なスクリーンの前には何重にも連なった座席が緩やかな傾斜を描いて広がっていた。
映画の予告編が流れている中で、俺たちは指定された中央寄りの席へと腰を下ろした。
中央の肘掛けのちょうど真ん中に、ポップコーンの入った大きな紙のボックスが置かれる。
「あ、これ、真ん中に置いとくね。一緒に食べよ」
「ああ、ありがとう」
シアター内の冷房は少し肌寒く感じるほどに効いていたが、満席に近い客席の熱気と、これから始まる物語への期待感が、心地よい高揚感となって肌を包み込んでいた。
「いよいよだな。宣伝とかで気になってた映画なんだろ?」
「うん。映像がすごく綺麗だって評判だし、ストーリーも切なくて感動するって、友達の間でも話題になってたの。一人で観るより、誰かと一緒に観たほうがいいなって思って……それで、その……誘っちゃったの」
最後の言葉は、少しだけトーンが小さくなり、彼女は恥ずかしそうにカップの表面を指先でなぞった。その不器用な照れ隠しが、彼女の普段の強がりな性格とのギャップを生んでいて、なんだか妙に愛おしく感じられた。
「そう言ってくれるなら、俺を選んでくれて光栄だな」
やがて、場内の照明がスッと完全に落とされ、大きなスクリーン以外のすべての光が消え去った。
一瞬の静寂の後、劇場のスピーカーから重厚な音楽が流れ出し、物語の幕が上がった。
スクリーンに映し出されるのは、どこまでも青く広がる夏の海と、小さな田舎町の美しい風景だった。
主人公の少年と少女が、それぞれの心に秘密を抱えながら、限られた夏の日々の中で不器用に心を通わせていく青春ストーリー。映像の美しさと、登場人物たちの繊細な心の機微が、劇場の立体的な音響とともにダイレクトに胸に響いてくる。
俺はスクリーンを凝視しながら、映画の世界に少しずつ引き込まれていった。
隣に座る瑞姫もまた、瞬きも忘れた様子で大スクリーンをじっと見つめている。暗闇の中で、スクリーンの白い光が彼女の端正な横顔を青白く照らし出し、その瞳には映画のワンシーンが美しく映り込んでいた。
物語が進むにつれ、登場人物たちが抱える葛藤や、誰にも言えない孤独、そして「誰かに認めてもらいたい」「本当の自分を見てほしい」という切実な願いが、スクリーンいっぱいに描き出されていく。
その姿は、どこか、日頃から学校でトゲを張り巡らせ、完璧な優等生を演じながらも、父親や周囲の視線に飢えていた瑞姫自身の姿と重なっているように俺には感じられた。
ふと、ポップコーンを取ろうと手を伸ばした瞬間、俺の指先と、同じようにポップコーンをつまもうとしていた瑞姫の指先が、箱の中でコツンと軽く触れ合った。
「あ……」
瑞姫が小さく息を呑み、動きを止めた。
暗闇の中でも、彼女が驚いたようにこちらを振り返ったのが気配で分かった。
「あ、悪い……」
「ううん……いいの……」
俺たちはどちらとも手を引っ込めることなく、ほんの一瞬だけ見つめ合い、それから気まずそうに、けれどどこか温かい空気を共有したまま、再びスクリーンへと視線を戻した。
手が触れ合ったその場所から、じんわりと心地よい熱が伝わってくるようだった。
劇場の大きな音響の中、俺たちは言葉を交わすこともなく、ただ並んで座り、同じ光の物語を静かに見つめ続けていた。
外の世界の複雑な人間関係や、隣の部屋でショッピングを楽しんでいるはずの芹愛の存在──そうした現実のすべてが、この暗闇の映画館の中では、まるで遠い別の世界の出来事のようにぼやけていく。
スクリーンの中で少年と少女が試練を乗り越えようともがく姿を見つめながら、俺は夏の日の静かな時間を、ただ静かに噛み締めていた。




