第25話 明かされた素顔と、映画館への招待状
お盆休み真っ只中の街は、帰省客やレジャーを楽しむ人々でどこか浮足立った熱気を帯びていた。
夏休みのただ中で、俺は今日も叔父が経営する喫茶店『ライムノート』のカウンターに立ち、目の回るような忙しさの中に身を置いていた。
お盆期間中ということもあり、普段の静かな隠れ家としての雰囲気はどこへやら、開店から閉店まで途切れることなく客足が押し寄せ、店内は常に満席状態が続いていた。
いつものようにオーダーを受け、ドリンクを作り、料理を運ぶ。
この日のシフトには、いつもなら一緒に入っているはずの芹愛の姿はなかった。彼女は実家に用事があるとかで、今日はシフトに入っていない。
彼女という心強い相棒がいない分、キッチンは普段以上に慌ただしく、俺も休む暇もなく働き通しだった。
そして、ようやくランチ後に静けさが戻り始めた頃。
俺は最後のテーブルを片付け、全身の骨がギシギシと鳴るような激しい疲労感を覚えながら、カウンターの奥へと戻った。
「ふう……やっと一段落ついたか……」
額に滲んだ汗をタオルで拭いながら小さく息をつく。
すると、カウンターの向こう側で伝票の整理をしていた叔父のマスターが、温かい眼差しを向けながら声をかけてくれた。
「お疲れ、奏介。いやあ、今日の忙しさは尋常じゃなかったな。お前が一人でホールを回してくれたおかげで助かったよ。もうあがっていいぞ、あとは俺が片付けておくからな」
「ありがとうございます、マスター。じゃあ、お言葉に甘えて……」
マスターの気遣いに心から感謝し、俺はバックヤードの更衣室へと足を向けた。
すでにバイトの全日程を終え、帰るだけの状態だったため、俺はその場で髪のセットを崩し、いつものように前髪をばさりと下ろし、目元を覆ういつもの『地味な陰キャモブ男子』のスタイルへと戻っていた。
前髪を下ろしたことで、視界の隅が少しだけ窮屈になるが、同時に見慣れた安心感が全身を包み込む。
そうして、私服に着替え、私物を詰めたバッグを肩にかけ、バックヤードから出た。
その時、一人の少女が、お盆の暑さを避けるようにして『ライムノート』の重い木製のドアを押し開けて入ってきた。
綺麗に切り揃えられた黒髪のロングヘア。少し冷ややかで、けれど凛とした気高さを感じさせる整った顔立ち。その姿を一目見た瞬間、俺は思わず動きを止めた。
七条瑞姫。
我が校のクラスメイトであり、芹愛の異母妹である瑞姫が来店して来たのだ。
驚きつつも、俺は慌てて視線を逸らし、この場をやり過ごそうとした。
瑞姫は店内の様子を軽く見渡し、案内を待つまでもなく、入り口近くの落ち着いたテーブル席へと上品に腰を下ろした。
ちょうどその時、カウンターの奥で片付けをしていたマスターが、ちょうど俺の方を向き、いつもの調子で大きな声を張り上げた。
「おい、奏介! 今日の昼のシフト、本当によく頑張ってくれたな。お疲れ様!」
マスターの声は、静まり返りかけた店内にしっかりと響き渡った。
その瞬間。
テーブル席のメニュー表に目を落としていた瑞姫の動きが、ぴたりと凍りついた。
瑞姫はハッとしたように顔を上げ、声が向けられたバックヤードの入り口付近へと視線を走らせた。
そこにいたのは、前髪を下ろし、目元を覆ういつもの『地味な陰キャモブ男子』のスタイルに戻った俺だった。
その奏介が、この喫茶店で働いていると知られてしまった。
少し前に、あの猛暑の中でフラフラと歩いていた瑞姫を炎天下の中から救い出し、冷たいスポーツドリンクとバックヤードのベッドを提供した時にも、奏介と名乗っていた。
その俺の顔立ち、声、そして背格好が、あの日の記憶の断片とピタリと重なり合ったのだろう。
「うそ……」
瑞姫は椅子から立ち上がりそうになるのを必死にこらえながら、信じられないものを見るような目つきで俺をじっと凝視した。
学校では前髪を下ろして目立たないように息を潜めている、あの陰キャの稲葉奏介が。
あの時、自分を優しく介抱してくれた、あの『奏介さん』と同一人物だったなんて、と。
逃げ場はない。マスターの声で完全に正体が割れてしまった。
俺は気まずそうに頭をかきながら、トボトボと彼女のテーブルへと歩み寄った。
「……あの、瑞姫。その……驚かせて悪かったな」
俺がおずおずと声をかけると、瑞姫はしばらくの間、ぽかんと口を開けたまま固まっていたが、やがてぷるぷると震え出し、信じられないといった様子で呟いた。
「あなたが……あの時の……奏介さんだったのね……!」
その声には、驚愕と、混乱と、そして言葉にできない複雑な感情が入り交じっていた。
「あ、ああ……そうだ。悪かったな、騙すつもりなんてなかったんだけど……その、色々と事情があってさ」
俺がバツが悪そうに弁解すると、瑞姫はふっとその険しい表情を緩め、ふふっと小さく、どこか呆れたような、けれど温かい笑みを漏らした。
「……別に、怒ってないわよ。嘘をつかれたわけじゃないし、責める理由なんてないわ。それに……」
瑞姫は少しだけ頬を朱に染めながら、恥ずかしそうに視線を足元へと落とした。学校でのあの攻撃的でトゲトゲしい彼女の姿からは想像もつかないほど、今の彼女は素直で、年相応の女の子の柔らかい雰囲気を纏っていた。
「それより……あの時も助けてもらったんだから。ちゃんとお礼を言えていなかったわよね」
「お礼って……?」
「ほら……あの、芹愛の制服がカッターで切り裂かれた事件があったでしょう? あの時、クラスの皆から私が犯人だって決めつけられて、すごく追い詰められていた私を……あなたがクラスの真ん中で、真っ向から庇ってくれたじゃない」
その言葉を聞いて、俺はハッと息を呑んだ。
あの日の球技大会の放課後、クラスメイトの悪意ある嘘によって瑞姫が窮地に立たされていた時、俺が正義感と怒りに任せて教室の真ん中で上原たちを論破した、あの出来事だ。
あの時、瑞姫は自分のことで精一杯で、俺の言葉なんてちゃんと耳に入っていないとばかり思っていた。
けれど、彼女はちゃんと覚えてくれていたらしい。
「あの時は、本当に救われたわ……。誰も私の言うことなんて信じてくれなくて、みんな敵に見えて仕方がなかったあの時に、あなたがあんな風に私のために声を大にしてくれたからさ……私、孤独じゃないんだって思えたの。あの時も、ちゃんとお礼を言えなくて……本当に、ありがとう、奏介君」
瑞姫のその言葉には、作り物のない、彼女の心の底からの真摯な感謝がこもっていた。
学校で見せる冷徹な仮面の裏に、彼女がどれほど孤独で、周囲の視線に怯えていたのかが、その震える声から痛いほどに伝わってくる。
「……ああ、あの時のことか。気にするなよ、瑞姫」
俺私は少しだけ照れくさそうに笑いながら、彼女の目をしっかりと見て答えた。
「俺はただ、卑怯なやり方で誰かを嵌めようとする奴らが、どうしようもなく許せなかったってだけだからさ。お前が何もやってないって分かってたし、当たり前のことをしたまでだよ」
「当たり前のこと、ね……」
瑞姫はふっと小さく微笑み、その瞳にわずかな光を宿した。
いつもなら、誰かに優しくされると警戒するか、あるいはツンと突っぱねてしまう彼女だが、今の俺に対しては、そのトゲが綺麗に消え失せているようだった。
「じゃあ、俺はこれで……。席、空いてるからゆっくりしていけよ」
「……ちょっと待って、奏介君」
俺が帰ろうと背中を向けかけた瞬間、瑞姫が慌てたようにその袖の端をキュッと小さな指で掴んだ。
「ん? まだ何か用か?」
振り返る俺を少しだけ上目遣いで見つめながら、瑞姫は顔を真っ赤に染め、決意したようにしっかりと口を開いた。
「あのね……実は、映画のチケットが、一枚余ってて……」
「映画のチケット?」
「そう……。お盆に公開が始まったばかりの、話題の新作映画なんだけど……もしよかったら、今度……一緒に見に行かない……?」
その提案は、あまりにも意外で、そして少しだけ戸惑いを覚えるものだった。
クラスの孤高の美少女である瑞姫が、学校では地味なモブ男子である俺に、自ら映画の誘いを持ちかけてきている。
どうするべきか。
頭の中で、すぐに様々な思考が駆け巡った。
俺には、すでに身体で深く繋がっている芹愛がいる。その彼女の妹である瑞姫と、二人きりで映画に行くというのは、いくら『恩返し』だとしても、少しばかり複雑で、危うい橋を渡るような躊躇いがあった。
けれど、目の前で緊張に震えながら、俺の返事をじっと待っている瑞姫の切なげな顔を見ていると、どうしても無下に断ることはできなかった。
彼女がこれほどまでに勇気を振り絞って誘ってくれたその気持ちを、冷たく突っぱねるような真似はしたくなかった。
俺は彼女の真剣な瞳を見つめ返し、ふうっと小さく息をついて、観念したように柔らかく微笑んだ。
「分かった、お供させてもらうよ」
「本当……!?」
瑞姫の表情が、一瞬でパァッと明るい花が咲いたように輝いた。
その嬉しさを隠しきれない無邪気な笑顔は、学校で見せるどの気高い表情よりも、何倍も魅力的で可愛らしかった。
「やった……! じゃあ、日時はまた後で連絡するね! 連絡先……交換しても、いいよね?」
「ああ、もちろんいいぞ」
こうして、俺はクラスメイトの七条瑞姫と、二人きりで映画館へ出かけるという、予想外の約束を交わすことになったのだ。
夏の終わりの足音が少しずつ近づいてくる中、俺の周りの人間関係は、思いがけない方向へと動き出そうとしていた。




