第24話 傷跡を癒やす温もり
「なんだったの、あれ?」
賑やかな縁日の喧騒が少しだけ遠ざかる中、隣に立つ芹愛が、心配そうに俺の顔を覗き込みながら小さな声で尋ねてきた。
その瞳には、先ほどの黒崎翔矢と伊吹美織という不愉快な存在が残していった影を拭い去ろうとするかのような、深い気遣いと純粋な疑問が浮かんでいた。
夜空に浮かぶ無数の提灯の明かりが、彼女の藍色の浴衣と美しいうなじを柔らかく照らし出している。あんなにも素晴らしい夏祭りの夜だというのに、かつての泥沼のような記憶のせいで、彼女に余計な心配をかけてしまったことが、俺の胸をチクリと刺した。
「……ごめん。せっかくの楽しいお祭りに、あんな奴らのせいで水を差してしまって」
「ううん、謝らないで。私はただ……奏介君があんな風に嫌な顔をしていたのが、すごく気になって……」
芹愛はそう言って、キュッと俺の右手をさらに強く握り締めた。彼女の手のひらから伝わってくる体温が、凍りつきかけていた心の奥をじんわりと温めてくれる。
俺はふうっと大きく息を吐き出し、まだ少しだけざわつく胸の鼓動を落ち着かせた。
「座って話そう。あそこの、さっきの休憩テントの下に……まだ空いてる席があるみたいだから」
俺が指差した先には、先ほどたこ焼きを食べた白い大きなテントがあった。幸いにも、さっきよりも人通りが減り、奥のベンチがちょうど空いているのが見える。
俺たちは並んで歩き、そのベンチへと腰を下ろした。
周囲の屋台から漂う甘い綿菓子や香ばしいイカ焼きの匂いが、夜風に乗ってふわりと鼻腔をくすぐる。
しかし、そんな祭りの雰囲気の中で、今の俺たちの間には、先ほどの出来事の重たさがわずかに影を落としていた。
「……ねえ、奏介君。無理にとは言わないけれど……さっきの人たち、いったい何者なの? 奏介君にあんな酷い言葉を吐いて……私、すごく気になっちゃって」
芹愛はベンチに行儀よく座り、俺の横顔を真剣な、そしてどこか痛ましげな瞳で見つめながら、静かにそう切り出した。
彼女のその真っ直ぐな優しさに触れたとき、俺の中で、ずっと心の奥底の蓋の奥に封じ込めていた忌まわしい記憶の扉が、音を立てて少しだけ開いた。
中学の頃。あの日々を思い出そうとすると、今でも胃のあたりがギュッと締め付けられるような嫌な感覚が蘇ってくる。
「……中学の頃の、話なんだ」
俺は前を向いたまま、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「俺には、親友と呼べる奴がいたんだよ。いつも一緒に登校して、休日もつるんでゲームをしたり、何でも話せるって信じ込んでいた親友が……それが、さっきの黒崎翔矢だった」
「あの黒崎君が……親友、だったの?」
芹愛は息を呑み、信じられないといった表情で小さく呟いた。
「ああ。そしてもう一人……当時、俺には幼馴染みがいたんだ。小さな頃から家の近所で一緒に遊んでいて、いつの間にか自然な流れで……交際していた女の子がいた。それが、あの伊吹美織だ」
親友と、恋人。
人生の中で最も信頼し、心を許していたはずの二人の人間。
その名前を口にするだけで、胸の奥から苦い泥のような感情が這い上がってくるのが分かった。
「当時の俺は、世界で一番幸せだと思い込んでいたんだよ。友達にも恵まれて、可愛い彼女もいて、毎日が平穏で充実しているって。……でも、そんなの、俺の勝手な思い込みの妄想でしかなかったんだ」
声が、わずかに震える。
芹愛は何も言わず、ただじっと、俺の言葉の続きを待つように寄り添ってくれている。その温もりが、冷えかけた俺の背中を支えていた。
「ある日の放課後だった。部活の道具を忘れ物して、夕方に誰もいないはずの旧校舎の裏手に取りに戻ったんだ。そしたらさ……そこで、その二人が抱き合って、キスをしているところを偶然見ちまったんだよ」
あの日の光景は、今でも昨日のことのように鮮明に脳裏に焼きついている。
夕日に染まる校舎の影。嬉しそうに翔矢の首に腕を回す美織の姿と、彼女を抱き寄せる翔矢の顔。頭の中で何かがパツンと音を立てて弾け飛んだ、あの絶望的な感覚。
「……っ!」
隣で、芹愛が小さく息を呑む音が聞こえた。
「俺は頭が真っ白になりながらも、その場で名前を呼んで、どういうことだって問い詰めたんだ。そしたらさ……あの二人、これっぽっちも悪びれた様子すらなかったんだよ」
俺は自嘲気味に、乾いた笑いを漏らした。
「逆に、めちゃくちゃ開き直られてさ。『いつまでそんなお行儀のいい優等生ぶってんだよ』って、翔矢に鼻で笑われた。『お前のそういうただ優しいだけの退屈な態度には、もううんざりなんだよ。美織も、刺激が欲しくて俺のところに来たんだからさ、諦めろよ、お前みたいな能天気な奴には一生分からない快感だよ』って……美織もその横で、まるで虫けらを見るような冷たい目で俺を眺めて、うっとりしながら翔矢に寄り添っていたんだ」
「そんな……ひどい……!」
芹愛の瞳から、怒りと悲しみが混じった涙がこぼれ落ちそうになっていた。彼女の細い手が、怒りでわなわなと震えているのが分かる。
「『優しいだけが取り柄の、退屈な男』だってさ。俺のことをただのATMか何かみたいに利用して、陰でコソコソ笑いながら、一番信頼していた二人が裏で繋がっていた。……それが、俺の青春の終わりだったよ」
そこまで一気に語ると、喉の奥がカラカラに乾いていることに気づいた。
あの時の絶望、自分が全否定されたような無力感、そして人間という生き物に対する不信感。すべてが一度に押し寄せてきて、呼吸が浅くなる。
「その二人っていうのが……さっきの、翔矢と美織なんだ」
「……だから、なの……?」
芹愛は震える声で、絞り出すように尋ねた。
「何がだ?」
「だから、奏介君がわざと前髪を長く伸ばして地味な見た目をして、学校でもクラスの隅っこで存在感を消して、誰とも深く関わらないように……人付き合いを極力避けて生きてるのって……そのことが、原因で……?」
図星だった。
俺は言葉に詰まり、ゆっくりと頷いた。
「ああ……。トラウマみたいになってさ。人の笑顔の裏には、どうせまたあんな風に自分を嘲笑う悪意が隠されているんじゃないかって、そう思っちまうんだよ。誰かを信用しようとすると、あの日の二人の声が頭の中で蘇ってきて、怖くなる。だから、もう誰も信用しないって決めたんだ。学校ではただの目立たないモブとして息を潜めて、誰にも期待されず、誰とも深く関わらずに生きるのが、一番傷つかなくて済む方法だって……そうやって自分を守ってきたんだよ」
言い終えると、どうしようもない情けなさと、暗い絶望感が胸の内に広がった。
こんな風に過去のトラウマをベラベラと他人に語るなんて、いつもの俺なら絶対にしないことだ。カッコ悪いし、同情されたいわけでもない。ただ、心の底に溜まっていた澱みを、今夜ばかりはどうしても芹愛に聞いてほしかったのかもしれない。
「俺は、本当に臆病で、救いようのない男だよ……芹愛がドン引きしても、それは当然……」
そこまで言いつづけたところで、言葉が完全に遮られた。
「──っ!」
突然、隣に座っていた芹愛が、俺の身体に勢いよく飛び込んできたのだ。
彼女の柔らかい身体と、藍色の浴衣の布地が俺の胸元に強く押し付けられる。驚いた俺の腕の中に、彼女はすっぽりと収まり、その細い両腕でしっかりと俺の背中を力強く抱き締めた。
「芹愛……っ!?」
「……バカ、そんなこと言わないで……!」
耳元で聞こえた彼女の声は、少しだけ泣きそうな、けれどこれ以上ないほど強い意志を秘めた響きを持っていた。
「臆病なんかじゃない……! 傷つくのが怖くて、必死で自分の心を守ろうとしていただけなのに……それを自分で責めないでよ、奏介君……!」
芹愛の顔が俺の胸元にうずめられているため、表情は直接見えないけれど、彼女の震える肩や、背中を回す細い指の力加減から、彼女がどれほど本気で怒り、そして悲しんでくれているのかが痛いほど伝わってきた。
「そんな酷い裏切りをされて、人間不信になって当然じゃない。誰かを信じるのが怖くなって当たり前だよ……。それなのに、一人でずっと、そんな深い傷を抱えながら、毎日耐えてきたんだね……でも、奏介君は私がセフレになってって提案した時、それを受け入れてくれた……そこには、言葉にできない葛藤があったんだ……知らなかった……知らなくて、ごめんね、奏介君……」
芹愛の声が、少しずつ涙声に変わっていく。
彼女の温かい涙が、俺の着ているTシャツの生地を濡らしていくのが分かった。
あんなにも気高く、完璧でお嬢様な彼女が、俺のために、俺の過去の痛みのために、こんな風に子供のように声を震わせて泣いてくれている。
「芹愛……」
「私ね……あの人たちのことが、心の底から許せない。奏介君の優しさに甘えて、それを裏切って、あんな風に嘲笑うなんて……絶対に許さないから」
芹愛は顔を上げ、涙に濡れた大きな瞳で、まっすぐに俺の目を見つめた。
その美しい瞳には、弱々しさなど微塵もなく、燃え盛るような強い光と、底抜けの愛情が宿っていた。
「あの人たちは、奏介君の本当の良さを何も分かっていない。ただ自分のことしか考えられない、哀れで空っぽな人たちだよ。……でもね、安心して、奏介君」
彼女は自分の手をそっと伸ばし、俺の頬に優しく触れた。その指先の優しい温もりが、心の澱みをすっきりと拭い去っていく。
「私は……私は絶対に、奏介君を裏切ったりしないからね。どんなことがあっても、絶対に、あなたの傍にいるから」
その時、ドンッと大きな音が鳴り、遠くの夜空で地上から打ち上げられた大輪の花が咲き乱れた。
けれど、芹愛の誓いの言葉は、夜空に響くどんな綺麗な花火よりも、俺の胸の奥深くに鮮やかに、そして力強く刻み込まれた。
「芹愛……」
俺は、もう一度彼女の体をしっかりと抱き締め返し、その細い背中にそっと手を回した。
胸の奥にあった冷たいトラウマの氷が、彼女の温もりと真っ直ぐな言葉によって、少しずつ、確実に溶かされていくのが分かる。
もう、過去の亡霊に怯える必要なんかない。
俺の隣には、こんなにも強く、優しく、俺のことを愛してくれている最高の人がいるのだから。
「……ありがとう、芹愛。お前がいてくれて、本当によかった。俺はもう、過去には縛られないよ。お前と一緒に、未来を見ていくから」
俺がそう約束すると、芹愛は嬉しそうにふっと微笑み、涙を指先で拭いながら、力強く頷いた。
「うん……! 約束だよ、奏介君」
テントの隙間から差し込む夜風が、二人の体を優しく撫でる。
先ほどの嫌な出来事などまるで最初から存在しなかったかのように、俺たちの間には、より一層深く結ばれた絆と、温かな幸福感だけが満ち溢れていた。
夜空の向こうで、と盛大な音が響き渡り、いよいよクライマックスであるスターマインが打ち上がり始めた。
夜の闇を鮮やかに彩る大輪の花火を見上げるために、俺たちは手を繋いだまま立ち上がり、満面の笑みで夜空へと視線を向けた。




