第23話 えぐり出される過去と、引き裂けない絆
香ばしいソースの匂いと、鉄板がジューシーに肉や粉物を焼く音が響き渡る縁日の通り。
俺たちが手に入れたのは、大きめの舟皿にたっぷりと盛られた熱々のたこ焼きだった。
かつお節が夏の夜風に揺られて踊り、その上でツヤツヤと輝くマヨネーズとソースのコンビネーションは、見ているだけで胃袋の底から食欲を刺激してくる。
「わぁ、すごく美味しそう……! ソースのいい匂いがたまらないね、奏介君」
「だな。さっきの射的のショックも、この匂いを嗅いだら一瞬で吹っ飛んだ気がするよ」
俺が笑いながらそう言うと、芹愛はクスッと笑い、それから周りを見回した。
「ねえ、あそこ。神社の境内の一角に、お祭り客のための休憩テントが設けてあるよ。あそこのベンチなら、少しは落ち着いて食べられるんじゃないかな?」
「お、本当だ。助かったな、あそこなら足も休められるし行こうか」
芹愛が指差した先には、白い大きなテントが張られ、その下には木製の頑丈なベンチがいくつか並んでいた。人の波から少しだけ外れたその空間は、喧騒の中にあっても比較的穏やかな空気が流れている。
俺たちは手を繋いだままそのテントへと向かい、空いていた奥のベンチに並んで腰を下ろした。
「ふう……こうして座ると、歩き疲れた足がホッとするね」
「ほんとな。祭りの熱気って、いるだけで結構体力削られるからな」
息をつきながら、俺は舟皿に添えられた爪楊枝を摘まみとろうとした。
けれど、その瞬間、隣に座っていた芹愛が「あ、ちょっと待って」と、俺を制するように小さく声を上げた。
「ん? どうした?」
「ううん、いいから、私に任せて」
そう言って、芹愛は舟皿から爪楊枝を一本スッと抜き取ると、湯気をあげる熱々のたこ焼きを一つ、丁寧に突き刺した。
表面のカリッとした部分と、中のとろりとした生地が絶妙なバランスを保っている。
彼女はそのたこ焼きを軽くフーフーと息で冷まし、それから少しだけ恥ずかしそうな瞳で俺をまっすぐに見つめた。
「い、いや、自分で食べるからいいって……」
「ダメ。今日はね、私の我が儘なの。はい、あーん、して、奏介君」
芹愛は少し頬を赤らめながらも、決然とした態度で、たこ焼きを俺の方へと差し出してきた。
周りには他にも休んでいる人たちが何人かいる。休憩テントの中とはいえ、見ず知らずの客たちがすぐ近くに座っているこの状況で、女の子に「あーん」をしてもらうというのは、赤面ものの恥ずかしさだった。
「お、おい……! ここ、周りに人がいっぱいいるだろ……! さすがに恥ずかしいって!」
「いいから、はい、あーん。ほら、せっかくアツアツの美味しいところなんだから、早くしないと冷めちゃうよ?」
芹愛は一歩も引かない。むしろ、少しだけ小悪魔的な笑みを浮かべて、俺の口元へとその爪楊枝を近づけてくる。
逃げ場がないと悟った俺は、周囲の視線をできるだけ気にしないように視線を宙に泳がせながらも、観念して口を大きく開けた。
「……あーん」
パクッ、と一口で口の中にたこ焼きを放り込む。
瞬間、外側の香ばしいソースの風味と、中からとろけ出すタコの旨味と熱々の生地が口いっぱいに広がった。
あまりの熱さにハフハフと息を漏らしながら咀嚼する俺を見て、芹愛は満足そうに目を細めてフフッと笑った。
「どう? 美味しい?」
「……熱っ……でも、美味いよ……」
恥ずかしさで顔から火が出そうになりながらも、味の確かさに俺は素直に頷いた。
そんな俺の反応がよほど面白かったのか、芹愛はさらにクスクスと楽しそうに笑い声を立てる。
くそっ……こんな可愛い顔でこんなことされたら、恥ずかしさ倍増じゃないか……!
俺は自分の照れくささをごまかすように、そしてこれ以上彼女にからかわれないように、急に立ち上がって大きな咳払いを一つした。
「ご、ご馳走様……! はあ、なんか急に喉が渇いたな……。ちょっと待ってろ、あそこの屋台で飲み物買ってきてやるからさ!」
「あ、うん……ふふ、いってらっしゃい、奏介君」
彼女の温かい視線から逃げるように、俺は早足でテントの外へと飛び出した。
涼しいテントの陰から離れ、再び夏の夜の熱気に満ちた境内の通路へと戻る。
冷たい飲み物を売っている屋台を探してキョロキョロと辺りを見回していると、ふと、雑踏の中から俺の名前を呼ぶ、どこか奥底で引っかかる不快な声が耳に飛び込んできた。
「おい、奏介じゃねえか。こんなところで何やってんだよ」
足がピタリと止まる。
背筋に冷たいものが走るような、そんな嫌な予感が全身を駆け巡った。
ゆっくりと振り返ると、そこには見覚えのある二人の人物が立っていた。
一人は、派手なブランド物のシャツをラフに着こなし、耳にピアスの光る男──黒崎翔矢。
そしてその隣にぴったりと寄り添うようにして立っているのは、整ったメイクに少し冷ややかな笑みを浮かべた少女──伊吹美織。
中学時代の同級生。いや、かつては『親友』だと信じ込んでいた男と、俺の幼馴染みだった女だ。
「……翔矢……それに、美織……」
俺の口から、絞り出すような声が漏れた。
中学の頃の記憶が、一瞬にして脳裏によみがえる。
地元を離れた今の高校に入り、あの地獄のような人間関係から離れて平穏を手に入れたはずなのに、よりによってこんな夏の祭りの会場で、最悪のタイミングでこいつらに遭遇してしまった。
翔矢は俺の顔をしげしげと眺めると、面白そうにフッと鼻で笑った。その目は、あの一件以来、俺を見下して向けるようになったあの嫌らしい嘲りの色を帯びていた。
「こんなところで何一人でウロウロしてんだよ? あ、もしかして、一人で祭り来ちゃったわけ? 相変わらず友達いないんだな、お前は。相変わらずの『ぼっち』街道まっしぐらってか」
ねっとりとした、悪意の混じった声が俺の耳を逆撫でる。
「……俺が一人でいようが関係ないだろ。お前たちこそ、こんなところで何してんだよ」
俺が少しだけ声を張り上げて言い返すと、隣にいた美織が、チッと小さく舌打ちするような仕草を見せ、それからわざとらしい同情の声を上げた。
「ちょっと、翔矢君。そんなこと言って虐めちゃ可哀想だよ。誰も相手にしてくれないんだから、一人で寂しくお祭り歩くくらいしか楽しみないんだよ、きっと」
美織の冷ややかな眼差しは、底意地の悪い嘲りと侮蔑の色を隠そうともしていなかった。その薄ら笑いを浮かべた瞳の奥には、昔から変わらない、他人を貶めることでしか自分の価値を確認できない醜悪な人間性が透けて見えていた。
怒りが、ふつふつと腹の底から湧き上がってくるのを感じる。
忘れかけていたトラウマをえぐり出されるような不快感と、こんな奴らに足元を見られてたまるかという反発心。二つの感情が入り交じり、俺の拳が自然と固く握りしめられた。
「……用がないなら、行くけど」
これ以上ここに長居しても不快な思いをするだけだ。俺は背中を向け、その場から立ち去ろうとした。
しかし、翔矢が俺の肩を乱暴に掴み、無理やり引き止めた。
「おい、待てよ、話はまだ終わってねえよ。そんなに急いでどこ行くんだよ。もしかして、図星突かれて逃げ出したいのか?」
「離せよ、翔矢」
俺が険しい顔で振り返った、その時だった。
「どうしたの、奏介君?」
隣から、心地よい声が響いてきた。
向き直ると、そこには心配そうな顔をした芹愛が立っていた。
彼女は冷たい飲み物を買いに行くはずの俺がなかなか戻ってこないのを気にして、わざわざ休憩テントから様子を見に来てくれたのだ。
夜の提灯の明かりに照り映える、藍色の美しい浴衣姿。
うなじに結ばれた上品な髪型、そして整いすぎた容姿と、どこか気高く凛とした圧倒的な美少女のオーラ。
中学時代の同級生である二人の視線が、一瞬にして俺の隣に立った芹愛の姿へと釘付けになった。
「な……ッ!?」
翔矢の目が、驚愕で見開かれた。
口がぽかんと開き、信じられないものを見るような目で芹愛と俺を交互に見つめている。
隣にいた美織にいたっては、まるで化け物でも見たかのような顔をして、目を見張り、嫉妬と困惑の色をにじませていた。
「な……その子、まさかお前の連れか……?」
翔矢の声が、わずかに震えていた。
ついさっきまで「ぼっちだ」「一人で寂しい奴だ」と散々嘲り笑っていた相手の隣に、特上の美少女がぴったりと寄り添っている。
その現実が、こいつのちっぽけなプライドとマウントの構造を根本から破壊したらしかった。
自分たちの立場が逆転して、翔矢は激しい劣等感にでも苛まれたのか、顔を真っ赤に染め上げて、歯をぎりっと鳴らした。
「おい……ふざけんなよ、奏介……!」
翔矢の顔が歪む。
「お前みたいな目立たない陰キャが、何でそんな綺麗な女の子と……! どうせハッタリだろ! お前みたいなやつが、こんな可愛い子を連れて歩けるわけがねえんだよ!」
翔矢は声を荒らげていきり立った。
その醜態を目の当たりにして、俺は不思議と、さっきまでの怒りが嘘のようにスッと冷めていくのを感じた。
ああ、こいつは、昔から何も変わっていないんだな……。
他人を引きずり下げることでしか自分の価値を保てない、哀れでちっぽけな男。
そんな奴にこれ以上心を乱される必要など、最初からなかったのだ。
「翔矢君、こんな人たち相手にするのはやめて、もういこうよ!」
美織も、自分たちの立場がこれ以上悪くなるのを恐れたのか、引きつった笑みを浮かべながら翔矢の腕をグイグイと引っ張った。
「あ、ああ……そうだな。こんな奴らと話してても時間の無駄だ」
翔矢は悔しそうに顔を歪めながらも、美織に促されるようにして体を翻した。
けれど、去り際にこいつは、俺を睨みつけるようにして吐き捨てるように言った。
「いい気になるなよ、奏介。お前が俺の上を行くなんて、絶対に許されないんだからな。次に会うときは、お前のその調子に乗った面が引きつって、惨めな泣き顔になるときを拝んでやるよ!」
それだけ捨て台詞を吐き捨てると、翔矢は美織を連れて人混みの中へと早足に消えていった。




