第22話 二人きりの夏祭り
お盆に入り、世間が旅行やレジャーなどで賑わう中、待ちに待った夏祭りがやってきた。
約束の時間が近づくにつれ、俺の胸のうちは得も言われぬ緊張と高鳴りで満たされていた。
今日の俺は、芹愛のリクエストで前髪を上げてセットしている。
ただ、服装に選んだのは、結局のところ、いつものお気に入りの黒のTシャツに、動きやすいインディゴブルーのジーンズという、ごくありふれたカジュアルな格好だった。気負っていないといえば聞こえはいいが、どこか地味で、これから特別なイベントに出かけるという高揚感には少しばかり不釣り合いな気もしていた。
「……そろそろ、時間か」
大きく息を吐き出し、心を落ち着かせてから
すぐ隣にある202号室の前まで歩き、インターフォンのボタンを押した。
しばらくの後、ガチャリと軽やかな音がして、ゆっくりと扉が開いた。
そこに立っていたのは、言葉を失うほどに美しい、浴衣姿の芹愛だった。
「奏介君。お疲れ様、時間通りだね」
扉の向こうから現れた彼女の姿を見た瞬間、俺の思考回路は完全に一時停止した。
夜空の深い群青を思わせる藍色の生地をベースに、裾や袖口にかけて鮮やかな白と紅の朝顔の花が上品にあしらわれた浴衣。しっかりと結ばれた帯は艶やかな金色と淡い藤色のグラデーションになっており、彼女の引き締まった美しいウエストラインとスラリとした高い背筋をこれ以上ないほど美しく引き立てている。
黒髪はいつもよりもうなじがすっきりと見えるように艶やかにまとめ上げられ、かんざしがほのかに月明かりを反射して揺れていた。
清楚でありながら、息をのむほどに艶やか。
学校で見せる高嶺の花としての凛とした気高さとはまた違う、大人の女性の雰囲気を纏った彼女の姿に、俺はしばらくの間、まばたきすることすら忘れて見とれてしまっていた。
「……どうかしたの? そんなにじっと見つめて……もしかして、変、かな……?」
俺があまりにも固まっているものだから、芹愛は少しだけ不安そうな笑みを浮かべながら、自分の浴衣の裾を指先でキュッとつまんだ。その、頬をほんのりと朱に染めたあどけない仕草に、さらに胸の奥が締め付けられるような甘い衝撃が走る。
「い、いや……変なんかじゃない! その……めちゃくちゃ、似合ってる。綺麗だよ、芹愛」
やっとの思いで絞り出した俺の言葉に、芹愛の表情は一気にパァッと花が咲いたように明るくなった。
彼女は嬉しそうに目を細め、「本当……? よかったぁ……着付け、崩れてないか心配だったんだ」と、ホッとしたように胸をなで下ろした。
そして、彼女はふと俺の全身へと視線を巡らせた。
俺の格好は、前述した通りのごく普通のTシャツにジーンズだ。
「奏介君は、すごくラフな格好なんだね」
「あ、ああ……。祭りだし、歩きやすいほうがいいかと思ってさ」
俺が少しバツが悪そうに頭をかくと、芹愛はクスッと楽しそうに笑い、それから「ううん、すごく似合ってるよ。かっこいいよ、奏介君のそういう普段着の感じも好きだな」と、嬉しい言葉をサラリと返してくれた。
「ありがとな。それじゃあ、行こうか」
「うん」
そうして、俺たちは、二人並んで賑やかな夏の夜へと足を踏み出した。
マンションのエントランスを出て、提灯の明かりが遠くに見える商店街へと続く道を並んで歩き出す。
けれど、歩き始めてすぐに、俺はどうにも落ち着かないソワソワした気持に囚われていた。
隣を歩く芹愛の浴衣姿があまりにも眩しすぎて、自分のカジュアルすぎる普段着とのギャップに、どうしても気後れしてしまうのだ。
自然と、俺の足は彼女から少しだけ距離を取ろうとしてしまい、二人の間にぽっかりと不自然な空間が空いてしまった。
「ねえ、どうしたの? そんなに距離空けて歩いて……」
数歩進んだところで、芹愛がピタリと足を止め、首をかしげながら不思議そうに俺を見つめた。
「いや……その……」
俺は気まずそうに視線を泳がせながら、白状するようにボソボソと言った。
「こんなラフな普段着でさ、その……すごく綺麗に着飾った浴衣姿の芹愛の隣を並んで歩くのに、なんだかすごい引け目を感じてしまってさ……俺が隣にいるのが、なんか不釣り合いな気がして……」
俺のその子供っぽくも本音の詰まった言葉を聞いた瞬間、芹愛はふっと柔らかく、愛おしそうに目を細めた。
そして、彼女は躊躇うことなく一歩踏み出し、すっと俺との距離をゼロにした。
「なんでそんなこと気にするの?」
クスッと上品に笑いながら、芹愛は驚く俺の手をそっと自分の小さな手で包み込み、指を絡ませてしっかりと繋いだ。
彼女の手のひらから伝わってくる体温が、驚くほど心地よく俺の肌に染み込んでいく。
「こんなに素敵な浴衣を着て、素敵な人と一緒に祭りに来られただけで、私はもう十分幸せなんだから。服装なんて関係ないよ。ほら、いくよ、奏介君。人多いよね。はぐれたら困るし、手、繋ごう」
「芹愛……」
彼女のその真っ直ぐで温かい言葉に、さっきまで感じていた引け目や気後れなんてものは、一瞬でどこかへ吹き飛んでしまった。
俺はしっかりと彼女の手を握り返し、「ああ、行こうか」と力強く頷いた。
§
夏の熱気が少しずつ夕闇の中に溶け出し、吹く風に微かな涼しさが混じり始める頃。
今回の夏祭りのメイン会場である神社の境内へとたどり着いた。
そこには、想像を絶するほどの数の人だかりが広がっていた。
境内へと続く参道から広場にかけて、ずらりと並んだ数々の屋台。
赤や黄色の明るい提灯が夜空を彩り、その散りばめられた灯りが人々の楽しげな顔を照らし出している。
屋台からもうもうと立ち上る煙、焼きそばのソースの匂い、香ばしい醤油の焦げる香り、甘いわたあめの匂い、そして冷たいラムネの瓶がカチャカチャと触れ合う音。
どこを見渡しても、たくさんの人、人、人。
子どもたちが面をつけてはしゃぎ回り、浴衣を着た若いカップルや家族連れが笑顔で買い物を楽しんでいる。お祭りの持つ独特の活気と熱気が、気持ちを自然と昂らせてくれる。
「わぁ……すごい人だね! すごく賑やかで、お祭りムード満点だぁ」
芹愛は周囲の光景に目をキラキラと輝かせながら、嬉しそうに辺りを見回した。
人の波に押されてうっかり離れてしまわないよう、俺たちはしっかりと手を繋いだまま、ゆっくりと境内の中へと歩を進めていく。
「ほんとだな。こんなに人が集まってるなんて思わなかったよ。はぐれないように、しっかり手を繋いでおかないとな」
俺が少し意地悪っぽく笑いながら言うと、芹愛は顔を赤らめながらも、さらにギュッと強く俺の手を握り締めてくれた。その反応がたまらなく可愛くて、胸の奥がキュンと鳴る。
「うん……離さないでね、奏介君」
小さな声でそう呟いた彼女の横顔を眺めながら、俺たちはまず、香ばしい匂いに引き寄せられるように、たくさんの出店が立ち並ぶエリアへと足を踏み入れた。
「あ、見て、奏介君! あそこに射的の屋台があるよ!」
芹愛が嬉しそうな声を上げて指差した先には、色鮮やかな景品がずらりと並べられた射的のコーナーがあった。
上段にはアニメのキャラクターの大きめのフィギュアや、もふもふとした手触りの可愛い動物のぬいぐるみ、下段にはお菓子や小さなキーホルダーなどが所狭しと並んでいる。
「おっ、射的か。懐かしいな。ちょっと腕前を見せてやろうか?」
俺は少し調子に乗って、自信満々に胸を張ってみせた。
学校では地味なモブ男子を演じている俺だが、こういう縁日のゲームくらいなら、昔の記憶を頼りにそれなりに格好いいところを見せられるはずだ。何より、隣にいる大好きな女の子に、カッコいいところを一つくらい見せつけておきたかった。
「ほんと? じゃあ、私、あの真ん中にある、白いウサギのぬいぐるみ欲しいな……すごく可愛くない?」
芹愛が指差したのは、景品棚の少し奥のほうにちょこんと置かれた、フワフワした白いウサギのぬいぐるみだった。
「よし、任せろ! あのウサギのやつだな、今すぐゲットしてやるよ」
俺は気合十分で射的の屋台の前に歩み寄り、おじさんに代金を支払って、コルク弾の詰まった銃をしっかりと受け取った。
周囲には、俺たちのやり取りを見ていた何人かの見物客や子どもたちも集まってきている。
よし、ここでビシッと一発で決めて、芹愛にいいところを見せるんだ……!
俺は右目を細め、狙いをしっかりと定める。的は、あの白いウサギのぬいぐるみの真後ろに立てられているプレートだ。
いける……呼吸を整えて、引き金を……引くっ!
パァン! と乾いた音が境内に響き渡る。
俺の放ったコルク弾は、見事な勢いで的めがけて飛んでいった。
──が。
「あ……」
狙いはわずかに、ほんの数センチだけズレていた。
俺の放った弾は、目当ての白いウサギのぬいぐるみに掠りもしず、そのすぐ隣の棚の隙間にちょこんと置かれていた、プラスチック製の小さな星型キーホルダーの台座を直撃したのだ。
ガチャン! と音を立てて、星型のキーホルダーが勢いよく後ろの落下口へと転がり落ちた。
屋台のおじさんが、呆れながらも商売上手な笑顔を浮かべながら、「はい、お見事! 隣のキーホルダー獲得ね!」と、景品のキーホルダーを拾い上げてこちらに差し出してきた。
静寂が訪れた。
俺の手には、目当てのウサギではなく、キラキラと安っぽく光る星型の小さなキーホルダー。
「はあ……しまらないなあ、俺……」
俺は持っていた銃をトボトボと台の上に置き、盛大な溜息をついた。
この間まで「主人公体質だね」なんて芹愛に持ち上げられていたというのに、肝心なところでこのダサさである。
どこが主人公体質なんだか。これじゃあただの、いいところを見せようとして見事に空回りした三流のモブ男子じゃないか。情けなくて、自分の頭を抱えたくなった。
「うう……せっかく芹愛が欲しがってたウサギのぬいぐるみだったのに、見事に外しちまった……ごめん、芹愛。俺、全然かっこよくなかったな……」
俺が項垂れていると、隣から優しく服の袖をクイクイと引っ張られた。
顔を上げると、そこにはまったく呆れた様子もなく、むしろとびきり温かい笑顔を浮かべた芹愛が立っていた。
「そんなに落ち込まないの、奏介君」
彼女は優しい手つきで、おじさんから受け取ったばかりの星型のキーホルダーをそっと俺の手から受け取った。
「このキーホルダーだって、すごく可愛いじゃない。奏介君が私に取ってくれたものだもん、ウサギさんよりも何倍も嬉しいよ。大切にするね」
その包み込むような慰めの言葉と、太陽のように眩しい笑顔に、俺の胸のトゲトゲしていた自責の念は一瞬で溶かされていった。
こいつは、本当にどこまで優しいんだ。
「芹愛……ありがとう。救われたよ、俺……」
「ふふ、どういたしまして。さあ、気を取り直して! なんだか歩いてたらお腹も空いてきちゃったし、次はあっちの屋台で、大好きなものでも食べよ?」
芹愛はそう言って、再びキュッと俺の手をしっかりと握り直した。
彼女が指差した先には、鉄板の上でソースの香ばしい匂いをこれでもかと漂わせながら、職人芸の手際でひっくり返されている山盛りのたこ焼きの屋台があった。
「そうだな! 気を取り直して、まずはたこ焼きでも食べようか!」
俺は笑顔を取り戻し、たくさんの人波をかき分けながら、次の屋台へと並んで歩き出した。




