第21話 夏祭りに向けて、香ばしいニンニクの罠
八月初旬の週末。
青空がどこまでも高く、蝉の声が耳を劈くように響き渡る中、俺は叔父の経営する隠れ家風喫茶店『ライムノート』のカウンターに立ち、グラスを磨いていた。
「奏介くーん、ナポリタンあがったよ」
カウンターの奥、キッチンのほうから、涼やかでありながらどこか楽しげな声が飛んでくる。
声の主は、茶色のエプロンをきっちりと身にまとい、髪を後ろで一つにまとめた七条芹愛──頼もしいバイトの新人パートナーだった。
「りょーかい」
声を返しながら、俺は手際よくトレイに料理の盛りつけられた皿をのせる。
彼女がこの『ライムノート』で働き始めてからというもの、店の雰囲気は一変した。もともとマスターである叔父の淹れるコーヒーや手作りスイーツの評判は良かったが、芹愛がキッチンに加わって以来、料理のクオリティが一段と跳ね上がったのだ。
ランチタイムに提供されるハンバーグやパスタ、そして日替わりプレートは、どれもプロのそれを彷彿とさせる繊細さと深い味わいを持っており、口コミや常連客の間で瞬く間に話題となっていた。
「マスター。今日のパスタ、一段とソースにコクがあって美味いじゃないか」
「最近、この店に新しい料理人が入ったって噂は本当だったんだねえ」
常連のマダムたちやサラリーマンのグループが、満足げな笑みを浮かべて口々にそう褒そやかすのを、俺は何度も耳にしている。
学校での彼女は、才色兼備で誰もが憧れる完璧なお嬢様『高嶺の花』として、どこか周囲を寄せ付けない気高さを纏っている。
けれど、この喫茶店のキッチンに立つ彼女は、一人の料理人として純粋に仕事に喜びを感じ、生き生きとした表情を見せてくれる。そのギャップが、俺にとっては愛おしくてたまらなかった。
やがて、長いランチのピークタイムが過ぎ去り昼下がりになると、客足も自然と落ち着いてきた。
「お疲れ様、奏介君。今日もお客さんたくさん来てくれたね」
「ああ。芹愛も、ずっと動きっぱなしで疲れてないか?」
「ううん、全然。こうやってお客さんの『美味しい』っていう反応が直接見られるから、すごく充実してるの。なんだか、自分の居場所がここにもちゃんとあるんだって実感できるっていうかね。とっても楽しいよ」
キッチンの手が空き、テーブルを拭く俺の隣にふっと歩み寄ってきた芹愛は、額ににじんだ薄っすらとした汗をハンカチで拭いながら、充実感に満ちた晴れやかな笑顔を向けた。
「そう言ってくれるなら、マスターも雇った甲斐があったって喜ぶさ。でも、無理して倒れたりするなよ」
「分かってるって。私だって自分の体調くらいちゃんと管理できるもん」
そう言ってふわりと微笑む彼女の横顔を眺めながら、俺は束の間の静けさの中で、同じ時間を共有しているという密かな喜びを噛み締めていた。
§
シフトの終わりを告げる鐘の音が心地よく響き、俺たちは揃って身支度を整え、『ライムノート』をあとにした。
夕暮れの空が茜色からゆっくりと深い群青色へと移り変わっていく中、俺たちは並んで歩きお互いのマンションへとたどり着いた。
夕暮れ時に吹く風が心地よく肌を撫でる中、マンションの廊下を歩き、いつものように芹愛の部屋のドアの前に到着する。
鍵がカチャリと軽い音を立てて開くと、俺たちはそのまま揃って部屋の中へと足を踏み入れた。
「奏介君、ちょっと待ってて。すぐに夕食の準備をするからさ」
「お、じゃあ俺はリビングで大人しく待たせてもらうよ」
リビングのソファに腰を下ろして一息つくと、キッチンの方から調理器具の心地よい音が聞こえてきた。
しばらくの間、スマホをいじりながら待っていると、やがて室内に何とも食欲をそそる香ばしい匂いが漂い始めた。
「お待たせ、奏介君。今日の夕食はね、私の特製餃子なんだから」
エプロンをキュッと結んだ芹愛が、テーブルの上に大きな皿を運んできた。
そこに盛り付けられていたのは、すでにお皿いっぱいに綺麗に並べられた焼き立ての餃子だった。こんがりときつね色に焼けた底面からはパリッとした食感が想像でき、その脇には千切りキャベツと、自家製のタレを入れた小皿が上品に添えられていた。漂ってきたのは、たっぷりのニンニクと生姜、そして豚挽き肉のジューシーな脂が絶妙に混ざり合った、たまらない香りだった。
「すごいな……! 餃子なんて、また一段と気合が入ってるじゃないか」
「うん、昨日から下味をしっかりつけて仕込んでおいたの。夏バテしないように、ニンニクもしっかり効かせてあるから、スタミナ満点だよ」
席につき、さっそく焼き立ての餃子を一つ箸でつまみ上げる。薄皮の向こう側からあふれ出しそうな肉汁の気配を感じつつ、特製のタレに軽く浸して口へと放り込んだ。
「ん……っ! うまっ……!」
思わず感嘆の声が漏れる。
パリッとした香ばしい皮を噛み破った瞬間、中から熱々の肉汁がジュワリとあふれ出し、ニンニクのパンチの効いた風味とニラの爽やかな香りが口いっぱいに広がる。豚肉の旨味がギュッと凝縮されており、白米が何杯でもいけそうなほどの絶品だった。
「どう……かな? 味付け、濃すぎない?」
「いや、最高に美味いよ! ニンニクの効き具合も絶妙だし、皮のパリパリ感も完璧だ。お店に出せるレベルだぞ、これ」
「本当? よかったぁ……。実はニンニクを少し入れすぎたかなって心配してたから、そう言ってもらえると安心するな」
胸をなで下ろすように小さく息をついた芹愛は、自分でも一つ餃子を口に運び、満足そうに頬を緩めた。
美味しい食事を囲みながら、今日のお店での出来事や、他愛のない冗談を交わし合う。一日の終わりにこうして温かい食卓を共にできることが、いつの間にか俺たちにとってかけがえのない習慣になっていた。
§
夕食の片付けをテキパキと済ませた後、芹愛が淹れてくれた温かい珈琲をマグカップで受け取り、俺たちはリビングのソファに腰掛けた。
カップから立ち上る苦く甘い香りを楽しみながら、部屋を包み込む穏やかな静寂に身を委ねる。
「ふう……やっぱり、食後の珈琲は落ち着くな」
「そうだね。今日はよく動いたから、余計に美味しく感じるよ」
そうして、俺がマグカップを両手で包み込むようにして飲んでいると、隣に座っていた芹愛が、何やら思い出したように「あ、そうだ」と小さく声を上げた。
「ねえ、奏介君」
彼女の瞳が、少しだけ期待と照れくささが入り交じったような、潤んだ光をたたえて俺をとらえた。
「ん? どうした、芹愛」
「この地域の商店街、今度の週末にお祭りがあるのを知ってる? 神社の方までずっと屋台が出て、すごく賑わうやつ」
「あー、夏祭りか。確か、毎年この時期にやってるよな。ニュースとかでも見かける気がする」
「うん。それでね……私、そのお祭りに行きたいなって思ってさ」
芹愛は少しだけ頬を赤らめながら、自分のマグカップを指先でトントンと軽く叩いた。
「その……せっかくのお祭りだし、浴衣を着たいんだよね。中学生の頃に真鍋さんに譲ってもらったお気に入りの浴衣があるんだけど、最近全然着る機会がなくてさ……。それに、夜には大きな花火も打ち上がるって聞いたから、それも間近で見たいなって思って」
浴衣を着たい。花火が見たい。
そう口にする彼女の表情には、いつもの完璧なお嬢様としての仮面は一切なく、ただの年相応の女の子の純粋なワクワク感が溢れ出ていた。
「いいな、祭りも花火も。あ、羽川も一緒に行くのか?」
いつもなら、こうしたイベントには行動力の塊である羽川祈が真っ先に加わり、「みんなで行こーよ!」と賑やかに計画を引っ張っていくのが常だ。
俺のその問いかけに、芹愛はふっと複雑な笑みを浮かべた。
「ううん、今回は……二人きり、だよ」
「え……二人きり?」
「うん。祈はね、ちょうどその週末、おじいちゃんのお墓参りで実家に帰省する予定が入っちゃってて、一緒に行けないの。だから、『二人で行ってきたらいいじゃん!』って、さっき連絡があったばかりでさ」
羽川の顔が脳裏に浮かぶ。あいつのことだから、きっと思わせぶりなスタンプを大量に送りつけてニヤニヤしながら俺たちを冷やかしていたに違いなかった。
「そっか、羽川は実家か。じゃあ……」
俺が言葉を詰まらせていると、芹愛は少しだけ不安になったのか、上目遣いに俺の顔を覗き込みながら、おずおずと尋ねた。
「あの……ダメ、かな? ちょうど週末だし、その……二人きりじゃ、変、かな……?」
その、少しだけ自信なげに見つめてくる瞳の破壊力は抜群だった。
断る理由なんて、最初からどこにもなかった。
「変なわけないだろ。むしろ、二人きりで行こうって誘ってくれて嬉しいよ。俺も、祭りの雰囲気は嫌いじゃないし、せっかくなら芹愛の浴衣姿も見たいしな。花火も、もちろん見たいさ」
俺がそうハッキリと答えると、芹愛の表情は一気にパァッと華やぎ、満面の笑みに変わった。
「本当……? よかったぁ……! じゃあ、今度の週末、二人でお祭りに行こうね!」
「ああ、約束だ」
胸の奥が温かい甘さで満たされていくのを感じながら、俺は芹愛と、次の週末に訪れる『二人きりの夏祭り』への小さな約束を交わした。
§
時刻は夜の深まりとともにゆっくりと進んでいき、俺たちはいつものようにリビングから寝室へと移動する流れになった。
シャワーを浴びてさっぱりとした身体になり、ベッドの縁に腰掛ける。
そして、いよいよこれから身体を重ねようという時になって、芹愛が「あ」と自分の額に片手を当て、まるで何か致命的なことを思い出したかのように、自分に呆れたような、何とも言えない複雑な表情を浮かべてこちらを振り返った。
「……ん? どうしたんだよ、そんな顔をして」
俺が不思議そうに問いかけると、芹愛はバツが悪そうに肩をすくめ、小さくため息をついた。
「……そういえば、私、今日の夕食にしっかり餃子を食べたんだった……」
「餃子? ああ、美味い特製餃子を腹一杯食べたけど……それが何か問題でもあったのか?」
「うっかりしてたよ……! すっかり忘れてたの、ニンニクをたっぷりきかせたっていうことを……!」
芹愛は頭を抱え、ベッドの上にぽふんと倒れ込むようにしてうなだれた。
何事かと俺はさらに首を傾げる。
「いや、美味しかったんだからいいだろ? 一体何が……」
「もう……! 奏介君、分からないの!? あんなにたっぷりのニンニクを食べて、今から接近戦になっちゃったら、いくら歯を磨いても、まだ少し匂いが残ってるかもしれないでしょ……!」
ようやく彼女の言いたいことに気づき、俺は思わず「あ……」と声を漏らした。
確かに、あの香ばしく焼き上がった絶品餃子には、スタミナをつけるためにたっぷりのニンニクが仕込まれていた。俺だけでなく、それを調理し、同じようにしっかりと食べた本人である芹愛の息にも、当然その名残がほんのりと残っている可能性はある。
「というわけで、今日のところは、エッチはなしね、奏介君」
ベッドの上で枕に顔をうずめたまま、芹愛はきっぱりとした口調でそう宣言した。
「えぇ……!?」
思わず、俺の口から情けない声が漏れ出た。
せっかく二人きりで最高の夕食を終え、これからの甘い時間を過ごそうというこのタイミングで、まさかの『ニンニクによる自主規制』が発動されるとは夢にも思っていなかったからだ。
「そんなの、多少の匂いなんて気にならないって! そもそも俺も同じ餃子を食べたんだからお互い様だし……!」
「だめ! 乙女心として、そういうのはすごく気になるの! 今日はもうお預け、絶対になし!」
顔を真っ赤に染め上げたまま、芹愛は頑なに首を横に振り、俺を遠ざけるように両手をパタパタと振ってみせた。
そのあまりにも真剣で、どこか可愛らしい拒絶の仕方に、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「はぁ……わかりましたよ。じゃあ、今日のところは大人しくお預けを食らうとしますか」
「分かればよろしい。じゃあ、おやすみなさい、奏介君」
そうして、俺はすごすごと自分の部屋へとすごすご引き返すことになった。
とはいえ、その足取りに重さはなかった。
心の中には、週末に迫った芹愛との二人きりの夏祭り、そして彼女の艶やかな浴衣姿への期待感が、ぷつぷつと心地よい気泡のように膨らみ続けていたからだ。




