第20話 名前呼びと、二人きりの甘い夜
ウォーターパークでの楽しかった一日が終わり、夕暮れの電車とバスを乗り継いで街へ戻った頃には、空はすっかり深い藍色に染まっていた。
夏の夜風は心地よい熱を帯びてアスファルトの匂いを運び、少し切なくも満たされた気だるさが全身を包み込んでいる。
七条のマンションの部屋へ上がると、リビングの窓からは夜の街の明かりが遠くに見えていた。
週末の夜、俺たちの恒例となった二人での夕食の時間が始まる。
やがてキッチンからは香ばしいスープのいい香りがふわりと漂ってきた。
「はい、お待たせ。今日は一日中外で動き回ったから、スタミナがつくようにチキンのトマト煮込みにしてみたの。それと、冷たいポタージュスープもね」
エプロンを着た七条が、丁寧に盛り付けられた料理をテーブルへと運んできた。
その手際のよさと、疲れているはずなのにどこか嬉しそうな表情に、俺は自然と笑みをこぼす。
「ありがとう、美味しそうだな……。いただきます」
一口スープを口に含むと、冷たくクリーミーなコクが乾いた喉を優しく潤し、トマトの酸味とチキンの旨味が詰まった煮込み料理が、心地よい疲労感の残る身体に染み渡っていく。
「ん……! うまっ……! これ、今日みたいな日の夜に最高の味だわ」
「ふふ、よかった。一日中プールではしゃぎ回ったものね。本当に、楽しかったなぁ」
七条はエプロンを外して向かいの席に腰を下ろし、フォークを手に取りながら、遠い目をするようにふっと柔らかく微笑んだ。その瞳には、今日のプールの楽しかった思い出がまだキラキラと反射しているようだった。
§
「さっきも話したけど、羽川は最初から最後までテンション高かったよな」
俺がグラスの水を飲みながら言うと、七条はクスクスと声を立てて笑った。
「うん、本当に。あんなにはしゃいでいる祈を見るのは私も久しぶりだったかも。きっと、よっぽどあのプールに行くのが楽しみだったんだと思うよ。私も誘ってもらえて本当に良かった」
「だな。あいつのおかげで、夏休みの最高の思い出ができた気がするよ」
スープを飲み干しながら、話題は自然と、今日のプールで起きた数々のハプニングへとスライドしていった。
リビングの空気の温度が、ほんの少しだけ上がったような気がする。
「……それにしても」
七条はフォークをピタリと止め、少しだけ頬を朱に染めながら、テーブル越しにじっと俺の目を見つめた。
「プールのスライダーの時……私の水着の紐がほどけちゃったあの瞬間、本当に、心臓が止まるかと思った……。あの時は本当に焦ったよ……。でも、すぐ傍に稲葉君がいてくれて……本当に、助かった」
当時の恐怖と思い出し羞恥が入り混じったのか、七条は両手で自分の頬を軽く押さえた。あの時の彼女の青ざめた表情と、必死に胸元を隠していた姿が脳裏に鮮やかに蘇る。
「いや、マジで肝を冷やしたぞ。周りに他の客がいなくて本当に良かった。七条も、もう少し気をつけろよな……って、まあスライダーの勢いじゃ不可抗力か」
「う……返す言葉もないよ」
彼女は小さく呻くと、恥ずかしさを紛らわせるように、クスリとどこか茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「それにしてもさ……かっこよかったなあ、あの時の稲葉君」
「……は?」
「ほら、夕方のあのナンパ男たちのところよ。私たちが困って絡まれてる時に、まるで映画のワンシーンみたいに颯爽と現れて……」
七条は両手を胸の前で軽く合わせ、少し大げさに、惚れ惚れとしたような口調で当時を再現してみせた。
「『俺の女たちに、何か用か?』って……あんなセリフ、普通男の子があんな堂々と言えるものなの?」
「っ……! おい、やめてくれ……! それ以上口に出されると、本当に恥ずか死ぬ……!」
俺は思わず両手で顔を覆い、テーブルに突っ伏しそうになった。
あの時は怒りと焦りで夢中になって飛び出したものの、後から冷静になって振り返ると、人生で一番恥ずかしいセリフを口にしていたことに気づき、今思い出しても耳まで真っ赤になって消えたくなるほどの黒歴史なのだ。それを本人の前で綺麗に再現されるのは、精神攻撃以外の何物でもなかった。
「ふふっ、そんなに顔を真っ赤にして。でも、事実でしょ? 私も言われた時はすごく恥ずかしかったけどね」
七条は楽しそうにイタズラっぽく目を細め、それからふっと表情を和らげ、まっすぐな眼差しを俺に向けた。
「ねえ、稲葉君ってさ……なんだかんだ言って、ものすごく『主人公体質』だよね」
「はぁ? 主人公体質ってなんだよ、それ」
「だって、いつもピンチの時には必ず助けてくれるし、肝心なところでカッコいいところを持っていくんだもの。私にとっての、最高のヒーローだよ」
その言葉は、冗談なんかではなく、彼女の心の底からの本音のようだった。
静かなリビングルームに、彼女の透き通るような声が優しく響く。
あまりにも真っ直ぐすぎるその称賛に、俺は返す言葉を失い、ただ心臓の音がうるさく鳴り響くのを感じるしかなくなっていた。
§
夕食が終わり、テーブルの上を片付けてリビングに戻る頃には、夜の帳はさらに深く落ちていた。
窓の外には静かな住宅街の明かりが広がっていて、世界から切り離されたような、二人だけのプライベートな空間がそこにあった。
ソファに並んで座り、テレビの画面をなんとなく眺めていたが、なんとなくお互いの意識が別のところにあるのが分かっていた。
今日のプールの出来事、あの水着のハプニング、そしてナンパ男を追い払った時のやり取り、夕食の時の言葉──それらの記憶が、二人の中の距離を、これ以上ないほどに近づけていた。
「……ねえ、稲葉君」
静寂を破るように、七条が小さな声で呟いた。
彼女はテレビから視線を外し、俺の肩にそっと自分の頭をもたれかけさせてきた。
「どうした?」
「……今日ね、すごく楽しかった。もちろん、プールで遊んだことも、一緒にご飯を食べたことも、全部全部」
柔らかな黒髪が俺の肩に触れ、彼女の纏うシャンプーの甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
心臓がドクリと大きく跳ね上がった。
「俺も……だよ。七条と一緒に行けて、本当に良かったって思ってる」
俺がそう返すと、七条はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見上げた。
その距離はあまりにも近すぎて、お互いの息遣いまでハッキリと感じられるほどだった。
「……じゃあさ、もう『七条』って呼ぶの、やめにしない?」
「え……?」
「いつまでも苗字で呼び合うなんて、なんだか距離があるみたいでやだ。私のこと、名前で呼んでよ、奏介君」
その、恥ずかしそうに、けれど決意を込めたような眼差しで見つめられながら名前を呼ばれた瞬間、俺の理性の防壁は完全に崩れ去った。
「……芹愛」
震える声でその名前を呼ぶと、七条──芹愛は、まるで花が咲いたような、息をのむほど美しい笑顔を浮かべた。
「はい……奏介君」
次の瞬間、自然と引き寄せられるように、俺たちの顔の距離がゆっくりと縮まっていった。
月明かりだけが優しく照らすリビングの中で、唇と唇が重なり合う。
それは、ただのクラスメイトや隣人という関係を超えた、お互いの心と身体が完全に溶け合うような、甘く、そして熱い口づけだった。
§
その日の夜。
俺たちはいつの間にかリビングのソファから移動し、二人分の温もりを感じながら、ベッドの上に並んで横たわっていた。
真夏の夜の熱気はエアコンの冷気で和らいでいるはずなのに、お互いの体温が触れ合うたびに、胸の奥の温度はどんどん上がっていく。
外の喧騒は完全に消え去り、聞こえるのはお互いの重なり合う荒い呼吸と、高鳴る心臓の音だけだった。
「奏介君……私を、もっと……」
芹愛の潤んだ瞳が、暗闇の中で微かに光る。
その掠れていて熱を帯びた声に導かれる
ように、俺は彼女の細く引き締まった身体をそっと抱き寄せた。
ふわりと広がる甘い香り。
絹のように滑らかな肌に触れるたび、理性が溶けていくような感覚に囚われる。
昼間のプールの水面で見せた彼女の眩しい姿が、今、この狭いベッドの上で、完全に俺だけのものとして目の前にある。
「芹愛……これからもずっと傍にいてくれ」
「……うん……奏介君……ずっと、ずっと、一緒だよ……」
言葉の続きは、再び重なり合う唇によって優しく遮られた。
真夏の夜の熱さに決して負けない、いや、それよりも何倍も熱く、甘美な夜が、俺たちの時間をゆっくりと包み込んでいく。
外の世界がどうなっていようとも関係なかった。
この部屋の、この温もりの中だけが、今の俺たちにとってのすべての世界だったから──。




