第19話 夏の日のランチタイムと、頼もしき彼氏の背中
スライダーでの心臓が飛び出るほどのハプニングからしばらく時間が経ち、あの時のドタバタが嘘のように、俺たちは平和で穏やかな夏の午後を取り戻していた。
しっかりとビキニの紐を結び直した七条は、最初は少し恥ずかしそうにしていたものの、羽川の明るいフォローや俺の普段通りの態度に救われたのか、すぐにいつもの凛とした落ち着きを取り戻していた。
「ふう……それにしても、あのスライダーはちょっと刺激が強すぎたね……」
濡れた黒髪を優しくタオルで拭きながら、七条が少しだけため息交じりに苦笑いを浮かべる。その頬はほんのりと上気していて、水遊びではしゃいだ後の心地よい気だるさが漂っていた。
「あはは! 芹愛、あんなに顔真っ青にして『助けて稲葉君』って、めちゃくちゃ可愛かったよー!」
「ちょっと、祈! それ以上言ったら怒るよ……!」
羽川が茶化すようにケラケラと笑うと、七条は顔を真っ赤にしてツンとそっぽを向いた。
けれど、その目は怒っているどころか、どこか楽しげに潤んでいる。二人のそんな仲睦まじいやり取りを見ているだけで、さっきまでの冷や汗がすっかり引いていくのを感じた。
「そろそろお腹も空いてきた頃だし、何か食べに行かないか? 館内のレストランエリア、色々と店が入ってるみたいだぞ」
俺がスマートフォンで確認した施設のマップを二人に見せると、羽川がパッと目を輝かせた。
「おっ、いいねいいね! 私、お腹ペコペコ! プールで遊んだ後のご飯って、なんであんなに美味しいんだろ!」
「そうだね、私も少しお腹が空いたかも。何か温かいものが食べたいよね」
こうして、俺たちは更衣室で軽く上着を羽織り、水着の上にそれぞれラッシュガードやサマードレスを纏って、ウォーターパーク内にある広々としたフードコートへと向かった。
§
開放的なガラス張りのレストラン内は、外の強い日差しが柔らかく差し込み、冷房が心地よく効いていた。周りを見渡すと、家族連れやカップル、同じように遊びに来た学生グループで賑わっている。
俺たちは窓際の四人掛けの席を確保し、それぞれカウンターで注文した料理をテーブルいっぱいに広げた。
羽川はボリューム満点のチーズバーガーとポテトのセット、七条はヘルシーかつ色鮮やかな冷製トマトパスタ、そして俺は王道の特製オムライスを目の前にしていた。
「いただきまーす!」
羽川が元気よく両手を合わせ、さっそくバーガーににかぶりつく。
「んーーっ! 美味しい! この肉汁、たまらないね!」
「この冷製パスタも、トマトの酸味が効いていて、火照った体に染みるよ」
七条も一口パスタを口に運び、満足そうに目を細めた。
俺もスプーンでオムライスをすくい上げ、口に放り込む。トロトロの卵とデミグラスソースのコクが絶妙に絡み合い、運動した後の体に染み渡るような美味しさだった。
「どうだ、そっちは? アルバイトの料理長としての評価は」
俺が冗談めかして尋ねると、七条はふっと上品に微笑んでフォークを置いた。
「そうだね……こういうレジャー施設のフードコートとしては上出来だと思うよ。麺の茹で加減も悪くないし、ちゃんと計算されている感じがする」
「及第点ってところか。さすが七条様、評価が厳しいですねえ」
「ふふ、褒めているんだよ? 少なくとも、今日の疲れを癒すには十分すぎる美味しさ」
向かい側に座る羽川は、俺たちのやり取りを面白そうに交互に見つめながら、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「ねえ、二人さ、最近ますます息が合ってきてない? なんか、こう……見ていてすごくいい雰囲気っていうかさあ」
「なっ……! 何を言ってるの、祈! 別に私たちは、普通のクラスメイトで……その、隣人同士っていうか……!」
羽川のストレートな突っ込みに、七条は一瞬で耳まで真っ赤に染め上げ、慌てて否定した。その狼狽えぶりがあまりにも露骨で、俺も思わず「おいおい、変な誤解を招くようなこと言うなよ」と苦笑するしかない。
「えー? 誤解なんてしてないよーだ。だよね、稲葉君?」
「いや、本当に俺たちはただの隣人としての付き合いだぞ……」
「ふーん……まあ、いっか! とにかく、この夏休みにこうして三人で遊びに来られて、本当に楽しい! ありがとね、二人とも!」
羽川は明るくグラスを掲げ、俺たちの冷たい麦茶のグラスにコツンと軽く当てた。
その底抜けに明るい笑顔に釣られるように、七条も、そして俺も自然と笑みをこぼした。
日頃の学校生活のしがらみや、それぞれの抱える秘密なんて、全部この広い青いプールの水面に溶けていくような、そんな穏やかで満たされた時間が流れていた。
§
昼食を終えてからも、俺たちは午後の日差しの中を存分に遊び尽くした。
波のプールで浮き輪ごと波に揺られたり、浅瀬でキャッチボールをしたり、遊び疲れたらパラソルの下でアイスクリームを分け合ったりした。
「ふあぁ……ちょっと足がパンパンになってきたかも……」
午後三時を過ぎた頃、流れるプールの縁に腰掛け、冷たい水に足を浸しながら、羽川がふうっと大きな伸びをした。
「確かに、朝からはしゃぎすぎたな。ちょっと休憩するか」
「そうだね、私も少し喉が渇いたよ。何か冷たい飲み物でも買ってこようかな」
七条が立ち上がろうとしたが、俺はそれを手で制した。
「いいよ、七条たちはずっと泳いでて疲れただろ。俺が代表して自販機でドリンク買ってきてやるよ。何がいい?」
「ほんとに? じゃあ、私は炭酸強めのレモンスカッシュがいいな!」
「私は冷たい緑茶でお願いできるかな?」
「了解。すぐ買って戻ってくるから、そこで大人しく待ってろよ」
俺は二人に背を向け、少し離れたところにある屋外の自動販売機コーナーへと歩き出した。
プールの照り返しと夏の熱気がまだ体にまとわりついているが、冷たい飲み物を手に入れることを考えると足取りが軽くなる。
お札を投入し、レモンスカッシュと緑茶、そして自分用のスポーツドリンクのボタンを押して、次々とガチャンと音を立てて取り出し口に落ちてくる缶やペットボトルを回収していった。
「ふう、重っ……」
両手いっぱいに冷えた飲み物を抱え、元のパラソルのある場所へと戻ろうとした、その時だった。
少し開けたプールの通路の脇で、見知らぬ二人の男が、七条と羽川の座っているベンチのあたりに声をかけているのが視界の隅に飛び込んできた。チャラチャラとした派手なシャツを着た、いかにも大学生風の男たちだ。
「ねえ、お姉さんたち。二人だけでポツンと座ってどうしたの? よかったら僕たちと一緒にあっちのプール行かない?」
「そうそう! 君たちめちゃくちゃ可愛い子たちだし、この後俺たちとパーティーしようぜ!」
男の一人が、嫌がるように少し体を引いた七条の肩に馴れ馴れしく手を伸ばそうとした。
隣に座る羽川も、少し顔をこわばらせながら「すみません、連れが待ってますので……」と断りを入れている。
その光景を見た瞬間、俺の中で何かがカチリと音を立てて沸騰した。
ふざけやがって……!
頭に血が上るのを感じながら、俺は持っていたドリンクのボトルをガシャリと近くのベンチに乱暴に置き、一気にその男たちの背中へと歩み寄った。
「おい」
低く、抑え込んだ声音で声をかけると、ナンパ男たちはピタリと動きを止め、不機嫌そうに振り返った。
「んだよ、お前。邪魔すんじゃねーよ、ガキが」
相手は俺を高校生と見なして、あからさまに見下したような冷笑を浮かべた。だが、今の俺は、そんなちっぽけな威嚇に怯む気など毛頭なかった。
俺は男たちの間に割って入るように立ち、七条と羽川を背後にかばうと、二人の男を冷徹な眼光で睨みつけた。
「俺の女たちに、何か用か?」
その言葉は、自分の口から出たとは思えないほど、驚くほど低く、そしてどこか凄みのある響きを持っていた。
背後で、七条の息が小さく呑み込まれる気配がした。
羽川も「あ……」と目を見開いている。
ナンパ男たちは、俺のそのただならぬ気迫と、「俺の女」という予想外の強気な宣言に一瞬気圧されたようだった。俺の体格は特別大きくはないが、今の俺の目は、本気で怒っている人間のそれだったのだろう。
「……何だって……?」
「連れって……この子たちの彼氏かよ……?」
「そうだと言ってんだよ。これ以上しつこく絡むなら、そこのプールの警備員と、あと警察にでも声をかけさせてもらうけど……どうする?」
俺がスマホを取り出す仕草を見せると、男たちは顔を見合わせた。面倒なことに巻き込まれるのはごめんだと思ったのだろう。男の一人が吐き捨てるように舌打ちをした。
「ちっ……なんだよ、男連れかよ! つまんねえの!」
「おい、行くぞ、こんなガキ相手にしててもしょうがねえ」
男たちは負け惜しみをブツブツと呟きながら、すごすごと気まずそうにその場を離れ、人混みの中に消えていった。
男たちの姿が見えなくなると、俺はふうっと大きく息をつき、張り詰めていた肩の力を抜いた。
ふう、なんとかうまく追い払えたか。
冷や汗が背中を伝うのを感じながら振り返ると、そこには目を丸くした二人の姿があった。
「……ありがと、稲葉君」
七条がホッとしたような表情を浮かべながら、消え入りそうな声でお礼を言った。その顔はほんのりと赤く染まっている。
そして、羽川の方はというと、さっきまでの緊張はどこへやら、ニヤニヤとこれ以上ないほど悪戯っぽく口元を歪め、俺の顔をしげしげと観察していた。
「ねえ、稲葉くーん?」
「なんだよ、羽川」
「さっきのセリフ、めちゃくちゃかっこよかったけどさ……」
羽川はクスッと笑いながら、隣にいる七条の肩を肘で軽く突いた。
「私たち、いつの間に稲葉君の『女』になってたの~? 聞き間違いかなあ?」
その言葉に、七条の顔がトマトのように一気に真っ赤に染まった。
「なっ……! 羽川、変なこと言うなよ! あ、あれは、その……場の勢いで言っただけなんだからな!」
俺は慌てたように両手をブンブンと横に振って弁解する。
「分かってるってば! 別に責めてるわけじゃないし。むしろ、あんな風にビシッと守ってくれる騎士様がいて、芹愛だって内心キュンキュンしてたはずだよー」
「し、してないよ! ……ただ、その……頼もしかった、とは、思ってるけど……」
最後の一言は、聞き取れないほど小さな声で、七条はプールの水面へと視線を落とした。
「あれは、あのナンパ野郎どもを追い払うためについた方便だよ。気にするなよ、二人とも」
俺が照れ隠しに頭をポリポリと掻きながらそう言うと、羽川は「はーい、そういうことにしておきましょーねー」と楽しそうに笑った。
西の空がほんのりと夕暮れの色に染まり始める中、波の音と遠くから聞こえる人々の歓声を聞きながら、俺は冷たいドリンクを一口飲んだ。
心臓の鼓動はまだ少しだけ早かったけれど、胸の奥には温かくて心地よい充足感がじんわりと広がっていた。
夏の日のウォーターパーク。
その思い出の1ページに刻まれた小さな事件は、俺たちの距離を、また一段と縮めてくれたような気がした。




