第17話 バイト先でのサプライズと、先輩呼び
夏休みが本格的に幕を開け、街中がセミの鳴き声とギラギラとした太陽の光に包み込まれていた。
梅雨のジメジメとした空気は完全に吹き飛び、肌を焦がすような真夏の暑さが容赦なくアスファルトを揺らしている。
週末の土曜日。
俺は、いつも通り朝早くから叔父の営む隠れ家風喫茶店『ライムノート』に足を運んでいた。
クーラーの効いた店内で、挽かれるコーヒー豆の香りに包まれながら、静かなジャズが流れる空間で働くこの時間は、俺にとって意外と悪くないリフレッシュの場だった。
「奏介。今日も朝からいい働きぶりだな」
カウンターの向こう側でエプロンをきっちりと結んだ叔父であるマスターが、仕込みの手を止めながら声をかけてきた。
「ありがとうございます、マスター。今日は何か新しい仕込みとかありますか?」
「いや、今日の仕込みはいいんだが、それより実はな、今日から新しく、この店で働くことになった新しいアルバイトの子が来るんだ」
「新しいバイト? へえ、そうなんですか」
俺がテーブルを拭きながら聞き返すと、マスターは意味ありげにニヤリと笑った。
「ああ。料理の腕がなかなかに良くてな、うちの店に興味を持って志望してくれたんだ。そろそろ来る頃だが……お、ちょうど来たみたいだな」
カランコロン、と心地よいドアベルの音が店内に響き渡る。
俺は「こんにちは」と声をかけようと、拭いていたテーブルからパッと顔を上げた。
その瞬間、俺の動きが完全に停止した。
ドアの向こうから現れたのは、清楚な私服に身を包み、涼しげな微笑みをたたえた一人の少女。
綺麗に切り揃えられた黒髪が風に揺れ、その端正な顔立ちは一目でそれと分かる。学園のトップを走り、いつもは孤高の気高さを纏っているはずのクラスメイト──七条芹愛だった。
「──っ!?」
思わず喉の奥から変な声が漏れそうになるのを、必死で飲み込む。
頭の中に、数日前に彼女の部屋で交わした会話がふと蘇ってきた。
『私、今年の夏からアルバイトを始めることにしたんだ』
『どこで働くんだ?』
『ふふ、それは秘密、だよ』
まさか……! 七条が言っていたバイト先って、ここ『ライムノート』だったのか……!?
あまりの衝撃に、俺の脳内回路は一瞬でショートしかけた。
叔父の店であるこの場所で、まさか学校のクラスメイト、しかもよりによって七条と一緒に働くことになるとは夢にも思っていなかったからだ。
「お、来た来た。おい、奏介、こっちに来い」
何も知らないマスターが、大きな声で手招きする。
「こちらが今日から新しくキッチン担当として入ってくれる、七条芹愛さんだ。そしてこっちは、うちのベテランアルバイトの稲葉奏介」
七条は微笑みながら、マスターに「はい」と一礼すると、視線をスッと俺の方へと向け、最高に小悪魔的で茶目っ気のある笑みを浮かべたのだ。
「よろしくお願いしますね、稲葉先輩」
その『先輩』という響きに、これでもかとばかりに冗談めかした親愛の色が込められていて、俺は顔が熱くなるのを必死で抑えるしかなかった。
それから、開店準備を済ませて本格的なランチタイムが始まった。
普段は俺が一人でホールと簡単な盛り付けをこなし、マスターがメインの調理を担当していたが、今日からはそこに七条がキッチン担当として加わることになった。
バックヤードの更衣室で貸し出された茶色のエプロンを身にまとった七条は、驚くほどその空間にしっくりと馴染んでいた。長い黒髪を後ろでスッキリとまとめ、真剣な眼差しで包丁を握る姿は、まるでどこかの高級料理店のプロの料理人のようなオーラを放っている。
「七条、次のオーダー、ハンバーグプレートの付け合わせの野菜、頼む!」
「はい、すぐに仕上げますね、稲葉先輩」
注文の伝票を手に声をかけると、七条はふっと柔らかく微笑みながら手際よくフライパンを振る。
彼女の包丁さばきは正確無比で、野菜のカット音すら心地よいリズムを刻んでいた。
家庭科の調理実習レベルを遥かに超越したその腕前は、マスターも「君、本当に高校生か? すごいな……」と舌を巻くほどだった。
やがて、忙しさがピークに達し、客席から次々と料理が運ばれていく。
カウンター席やテーブル席の常連客たちが、七条の作った料理を口にするやいなや、次々と驚きの声を上げ始めた。
「おや、マスター。今日のハンバーグ、一段とソースのコクが増して美味しくなってないか?」
「本当だ。添えられている野菜の火入れも絶妙で、食感がすごくいい。新しい料理人でも入ったのかい?」
常連客のおじさんたちのそんな会話が、ホールにいる俺の耳にもハッキリと届いてきた。
カウンターの奥で、七条は控えめに「ありがとうございます」と上品にペコリと頭を下げている。その頬には、少しだけ達成感の色が滲んでいて、誇らしげに輝いていた。
さすがだな……。あいつの料理の腕は、伊達や酔狂じゃないってことか。
彼女が、こうして自分の得意な分野で周囲から純粋に認められ褒められている姿を見ると、なんだかこちらまで誇らしいような、こそばゆいような不思議な気持ちになった。
§
夕方になり、客足が落ち着いた頃。
夕方の柔らかな西日が大きな窓から差し込んでくる店内で、今日の営業を無事に乗り切ったマスターは「いやあ、助かったよ二人とも。お疲れさん」とバックヤードへ引っ込み、そこに俺と七条の二人だけが残された。
「ふう……疲れたけど、すごく充実してた……」
七条はエプロンのポケットからハンカチを取り出し、額に滲んだうっすらとした汗を優しく拭き取りながら、ふうっと小さな息をついた。その表情には心地よい疲労感と、充実感に満ちた晴れやかな笑顔があった。
「お疲れ、七条。初日からあんなにフル回転で動けるなんて思わなかったぞ」
「本当? ……よかった。実は、初めてのアルバイトだから、ちゃんとお店の役に立てるかすごく不安だったの。でも、稲葉君が的確に指示を出してくれたおかげで、スムーズに動けたよ。ありがとうございます、先輩?」
最後の『先輩』という言葉に、わざわざアクセントをつけるように、七条はいたずらっぽく片目をウインクしてみせた。
その可愛らしい仕草に、俺は思わずタジタジとなりながら頭をかいた。
「おい、その『先輩』呼びはやめろって。なんか変な感じがするだろ」
「どうして? ここでは私は新人のアルバイトで、稲葉君はベテランの先輩なんだから、間違ってないよね?」
からかうような笑みを浮かべる七条の顔は、学校で見せる高嶺の花な優等生の印象とは違い、年相応の瑞々しい少女の輝きに満ちていた。
「気恥ずかしいんだけどな……まあいいや。で、そろそろバイトも終わりだし、一緒に帰るか?」
「ふふ、そうだね。帰ろうか、先輩」
エプロンを綺麗に畳み、私服のカーディガンを羽織った七条と共に、『ライムノート』を後にした。
§
夏の夕暮れ時は、昼間の猛烈な暑さが少しだけ和らぎ、どこか切なさと心地よさが入り混じった風が吹き抜ける。
夕焼けに染まるアパートへと続く帰り道を、俺たちは並んでゆっくりと歩いていた。アスファルトの上には、二人の長い影が伸びている。
「いやー、それにしても驚いたよ。まさか七条が同じ職場で働くことになるなんてさ。なんで『ライムノート』を選んだんだよ? 他にもいくらでもバイト先なんてあったろ?」
俺がふと疑問を口にすると、七条は前を歩きながら足を止め、ゆっくりと振り返った。
夕日を背にした彼女の瞳が、黄金色にきらめいている。
「それはね……秘密、と言いたいところだけど、少しだけ教えてあげてもいいかな」
「なんだよ、ったく、気を持たせるのが好きだな」
「ふふ。実はね、あそこなら安心できると思ったから。それに……学校の図書室や、あの部屋だけじゃなくて、こうして全く違う場所で、同じ目的に向かって時間を共有するっていうのも、なんだか新鮮で素敵だなって思ったから……かな」
少しだけ照れくさそうに、けれどまっすぐに俺の目を見つめてそう告げる彼女のその言葉に、俺の足がピタリと止まった。
夕暮れの静かな空気の中、心臓の音が妙に大きく響く気がした。
「そうか。お客さんたち皆、七条の作る料理が美味くなったって大絶賛してたからな。俺も鼻が高かったわ」
俺が照れ隠しに少し大げさに言ってみせると、七条はパッと花が咲いたような、最高に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「 ふふ、嬉しい。やっぱり、『ライムノート』でバイトを始めて本当によかった」
彼女は両手を後ろに組み、少しだけ体を弾ませるようにして歩き出した。
「やっぱり、誰かに『美味しい』って言ってもらえるのって、こんなにも嬉しいことなんだね。料理をやっていて、本当によかったって心の底から思える」
しみじみとした口調で語るその声には、彼女の料理に対する純粋な情熱と、喜びがあふれていた。
「ああ。七条の料理は本当に美味いからな。自信を持っていいさ」
「……ありがとう、稲葉君」
七条は柔らかく微笑み、それから少しだけ悪戯っぽくクスリと笑った。
「あ、でもね。お客さんたちに褒めてもらえるのもすごく嬉しいけど……。もちろん、これまでずっと稲葉君が私に言ってくれていた『美味しい』も、同じくらい……ううん、それ以上に、私にとっては大切な宝物なんだからね」
心臓が、大きく跳ね上がった。
夕日の赤さに紛れて、自分の頬が一気に熱を帯びていくのが自分でも分かる。
面と向かってそんな真っ直ぐな言葉を投げかけられるなんて思ってもみなかったからだ。
「な、なんだよ急に……。調子のいいこと言うなよな」
「別に、嘘なんて言ってないもん。事実だもの」
七条は楽しそうにクスクスと笑いながら、軽やかな足取りで夕暮れの道を先へと進んでいく。
その背中を追いかけながら、俺は大きく深呼吸をした。
夏休みに入って始まった新しい日常。
喫茶店でのアルバイトという新たなスパイスが加わり、俺と七条の距離は、気づけばあの静かな部屋の外でも、確実に、そして心地よく縮まってきていた。
夏の空には、ゆっくりと夜の帳が下り始め、一番星が静かに瞬き始めている。
この最高に特別で、秘密めいた夏の日々は、まだ始まったばかりだ。




