第16話 夏の扉と、秘密めいた約束
七月中旬に差しかかり、季節はいよいよ本格的な夏へと向かっていた。
梅雨の晴れ間から覗く陽光は容赦なく、アスファルトをジリジリと焼き付けている。昼間の街を歩くだけで汗が噴き出すような気候だったが、日が落ちて夕方の風が吹き抜ける頃になると、どこか心地よい夏の夜の気配が街を包み込む。
金曜日の放課後。
俺は、周囲の目を盗むようにしてマンションの隣の部屋に向かい、慣れた手つきでインターホンを鳴らした。
ガチャリ、と軽い音を立ててドアが開く。そこに立っていたのは、エプロンを身にまとった七条だった。
「お疲れ様、稲葉君。ちょうど今、仕上がったところだよ」
「お邪魔します、七条。今日もいい匂いがするな」
リビングに上がりながら、ローテーブルに目をやった瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
お皿の上に上品に並べられていたのは、こんがりときつね色に揚がった見事なエビフライだった。添えられたキャベツの千切りとレモン、そしてタルタルソースが鮮やかなコントラストを描いている。衣の軽やかな香ばしさが部屋中に広がり、食欲をダイレクトに刺激してきた。
「ふふ、喜んでもらえてよかった。さあ、冷めないうちに食べて」
七条は嬉しそうに微笑みながら、向かい側の席を勧めてくれた。
学校では決して見せない、リラックスした柔らかい表情。週末のこの時間だけが、俺たちにとっての本当の居場所であり、誰にも邪魔されない秘密の隠れ家だった。
「いただきます」
箸で大ぶりのエビフライをつまみ、添えられたタルタルソースをたっぷりつけて口へと運ぶ。
サクッ、と心地よい音を立てた直後、衣の香ばしさとプリプリとしたエビの身の旨味が口いっぱいに弾けた。絶妙な火加減で揚げられているため、身は硬くなりすぎておらず、しっとりとした甘みが残っている。
「ん……っ! 美味い……! これ、本当にお店で食べるやつより美味いぞ」
「ほんとう? よかった……真鍋さんに教わった通りに揚げたんだけど、衣の付け方が少し難しかったから、そう言ってもらえると安心するな」
七条はホッとしたように胸を撫で下ろし、自分の分のエビフライを上品に一口かじった。
相変わらずの絶品料理に舌鼓を打ちながら、俺たちはしばらくの間、学校での他愛のない出来事や、近づいてくる夏休みの話題について語り合った。
§
食事の片付けが一段落し、冷たい麦茶をグラスに注いでソファに腰掛けた頃だった。
七条はグラスを指先で軽く転がしながら、少しだけ言いにくそうにして切り出した。
「ねえ、稲葉君。夏休みの計画なんだけどさ……実は、私、今年の夏からアルバイトを始めることにしたんだ」
「は……? アルバイト?」
俺は思わず持っていたグラスをテーブルに置き、彼女の顔をまじまじと見つめ返した。
七条芹愛といえば、誰もが知る学園のマドンナであり、厳格な家庭で育った由緒正しきお嬢様だ。そんな彼女が、自分から進んでアルバイトを始めるなどという話を聞くのは、寝耳に水だった。
「驚くのも無理ないよね。でも、自分の力で少しでも社会経験を積んでみたかったし、何より、私のこの料理の腕を、もっと活かせる場所があるんじゃないかって思ってさ」
七条は少し誇らしげに、しかし恥ずかしそうに頬を染めながら微笑んだ。
彼女の料理の腕前がプロ顔負けであることは、俺が一番よく知っている。もし彼女がどこかの飲食店のキッチンに立ったら、間違いなく一躍人気店になるだろう。
「なるほどな……。いや、すごいな、七条がバイトねえ。で、どこで働くんだ? やっぱり、お洒落なカフェのキッチンとかか?」
俺が興味津々で尋ねると、七条はふっと悪戯っぽい小悪魔的な笑みを浮かべた。
「ふふ、それは秘密、だよ」
「なんだよ、秘密って。教えてくれてもいいじゃないか」
「ううん、ダメ。教えてあげない。いつかどこかで、私の作った料理を偶然食べる機会が来るかもしれないでしょ? その時のお楽しみにしておくの」
七条はクスクスと楽しそうに笑いながら、絶対に教えてくれる気配を見せない。
そのツンとした余裕のある態度に少しだけ悔しさを覚えつつも、彼女が新しい一歩を踏み出そうとしていることが、なんだか嬉しかった。
「まあ、七条がそこまで言うなら詮索はしないけどさ」
「そうして。しつこい男は嫌われるからね」
七条は冗談っぽく笑いながら、話題をスッと切り替えた。
「それよりね、稲葉君。実は祈から誘われているんだよね。三人で、夏休みにプールに行こうって」
「プール……?」
「そう、少し離れたところにある、流れるプールがある大きなウォーターパーク。祈が『三人で行こうよ! 夏と言えばプールでしょ!』って、すっごい勢いで誘ってきてさ」
羽川の顔が脳裏に浮かぶ。あのエネルギッシュで好奇心旺盛な女子のことだ。きっと今から夏休みの計画を立ててワクワクしているに違いない。
「プールね……。まあ、いいんじゃないか。夏休みのイベントとしては王道だしな」
俺がそう返すと、七条は少しだけ安心したような、それでいてどこか照れくさそうな複雑な表情を浮かべた。
「そっか、稲葉君も賛成? なら、祈には私から前向きに返事しておくね。詳しい日程はまた後で決めることになっているから」
「ああ、頼むよ」
会話はそこで一旦途切れ、窓の方へと視線を向けると、夏の夜風がカーテンを優しく揺らしていた。
だが、頭の中でプールという単語が浮かんだ瞬間から、俺の思考回路の片隅には、どうしようもなく男子としてのリアルな妄想がざわめき始めていた。
プール。それはつまり、水着だ。
もちろん、口に出してそんなことを言うつもりは毛頭ない。
けれど、冷静に考えてみてほしい。
あの七条芹愛や、底抜けに明るい羽川祈が、プライベートなウォーターパークで一体どんな水着を着て現れるのか。スタイル抜群の彼女たちの水着姿を想像するなと言う方が無理な相談だった。
芹愛のあの端正な顔立ちと、見紛うことなきグラマラスなスタイルの組み合わせ……。それに、あの羽川の健康的なスタイル……。
想像しただけで、背中に変な汗が流れそうになる。
もしそんな姿を目の当たりにしたら、俺の精神力がどれほど持つことか。自制心を保てる自信が全くない。
チラリと、目の前で麦茶を飲む七条の姿を盗み見る。
普段は制服や清楚な私服に隠されているその身体のラインが、もし夏空の下の水着に包まれたなら──。
「……どうかしたの、稲葉君? そんなにじっと見て……顔が赤くない?」
急に視線を感じたのか、七条が首をかしげながら不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
至近距離に見える整った顔立ちと、瑞々しい肌。俺は思わず慌てて視線を逸らした。
「な、なんでもない! ちょっと部屋が暑い気がしてな!」
「こんなに風が涼しいのに? 変なの」
七条は呆れたようにくすくす笑い、それ以上追究してこなかった。助かった……と心の中で深く息を吐き出す。
そして、その日の夜。
いつもの身体の交わりで、七条のグラマラスな水着姿を脳裏に思い浮かべていたのは言うまでもない。




