第15話 倒れる瑞姫、見知らぬ救い手
暦の上ではすでに七月に入り、梅雨の湿った気配はどこかへ追い払われるように、街は本格的な真夏の太陽の下へと投げ出されていた。
アスファルトの路面はジリジリと焦げ付くような熱を放ち、視界の隅で陽炎がゆらゆらと揺らめいている。まるで世界全体が巨大なオーブンに放り込まれたかのような、容赦のない猛暑日だった。
駅前の喧騒から少しだけ外れた裏通り。静かな佇まいを見せる隠れ家風の喫茶店『ライムノート』のテラス前で、俺は、額に滲む汗を無造作に手の甲で拭いながら、黙々と掃き掃除を続けていた。
「はあ……暑すぎんだろ、これ……」
呟いた声は、夏の灼熱の中にすぐにかき消されていく。
普段の学校生活では、できる限り目立たないように、周囲の景色に溶け込むような陰キャモブ男子として息を潜めている俺だが、週末のこの時間帯だけは違う。
この『ライムノート』で、マスターである叔父の厳命によってしっかりと身なりを整え、シャキッとした店員として働いている。
伸び放題の前髪は整髪料できっちりと上げられ、額を露出させた精悍な顔立ちは、学校の友人たちが見たら一瞬言葉を失うほどの別人仕様になっていた。
そんな俺が、制服のシャツの襟元を少し緩め、地面に水を撒こうとホースを持ち上げた、その時だった。
ふと、視界の端に、通りの向こう側からフラフラと頼りない足取りで歩いてくる一人の人影が映った。
青いロングスカートに、清楚なブラウス姿。
しかし、その歩き方はお世辞にも正常とは言えなかった。
まるで足元に重りがついているかのように、あるいは泥の中を歩いているかのように、一歩一歩がひどく重く、身体全体が左右に大きく揺れている。
あれは……?
目を凝らして見つめる。
太陽の光が強烈すぎて視界が歪むが、見間違えるはずもなかった。
気高く、いつでもトゲのある孤高のオーラを纏い、背筋をピンと伸ばして歩いているはずのクラスメイト──七条瑞姫だった。
だが、今の彼女はいつもの面影がないほどに弱りきっていた。
顔面は血の気が完全に引いて真っ青であり、唇はカサカサに乾いている。呼吸は浅く荒く、その瞳には焦点が定まっておらず、いつアスファルトの上に崩れ落ちてもおかしくないほどの限界を迎えていた。
おいおい、嘘だろ……。あいつがなんでここに……。
一瞬、俺は足を止めて迷った。
この格好で声をかけるべきか、それとも店の中から誰かを呼ぶべきか。
いや、今の瑞姫の様子はそんな悠長なことをしている暇すらない。彼女は今まさに、おそらく熱中症で意識を手放そうとしている。
しかし、同時に冷徹な理性が頭をもたげる。
忘れるな。今の俺は『ライムノート』の店員であり、彼女のクラスメイトである稲葉奏介じゃない。学校では目立たないように身を隠し、週末だけ別の顔を持つモブ男子だ。
ここで下手に関わって、もしあの時の店員として正体がバレでもしたら、せっかく築き上げた平穏な高校生活のバランスが音を立てて崩れ去ってしまうかもしれない。
脳裏に、先日羽川に喫茶店のことを感づかれた記憶がよみがえる。
でも……見捨てられるわけないだろ!
理性を恐怖が引き裂くよりも早く、俺の身体が勝手に動き出していた。
ホースを放り投げ、アスファルトの熱気を蹴散らすように、俺は瑞姫のもとへと走り出した。
「あの、お客さん……っ! 大丈夫ですか……!?」
瑞姫のすぐ傍らに駆け寄り、できるだけ店員らしい、低く落ち着いたトーンを作って声をかける。
もちろん、学校で話す時の稲葉奏介の気弱な声色とは完全に変えている。前髪を上げ、顔の印象も変えているこの姿なら、俺が同一人物だとは気づかないはずだ。
「……え……?」
瑞姫はかすかに瞼を持ち上げ、虚ろな目で俺を見上げた。
その瞳には、目の前に立つ人間が誰なのかを認識する力すら残っていないらしかった。
彼女は乾いた唇を微かに震わせ、何かを言おうとしたが、言葉にならない息継ぎのような音漏れがしただけだった。
「……あ、れ……? 私……」
次の瞬間、瑞姫の膝からガクリと力が抜けた。
完全に意識が途切れたのだろう。彼女の身体が、そのまま前のめりに固いアスファルトの地面へと倒れ込もうとする。
「っと……危ねぇっ!」
俺は咄嗟に両手を伸ばし、倒れかけてきた瑞姫の華奢な身体をしっかりと抱き止めた。
想像していた以上に、彼女の身体は軽く、そして熱かった。絹のように滑らかな黒髪がふわりと揺れ、彼女の纏うほのかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。
だが、そんな感傷に浸っている暇はゼロだった。触れた肌越しに伝わってくる熱さは、尋常なものではなかった。
やっぱり、重度の熱中症だ……! このままだと本気でやばい!
直射日光が照りつける店の前で立ち尽くしているわけにはいかない。
俺は周囲をちらりと見渡し、通行人がいないことを確認すると、意識を失った瑞姫を抱きかかえるようにして、『ライムノート』の重い木製の扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ……って、おい、奏介!? どうしたんだその子は!」
カウンターの奥から顔を出したマスターである叔父が、目を丸くして声を荒げた。
「マスター、すいません! 外で倒れかけてた客です! 熱中症みたいだから、バックヤードで休ませます!」
「お、おい、大丈夫なのか!? 救急車呼ぶか!?」
「まだそこまでじゃ……まずは身体を冷やして様子を見ます。冷たい水と、スポーツドリンク、あと濡れタオルを持ってきてください!」
「わ、わかった! 任せたぞ!」
マスターの慌てた返事を背中に聞きながら、俺は瑞姫を抱えたまま、冷房の効いた涼しいバックヤードへと急いだ。
§
バックヤードの隅にある簡易ベッドに、瑞姫の身体をそっと寝かせる。
クーラーが効いた部屋の空気が心地よく肌を撫でるが、瑞姫の呼吸はまだ荒く、額には大粒の汗がびっしりと滲んでいた。
「っ……ふぅ……」
俺は持ってきた濡れタオルを彼女の額に優しく当て、さらに首筋や脇の下といった太い血管が通っている部分を冷やしていく。冷気に触れた瞬間、瑞姫は微かに身を震わせ、苦しげな表情をわずかに和らげた。
「おい、水、持ってきたぞ……って、まだ意識は戻ってないか」
マスターが心配そうな顔で冷えたスポーツドリンクとグラスを持って入ってきた。
「ありがとうございます、マスター。あとは俺が看ますから、表の店番に戻っていてください。常連さんが来たら困るんで」
「お、おう……分かった。何かあったらすぐ呼べよ」
マスターは心配そうに一度瑞姫の顔を覗き込んだ後、静かに部屋を出ていった。
ガチャリ、とドアが閉まる音が響く。
二人きりになった静かなバックヤードで、俺はパイプ椅子を引っ張ってベッドの横に腰掛けた。
ぐったりと眠る瑞姫の顔を、間近でじっと見つめる。
学校では、いつも周囲を寄せ付けないような冷徹な眼差しを向け、気高く、尖っていて、誰も近寄れないようなオーラを纏っている彼女の、こんなにも無防備で、どこか儚げな寝顔など、学校の誰も見たことがないはずだ。
普段あんなに突っ張ってるくせに……一人でこんな炎天下をフラフラ歩いてるからだろ。不注意なやつだな。
心配と呆れが入り混じった溜息をつきながら、俺は彼女の額からずり落ちそうになった濡れタオルを丁寧に整え直した。
その時、ふと彼女の右手が微かにぴくりと動き、俺の袖の端をキュッと掴んだ。
「……ん……っ……」
「おっ、気がついたか?」
瑞姫の長い睫毛がゆっくりと震え、重たそうにその瞳が開かれた。
最初は見慣れない天井とバックヤードの殺風景な景色に戸惑っているようだったが、すぐに視線が俺の方へと向けられた。
「……ここは……?」
掠れた、か細い声。いつも学校で耳にする、尖った冷たさのある声とは全く違う、ひどく頼りない少女の声だった。
「目が覚めたか? ここは俺のバイト先のバックヤードだ。お前、店の前でいきなり倒れたんだぞ。全く、無茶すんなよな」
俺が少し苦笑交じりに言うと、瑞姫は混乱したように目をしばたたかせ、それから自分の身体を起こそうと上半身を起こした。
だが、まだめまいが残っているのか、フラリと身体が揺らぐ。
「っ……!」
「おい、無理すんなって。まだ血圧が安定してないんだから、じっとしてろ」
俺が慌てて肩を支えると、瑞姫はビクリと身体を震わせ、気まずそうに顔を赤らめた。
「え……って、あれ……?」
彼女は自分の額に当てられていたタオルに気づき、さらに俺の顔をじっと凝視した。
前髪を上げて額を出し、喫茶店の制服を着た俺の姿。
「き、君は……? 私を助けてくれたの……?」
瑞姫の瞳が驚きに見開かれる。
「あ、あー……まあ、偶然な。はい、これ、水分補給しろ。脱水症状になってるから」
俺がグラスに注いだスポーツドリンクを差し出すと、瑞姫は気まずそうに、しかし喉の渇きには勝てないといった様子でそれを両手で受け取り、こくんこくんと慎重に飲み干した。
「……ぷはっ……。あ、ありがとうございます……」
冷たい液体が喉を通ったことで、彼女の顔色にようやく少しだけ血の気が戻ってきた。
瑞姫はグラスをテーブルに置き、改めて俺の顔を見つめ、深々と頭を下げた。
「あの……本当に、助かりました。私、気がついたら足元がフラフラしてて……気づいたらここに……。もしあなたが助けてくれなかったら、私、路上で倒れてもっとひどいことになってたかもしれません……」
「いや、無事で何よりだよ。夏なめんなよ、本当に。日傘も差さずにあんな炎天下歩いてたら、誰だって倒れるっての」
「う……返す言葉もありません……」
瑞姫はバツが悪そうに視線を泳がせ、小さく肩を縮こまらせた。
学校で見せるあの威圧的なトゲトゲしさはどこへやら、今の彼女は、怒られてしおらしくなった子猫のようだった。そのギャップに、俺は内心で苦笑せざるを得なかった。
「あの……」
しばらく沈黙が流れた後、瑞姫はおずおずと顔を上げ、俺の目を見つめた。
「私、まだあなたのお名前を聞いていません……。その、こんな風に助けてもらったのに、名前も知らないなんて失礼ですし……教えてもらえますか?」
その問いかけに、俺の心臓がほんの一瞬だけ跳ね上がった。
名前を教える?
ここで「稲葉奏介です」と名乗ってしまえば、彼女の中で喫茶店のイケメン風店員とクラスメイトの陰キャモブのパズルピースがカチリと噛み合ってしまうかもしれない。
そうなれば、学校に戻った時にどんな面倒なことになるか予測がつかない。変な弱みを握られたり、面倒な詮索をされたりするのはごめんだった。
だが、今さら偽名を名乗ったり、不自然に隠したりするのもなんだか不誠実な気がした。
まあ、いっか。ここで名前を言ったところで、彼女が学校の俺と结びつけるとは思えないしな……。
俺はふうっと小さく息を吐き、覚悟を決めたようにまっすぐ瑞姫の瞳を見据えた。
「俺の名前は、奏介だよ。苗字は……まあ、今はただの『奏介』ってことで」
「奏介さん……」
瑞姫はその響きを口の中で転がすように味わうと、ふっと表情を緩め、これまでに見たこともないような、どこか柔らかくて、心底ホッとしたような美しい笑みを浮かべた。
「奏介さん。今日は、本当にどうもありがとうございました」
瑞姫はベッドからゆっくりと立ち上がり、もう一度、今度は衣服の乱れを正すようにして、深く、丁寧にお辞儀をした。
その一礼には、彼女の育ちの良さと、真摯な感謝の気持ちが痛いほどに込められていた。
「もう身体の具合は大丈夫か? まだフラつくなら、もう少しここで休んでいってもいいんだぞ」
「いえ……だいぶ楽になりましたし、これ以上奏介さんのお仕事の邪魔をするわけにはいきませんから……。それに、そろそろ帰らないと、家でも心配されちゃいますので」
そう言って瑞姫は苦笑いを浮かべた。
先ほどまでの青白かった顔色はすっかり消え、いつもの凛とした美しさが戻りつつあった。
「そうか。無理は厳禁だぞ。帰りもフラフラしたらそこらへんの陰で休めよ」
「そんなに子供扱いしないでください。もう大丈夫ですから」
瑞姫はバッグをしっかりと肩に掛け、バックヤードの出口へと向かった。
そして、ドアノブに手をかけたところで一度振り返り、名残惜しそうに、けれどしっかりと俺の目を見て言った。
「奏介さん、今日の恩は、いつか必ず……。本当に、ありがとうございました」
「おう、気をつけて帰れよ」
ガチャリ、と扉が開き、瑞姫は室外へと歩き出していった。
彼女の背中を見送りながら、俺はふうっと大きく息をついた。
「ふう……なんとかバレずに切り抜けた……のか?」
首を捻りつつ、俺は冷え切ったグラスを片付け、再び表の掃き掃除に戻るため、バックヤードを後にした。




