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第9話:葵の逃亡記録

 鳴海葵が初めて“記録の外”を意識したのは、17歳の春だった。


 当時、彼女は都市第4区の高等遺伝研究学園に所属していた。成績は常に上位。問題行動もなく、定期検診のスコアも優秀。


――つまり、都市にとって“理想的な適合者”だった。


 だがその年、春の適合検査で異変が起きた。


「鳴海葵様、本日の脳波解析において、規定値を超える共鳴パターンが観測されました。再スキャンを行いますので、そのままお待ちください」


 そう告げた検査官は、微笑みながらもどこか無機質だった。まるでそれが、既に決められた“手順”であるかのように。


 再スキャンは5回に及んだ。通常なら1回5分で終わるはずの検診が、40分以上続いた。


 その後、葵は“別室”へと案内された。


 部屋は、白すぎた。壁も床も、天井も。すべてが白で塗り潰されていた。

音もなかった。冷気だけが肌を刺すように漂っていた。


 そこに現れたのは、名札のない白衣を着た女医だった。


「あなたは、通常の適合基準からわずかに逸脱しています。けれど安心してください。これはごく一時的なものです。少しだけ、追加の検査を行います」


 女医の声は穏やかだったが、瞳は冷えていた。


 その日から、葵の日常は急速に“制御”されていく。


 講義科目の一部が変更された。自由選択科目の中から、「生体遺伝学」「人工知能倫理」などが強制的に除外された。交友関係も、ある日を境に変化した。親しかった友人が突然転校させられ、代わりに“監視役”とおぼしき生徒が隣の席に座るようになった。


 何より、夜になると必ず届く“自己診断フォーム”。睡眠の質、夢の有無、心拍の変動、思考パターンの記録。それらを毎晩記入しない限り、就寝許可が下りない。


「これは、管理ではありません。予防です。あなたの安全のために」


 形式上は“保護”だった。だがその実態は――“記録という名の拘束”だった。


 葵は、反抗しなかった。最初のうちは、まだ“自分が異常なのかもしれない”という罪悪感があったからだ。


 だが、ある夜――彼女の夢の中に、“印”が現れた。


 それは、燃えるように赤い蝶だった。


 何もない空間に、ただ一匹だけ浮かぶ蝶。そしてその羽には、幾何学的な模様と、微かに“文字”のようなものが浮かんでいた。


《記憶は、記録を超えて生きる》


 夢の中で、誰かがそう囁いた。


 翌朝、目覚めると、自室の鏡に“その蝶の模様”が描かれていた。


 まるで、無意識のうちに自分が指でなぞったかのように。それを見た瞬間、葵の中で何かが“崩れた”。


(私は、都市の外に出なければならない)


 逃亡の計画は、葵にとって自然な流れだった。


 まず、学内ネットワークに侵入して、行動ログを“正常値”に偽装するプログラムを作った。次に、退去申請書を偽造し、“第9区検査施設への転籍”を装って転送命令を捏造。都市AIノウスのロジックには逆らわず、“それっぽく見せる”だけで十分だった。


 問題は、物理的な脱出だった。


 都市の出入り口はすべてスキャンと認証によって制御されており、通常のIDでは外部アクセスはできない。


 葵が使ったのは、**「一度も使われなかった死者のID」**だった。

 そのIDは、本来“存在してはいけないもの”だった。


 彼女の兄――鳴海圭吾は、出生から数日後に亡くなったとされていた。だが、出生時のID登録だけは行われており、物理的には“存在していた”。


 そのIDに、葵自身の偽装情報を“上書き”した。


 準備には2ヶ月かかった。


 そして、その夜。葵は都市第3ゲートに立っていた。


「IDスキャン開始。……照合中……」


 一瞬、表示が止まった。


 心臓が跳ねる。


(……やばい)


 次の瞬間、別の識別コードが画面に一瞬だけ走った。


 だが――


「……認証完了。アクセス承認」


 ゲートは、ゆっくりと開いた。


 誰も止めなかった。誰も疑わなかった。


 その瞬間、彼女は“都市の記録”から消えた。


 外の世界は、想像以上に“静か”だった。


 音があった。

 それが、何よりも異様だった。


 風の音がした。虫の声が聞こえた。空は濁っていたが、どこまでも広かった。


 葵は泣いた。理由もなく、ただ、涙が溢れた。


(ああ……生きてる)


 そう実感した。


 彼女は、もう記録されない。だが、それは“死”ではなく、“始まり”だった。


 その夜、彼女は焚き火を囲む“非記録者”の一団に出会った。


 彼らは誰も、名前を名乗らなかった。だが、誰もが“印”を持っていた。

 そして――誰ひとり、過去を語らなかった。

 まるで、それを口にした瞬間に“消えてしまう”かのように。


 彼女はその輪に加わりながら、かつて父から聞いた言葉を思い出していた。


――「記録は消える。でも、記憶は、生き延びる」

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