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第8話「眠れる因子たち」

 都市には「異常者」という概念が存在しない。

 少なくとも――“記録の上では”。


 生まれた瞬間から「適合者」として遺伝子設計され、月ごとの検診と行動モニタリングによって逸脱は徹底的に排除される。


 しかし、その朝、翼が都市保安局の未公開サーバに接続したとき、存在しないはずのファイル群が目に飛び込んできた。


【適合障害・定期報告リスト(CLASSIFIED)】


 背筋を這い上がる冷たい感覚。震える指でスクロールすると、症例が次々に並んでいた。

•被験者α013:就寝中、「赤い鳥が燃えてる」と叫び、記録ログを遮断

•被験者β209:スカイレール内で幻視発言、映像には異常なし

•被験者δ031:母親の“死の瞬間”を繰り返し再生すると証言(当該記録は存在せず)

•被験者ζ042:AI記録に存在しない出来事を「覚えている」と証言


(……記録されない記憶)


 その共通項が示されていた。


【共通因子:E.D.E.N-pr1/2系統(通称:因子α)】


 翼は心臓を握られたような息苦しさを覚えた。自分の脳波検査で指摘された「微弱変動数値」が、この因子のコードと完全一致していたからだ。



 午後、端末に一通の匿名メッセージが届いた。


「あなたの中の“印”を見ました。私も同じです。今夜19時、中央記録塔の旧搬入口で会えませんか。名乗ることはできませんが……あなたと話したい。」


 添付されていたのは、一枚の折り紙の羽の画像。虹色の光沢を帯び、翅脈のようなデータパターンが走っていた。


(……罠かもしれない)


 翼は一度は削除しかけたが、父の声が脳裏に蘇る。


――「人は“記録”よりも、直感を選ぶときがある」



 夜、中央記録塔の裏側に立った。物流拠点として使われなくなって久しい旧搬入口は、都市の監視網から外れた“空白”だった。


 重い鉄扉が軋む音を立てて開く。現れたのは、白いフードを深く被った人物だった。顔は影に沈み、性別すら判別できない。


「……来てくれたんですね」


 低くかすれた声から、性別は女性だと分かる。翼は警戒を隠さず問う。


「君は……誰だ?」


「名乗ることはできません。でも、あなたと同じ“印”を持っている」


 フードの人物は袖を少しだけまくり、淡く白い痕を見せた。火傷にも似たその痕は、人工照明では可視化できないはずのものだった。


「……見えるんですね?」


「……ああ」


 翼が頷くと、フードの人物は小さく息を吐いた。


「やっぱり。なら、ここじゃ話せません。ついてきて」



 記録塔の脇に隠された階段を降りる。旧搬送トンネルは、都市の監視網の“目”が届かない領域だった。


 冷気が肌を刺す。奥に進むと、小さな保守管理室が現れる。埃をかぶった端末と、積まれたままの紙資料。今の都市では滅多に見ない“アナログ”が息を潜めていた。


「ここなら、電波も薄い。監視されにくいはずです」


 フードの人物は、机に置かれた古い端末を起動した。ディスプレイが低い駆動音を響かせると、緑がかった文字列が浮かび上がる。


【適合障害・被験者拡張リスト(断片)】


 翼は覗き込む。

•被験者η077:定期診断後、三日で所在不明。未回収

•被験者θ113:幻視・幻聴を訴えた直後、ログ強制消去

•被験者RW-01:隔離済。覚醒反応テスト実施中


(RW-01……レイのことか?)


 フードの人物が小さく頷いた。


「この都市はすべてを“記録”する。でも……E.D.E.N因子保持者だけは、例外なんです」


 翼は問う。


「例外?」

「……記録より、曖昧なものに?」


「違う」

 フードの人物は首を振った。


「曖昧なんじゃない。“消されない”んです」



 ふと、端末の左上が点滅した。表示されたのは、一枚の静止画だった。


 若い頃の父、真田宗一郎の横顔。その下に、断片的な手書きメモが添えられている。


「E.D.E.N計画第2期:RW-02への継承段階移行。データではなく、記憶としての伝達を優先。“記録されない感情”はE.D.E.Nの中でのみ保持可能」


 RW-02――自分だ。


 そのとき、管理室全体が微かに震えた。蛍光灯が一度、明滅する。


 フードの人物が顔を上げる。


「……時間がない。ここも、もうすぐ“目”に見つかる」


「目?」


「都市の監視AI、ノウスの補助視覚。本来は届かない場所なのに、誰かがトレースを延長してる」


 画面の端に、一瞬だけ“羽のようなパターン”が走った。

 あの折り紙と同じ――“現実には存在しない光沢”。



 二人は保守室を出て、裏通りを駆けた。人感センサーをすり抜け、地図に載らない歩道を進む。


 走りながら、フードの人物が息を切らしつつ呟く。


「“存在しない人々”って知ってますか?」


「……非記録者のことか?」


「名前はどうでもいいんです。都市の統計に含まれず、監視網にも載らない者たち。“存在しない”ことで、生きてる」


 詳しい説明はしない。だが、その存在だけが薄い影のように翼の胸に残った。



 自宅に戻った翼は、端末をシャットダウンし、机の奥から小さなレコーダーを取り出した。父が遺したメッセージの断片。再生ボタンを押すと、短いノイズの後、かすれた声が流れた。


「翼……“記録”は嘘をつかない。だが、“記録されないもの”こそが未来を決める。鍵は……お前の中にある。」


 その声が途切れると同時に、窓の外で輸送ドローンが低く旋回した。


 胸の奥で、何かがはっきりと動き始めていた。


 封鎖サーバーからログアウトしたあとも、翼の胸はざわついていた。記録省の高層フロアは無機質な白光に包まれているはずなのに、その中で自分だけ別の空気を吸っているような孤立感があった。


 ミラージュの音声は静かだった。

 同僚たちも、いつも通り端末に向かっている。


――だが、その光景の中に、“自分だけが存在していなかった”。


(“監視不能”……都市の記録が追えない人間が、存在する?)


 それは、この社会の根幹を揺るがす事実だった。父の死、夢に現れる少女レイ、そして都市が必死に隠そうとする「眠れる因子」。それらの線が、まだ形を持たないまま胸の奥で絡み合っていく。


――そして、視線を感じた。


 ふと振り返ると、通路の端に立つ青年の影が目に入った。端末を操作しているように見えるが、指は動いていない。


 それでも、端末の画面だけがわずかに反応していた。


 視線だけが、確かにこちらを射抜いている。


 青年は、何も言わずに立ち去った。残された翼は、ただ小さく息を呑む。


(……俺はもう、“記録の中の人間”じゃいられない)


――いや、“記録される側”ですらないのかもしれない。


 胸の奥に、あの羽のイメージが焼き付いて離れなかった。

 その視線だけが、いつまでも消えなかった。

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