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第7話「記憶の中枢」

 午前5時半、まだ外が暗いうちに翼は出勤した。


 その足で向かったのは、都市第三区の資料保管所――政府直轄の旧記録管理局だ。


 表向きは、すべての物理記録がデジタル化されたはずの施設。だが、内部にはまだ“廃棄されていない旧式媒体”が残されているという噂があった。


 静かなロビー。受付AIに職員認証を通す。


「真田翼様、予約は確認されておりません。ご用件は?」


「第12アーカイブ室、保護者ID:宗一郎・S-1207に紐づく物理記録を確認したい」


「……確認します」


 数秒後、AIの声が変調した。


「申し訳ありません。該当記録は封鎖中です。アクセスには特別許可が必要です」


「特別許可とは誰から?」


「都市記録管轄・中枢AIユニット“ノウス”の承認が必要です」


 都市管理の最上位AI――ノウス。

 つまり、“誰にも触れさせない”ための仕組み。


 ロビーを後にした翼は、資料館裏の地下階段へと向かった。


 正式ルートではアクセスできないアーカイブが、地下保管庫には残っていると父からかすかに聞かされた記憶がある。


 暗く、埃に包まれた地下回廊。センサは一部が作動しているが、照明は最低限。


 その奥に、無人の端末があった。


 古いキーボード。手動のカードスロット。まるで時代錯誤の遺物のような設備。


 翼は、昨夜拾ったレコーダーに保存されていたアクセスキーを接続した。


「認証中……ID:RW-02、認証完了」


 画面が起動する。表示されたのは、E.D.E.Nと刻まれたロゴと、いくつかの記録ラベル。


 その中に、ひとつだけ青い点滅があった。


【MEM-LOG 02-R:観察記録/被験体RW-02】


 自身の記録。


 震える指で、それを開いた。


 映像が再生される。


 薄暗い観察室。中央に置かれたシートに、小さな少年が一人。


 それは――明らかに、幼い頃の自分だった。


 白い服。無表情。腕に巻かれた生体センサー。


 誰かが声をかける。


「RW-02、君はなぜ笑わない?」


 少年は、答えない。


「喜びはどんな形か、わかるか?」


 無言。


 続いて、別の人物が室内に入ってくる。それは……レイだった。


 彼女は迷いなく少年に歩み寄ると、ポケットから何かを取り出して見せた。


――折り紙で作られた、鳥。


 レイはそれを、そっと手渡した。


「これは、“外”にいる鳥。自由って、こういうことだって先生が言ってた」


 少年の手に折り紙が渡されたとき、わずかに、目の奥が動いた。


 それは――“微笑み”だった。


 映像はそこで終わった。


 だが、その一瞬が翼の心に深く焼き付いた。


(俺は、あのとき……“笑って”いた)


 都市に来てから、笑った記憶などほとんどない。そう思い込んでいた。


 だが、真実は違った。


 “感情”すら制限された過去が、自分にはあったのだ。


 記録は語らない。だが、記憶は――確かに、残っていた。


 そして、その記憶を誰よりも“知っている”のは、レイだった。その帰り道、翼は地下通路で一人の人物とすれ違った。


 全身黒のコート。フードを深く被り、顔は見えない。


 が、その瞬間、翼の中に“音”が流れ込んできた。

 外からではない――内側から。


 声ではない。言葉でもない。ノイズのような、記憶の波。


「――RW-02。“記録されざるもの”の価値を、忘れるな」


 振り返ったときには、もう誰もいなかった。


 が、胸の奥で何かが強く脈打っていた。


 その晩、翼の部屋に届いたのは、電子通信ではなかった。物理的な“紙の手紙”だった。


 都市内で紙媒体はほぼ流通していない。配送網もデジタル化されて久しい。だが、その封筒は、確かに誰かの手によって直接投函されていた。


 差出人はなし。表面には、簡素な文字だけが記されていた。


「最後の選択肢は、記録に残せない」


 中には、一枚の紙と、かつての都市構造図。そして、父・真田宗一郎の筆跡で書かれた小さなメモが添えられていた。


「もしこの地図が届いたなら、君はもう記録の外に踏み出す準備ができている。これは“公式に存在しない”都市の中枢、コードネーム【Pillbox】への道だ。ノウスの外にある“記憶の中枢”。君自身がE.D.E.N因子のホルダーであるなら、そこへ辿り着けるはずだ」


“記憶の中枢”


 それはつまり、データではなく“人間の記憶そのもの”を管理・保持する禁じられた領域。


 都市が“すべてを記録する”ことを信条とするならば、【Pillbox】は“記録されないものを保存する”異端の存在だ。


 翌日、翼は意図的に遅刻した。


 指定されたルートを通らず、都市地下に伸びる旧交通管路を辿る。そこはかつて、地下鉄が走っていた時代の遺構。今は封鎖され、誰も近づかない“空白”だった。


 地図を頼りに、無人の通路を進む。やがて、地図上にすら記されていなかった“扉”に辿り着く。


 センサーも鍵もない。ただの古びた鉄扉。だが、その前に立った瞬間、胸の奥で何かが反応した。


「認証中……ID:RW-02」


 聞き覚えのある機械音が、空間に響いた。続いて、ゆっくりと扉が開く。


 中は、完全な無音の空間だった。


 階段を降りると、地下空間が広がっていた。無数の光球が天井に浮かび、空間を柔らかく照らしている。


 壁一面に設置された古い記録装置。書類、テープ、映像フィルム――すべて“記録から排除されたもの”が眠っている。


 中央には、ホログラム式の操作盤。起動すると、光の中から人影が現れた。


「……ようこそ、真田翼」


 それは、父・宗一郎のホログラムだった。

 だが、通常のAI記録とは違う。

 “記憶”そのものを再現した存在だった。


「ここに来るまで、お前は何度も迷っただろう。だが、お前の中に眠るものは、もう覚醒しつつある」


「父さん……これは、なんなんだ。レイは、E.D.E.Nって何なんだ?」


 ホログラムの宗一郎は、静かに語った。


「E.D.E.N因子。それは“記憶を遺伝的に継承する能力”だ。レイは、その初期実験体。お前は、“共鳴体”――彼女の記憶を引き継ぐことができる唯一の存在だ」


「記憶を……引き継ぐ?」


「そうだ。だから、お前の夢の中に彼女がいた。お前が見ていたのは、自分の記憶ではなく、“レイの記憶”だったんだ」


 翼は息を呑んだ。自分が持っていた感覚や夢が、他者の記憶によるものだったと――今、明かされた。


「政府はそれを恐れた。記憶が継承されるなら、人は“学習”ではなく“覚醒”によって進化する。それは、管理不能な未来を意味する」


「だから……レイは?」


「彼女は逃げた。都市の記録からも、自分の記憶からも。

 そして今、お前を目覚めさせようとしている」


 ホログラムが消え、代わりに床の一角が開いた。そこに置かれていたのは、小さなカプセル型の記録装置。その中には、“最後のログ”が記録されていた。


「これは、レイからの最初のメッセージであり、最後の警告でもある。記録は嘘をつかないが、記憶は選ばれる。君がそれを信じられるかどうかが、未来を決める。――レイより」


 再び、彼女の名前が、記録からではなく“声”として響いた。


 帰路、翼は都市の空を見上げた。


 雲一つない青空。完璧に管理された気象。


 だが、その完璧さの中に、ひとつだけ“制御不能な要素”が芽生えた。


 それが、真田翼――“RW-02”。


 そしてその記憶は、記録されないまま、誰にも知られず、だが確かに、都市を揺るがせる“始まり”となっていた。

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