第6話「記録されざるもの」
翼は立ち尽くした。
今、自分の足元で世界が反転しようとしている。
記録にない記憶。記憶されない記録。その狭間に、自分の存在が浮かび上がっている。
そして――“次”が始まろうとしている。
レコーダーから流れた父の声は、間違いなく“真田宗一郎”のものだった。最後に聞いたのは、10年以上前。事故とされる事件の直前――翼に何かを伝えようとしたその口が、動く前に止まってしまったあの記憶。
(父さん……俺は、“選ばれた”のか?)
選ばれた――何のために? 誰に?そして、それは祝福なのか、呪いなのか。
翼は自室の端末に向かい、再びアクセスを試みた。目標は、【E.D.E.N】というワードを含む内部記録への到達。しかし、ミラージュは冷静に答えた。
「その検索ワードは政府指定の制限対象に該当します。現在の認証レベルでは閲覧できません」
「では、申請すれば?」
「該当項目は存在しません。閲覧要求は構文として無効です」
存在しない。構文として無効。
そこに、真田宗一郎はアクセスしていた。彼が何を見て、何を知り、何を残そうとしたのか――今、翼はその背を追いかけている。
翌朝、翼は早朝からオフィスへ出勤した。午前5時過ぎ、まだ誰もいない空のビル。警備AIにアクセスし、フロアを単独使用に切り替える。
ミラージュの監視も解除。照明レベルは最小。窓から見える都市は薄青の光を放ち、静かに息を潜めている。
自席の端末に古いポートを接続し、昨夜のレコーダーを読み込む。中にはもう一つ、隠されたファイルがあった。
【記録:試験観察記録RW-01】
音声ログ・映像記録・DNAスキャンデータ
表示された映像は、薄暗い部屋の内部だった。中央に、少女――レイと思しき人物が、椅子に縛られていた。
だが、その姿にはどこか“現実感の欠如”があった。
音声が再生される。
「被験体RW-01、覚醒反応テスト第5段階を開始。脳波刺激を上限まで引き上げる」
その声は、父・宗一郎のものではなかった。感情のない、事務的な男性の声。
「痛みを伴う可能性があるが、観測優先」
少年は何も言わなかった。ただ、静かに目を閉じたまま、身体を硬直させていた。
その瞬間、画面が一瞬白く光る。
モニターがノイズを起こし、天井の照明が明滅した。
「反応指数、予想値を大きく上回りました! システム再起動を――」
そして、映像は強制終了された。
翼は手を止めた。
(この記録……都市の記録構造とは異なる)
これは“外部”から持ち込まれた記録だった。
政府や管理AIの管理下にない――。
(……自由な記録?)
その考えが、頭の奥に引っかかった。
データを閉じ、レコーダーを再収納しようとしたとき、ふと端末のセンサが点滅した。
――アクセス信号。外部からの接続要求。
接続元は……“不明”。
だが、受信画面にはひとつのメッセージが表示されていた。
「真田翼。君がここまで辿り着いたことは、予定より少し早かった」
画面が白く染まり、その中から映像が浮かび上がる。
黒のコートに身を包んだ男。帽子で顔は隠れているが、年齢は30代後半か。どこかで見たような――いや、“記憶の奥に存在していた”ような。
「君の父、真田宗一郎は、“選択”を迫られていた。政府に残るか、真実を選ぶか。彼は後者を選び、命を捨てた。だが、その意志は今、君に受け継がれている」
翼は、声を発することができなかった。
男は続ける。
「レイは、いずれ君の前に現れる。だがそれは“再会”ではない。あれは“記録”された存在ではなく、“記憶”の中から逃れた者だ」
記憶の中から、逃れた?
男の姿がノイズと共に崩れ始める。
「忘れるな。記録がすべてではない。本当の歴史は、いつも“記録されていないもの”の中にある。
君自身の中にもな」
映像が切れた。
ビルの照明が一斉に点灯した。
まるで、“何事もなかった”かのように。
同時に、ミラージュが再起動し、音声が響く。
「おはようございます、真田様。本日も最適な状態が保たれております」
まるで何も起こらなかったかのように。
だが、翼の中では何かが確かに“始まって”いた。
記録に残らない存在。記憶に残っていない過去。そのすべてが、いま確実に現実へと繋がっていく。
そして、その扉を開ける鍵は――“自分自身”だった。
――夢の中、誰かが泣いていた。
遠く、ガラス越しに響くような微かな嗚咽。湿った空気。金属の匂い。白く光る天井。
翼は、その空間に“子ども”として存在していた。
記憶の一部ではない。これは“体感”だ。皮膚が覚えている。喉の乾き、冷たい床、誰かの手。
その中で、彼は見上げていた。
ガラスの向こうに立つ少女。白い髪。だが、幼く、あのときの“レイ”ではなかった。
「……だいじょうぶ、きみはぼくがまもる」
その言葉は、今のレイには似つかわしくないほど優しかった。だが、その“記憶”は、確かに翼の中に存在していた。
目覚めたとき、心臓が早鐘のように打ち続けていた。
「……まただ」
自分の中に、知らない“誰かの記憶”がある。それが、レイと繋がっているのか、それとももっと“深い何か”なのか。




