第5話「空白の記録」
――都市には、空白が存在しない。
だが、真田翼の人生には“3年間の空白”があった。
それが、この社会の最大の信条だった。個人の記録、会話、表情、移動経路、購買履歴――あらゆるものが“完全に記録され、保存される”。
だからこそ、“空白”は存在しないはずだった。存在してはならなかった。
だが――翼の記録には、それが存在していた。
午前中、データ監査班に配属されている職権を用い、翼は「自分自身の生育記録」を再確認した。
合法的な手順。端末IDは正規認証済み。だが、それでも表示される情報はおかしかった。
【年齢:0歳~3歳】記録なし
【年齢:3歳~5歳】記録圧縮データ
【年齢:6歳以降】正常記録(区画G12-青光育成センター)
最初の三年が“消えて”いた。以降も、5歳までは「圧縮記録」扱いで閲覧できない。
(圧縮? 自分の記録が?)
理由を照会すると、こう返ってきた。
「保護者の意向により、一部記録は第三階層以下の閲覧制限下にあります」
保護者――父、真田宗一郎。
亡くなる直前まで、国家認証科学顧問として政府の中枢にいた人物。だが、事故死とされるその死には、今でも疑念が残っていた。
翼は、父から“多くを教えられなかった”。いや、教えて“もらえなかった”のかもしれない。
その夜、自宅で再び記録を確認していた翼の端末に、突如として“旧仕様OS”が起動した。
画面が一瞬暗転し、続いて表示されたのは、10年以上前に廃止されたインターフェース。
“黒地に緑のテキスト”という古い構成。
その中央に、文字が浮かんだ。
【E.D.E.N SEQUENCE:UNLOCKED】
ACCESS LEVEL:PROTOTYPE-HOLDER
VERIFYING IDENTITY…
…MATCH FOUND
WELCOME BACK, RW-02
全身が凍りついた。
RW-02――?
“RW”とは何の略だ?自分の名前とは無関係なコード。だが、それが“自分”と一致しているという。
「……どういうことだ」
端末のAIは応答しない。ミラージュの音声も沈黙していた。
そのとき、画面の左下が点滅した。
“RETRIEVING FILE: LOG 02-A”
次の瞬間、短い映像ファイルが再生された。揺れるカメラの映像。被写体は、研究施設のような白い無機質な部屋。中央には、幼い少年が一人座っている。
年齢はおそらく5歳前後。無表情。だが、どこか“諦め”を宿した目。
少年の隣には、年長の子どもが立っていた。白い髪。整った顔立ち。冷たい光を宿した目――レイ。
「……また逃げるの?」
少年の声が、微かに響いた。
「逃げるんじゃない。ここから出す」
「でも、先生たちが……」
「関係ない」
映像が、ノイズと共に途切れた。
翼は立ち上がった。
今見たものは――何だ?あの少女。レイ。そしてもう一人の“幼い自分”。
映像内の部屋は、確かにどこかで見た記憶がある。病室のようで、だが、普通の施設ではない。
(研究施設……?)
自分は、“そこ”にいたのか?幼少期の空白は、その中に“押し込められていた”のか?
E.D.E.N。それは単なるコードではない。人間の過去――記憶――存在そのものを、選別するための“鍵”なのだ。
その夜、居室の外でわずかな足音がした。スキャンには引っかからない。ログにも残らない。だが、確かに“誰か”がいた。
モニター越しに、廊下のセンサーカメラを確認する。
画面に一瞬だけ、人物の影が映った。
黒いコートの男。深く被ったフード。そして、手に何かを持っている――
小さな、古びたオーディオレコーダー。
“物理媒体”。
この都市では、もはやほとんど使われない“記録方法”。
その人物は、レコーダーをそっと地面に置き、こちらのカメラを見上げる。そして――指を一本、唇に当てた。
“静かに”。
“言うな”。
“見ている”。
その意志だけが、画面越しに伝わってきた。
次の瞬間、映像は一瞬だけ暗転し、再起動した。そこに影の姿はもうなかった。
翼はドアを開け、無人の廊下に出た。
そこには、確かにレコーダーが落ちていた。
拾い上げる。電源を入れると、小さな機械が低く唸り、再生が始まった。
そこから流れてきたのは――聞き覚えのある声だった。
「……翼、お前がこれを聞いているなら、私はもういない」
父の声。
「この都市が“完全である”というのは、嘘だ。本当は、“選ばれた存在”を使って、未来を維持している。お前も、その一人だ」
翼は息を呑んだ。
「E.D.E.N因子。それは、人間の“記憶の遺伝子”だ。過去の記録ではなく、未来を選ぶ力。だから、政府はそれを隠そうとした。だが私は、誰かが真実を継がなければいけないと信じた」
レコーダーの音が、徐々に乱れ始める。
「……レイは、もう動き出している。彼は“鍵”だ。そして、お前もまた――」
音声が、ぶつりと途切れた。




