第3話「夢の残り香」
朝、翼は“夢の残り香”で目を覚ました。
かつて「自由」と呼ばれたものは、もうこの都市には存在しない。遺伝子は出生前に最適化され、感情はAI〈ノウス〉――都市全体を統制する中枢管理システムの監視下に置かれた。
記録がすべてを決める時代――誰もが「適合者」として生まれ、「逸脱者」として消える。それでも、ごく一部の者たちは、まだ“夢”を見ていた。
真田翼も、その一人だった。
この都市では、夜明けはただの“運転開始”にすぎない。
午前五時、真田翼は目覚ましもなく目を開けた。体内時計ではない。居住AI「ミラージュ」が管理する生体リズムに従っているだけだ。
「おはようございます、真田様。睡眠評価82点。異常なし。夢記録はノイズ領域です」
壁面のスクリーンが覚醒を検知して点灯する。白を基調とした室内に調整済みの空気が流れ込み、残りかけた眠気を奪っていった。
「夢……見たのか?」
「はい。脳波ログに微細なREMピークを検出しました。映像化しますか?」
「いい。忘れた夢なら、それで十分だ」
起き上がると、地面から微かに足が浮くような、軽い違和感があった。鏡に映るのは見慣れた顔。均整の取れた骨格、整った肌質、標準的な髪型。都市が遺伝子レベルで設計した「良質構成員」の典型的な外見だ。
だが、目の奥だけはわずかに濁っている。その不調を自覚しているのは自分だけでいい。この都市では、心の乱れを悟られることが最も危うい。
標準スーツに袖を通し、居住ユニットを出る。移動は秒単位で最適化されているため、廊下で誰とも鉢合わせない。エレベーターは乗員のバイタルを自動確認し、目的階を勝手に決定した。
1階ロビーに降りると、無音で開く自動扉の向こうに青白い空が広がっていた。気象庁AIが制御する本日の天候設定は「高湿度・低紫外線モード」。気温21.3度、湿度53%、風速0.2m/s――無機質なフォントがデータを告げるが、通行人は誰ひとり視線を向けない。
スカイレールの乗降区画に立ち、翼は自動スキャンに指先をかざした。今日の目的地は中央検診タワー。ほぼ無音で到着した車両に乗り込むと、車内はすでに多くの乗客で埋まっていた。
誰もが同じ方向を向き、同じ姿勢で沈黙している。全員がイヤーデバイスを装着し、政府認可のBGMが静かに流れていた。
そのとき、不意に背後から囁くような声がした。
「ママ、この人……“しるし”ある?」
翼の心臓が、一拍だけ遅れた。
「やめなさい、そんなこと言わないの!」
母親の小さな叱責が続き、声は途切れる。だが、“印”という言葉だけが、翼の胸に引っかかり続けた。
それは都市で囁かれる禁句だった。公式な用語ではない。定義もされていない。だが、人々は知っている――「印」を持つ者は消える、記憶を失う、と。
翼は胸元に手を当てた。心拍は正常。だが、“異常はない”という事実こそが、逆に不安を煽った。
スカイレールが中央区を抜けると、窓の外に“空白区画”が現れる。かつて工業施設が密集していたが、長年「再開発中」のまま放置されている地帯だ。空を黒い輸送ドローンが横切るが、その行き先は地図には載っていなかった。
都市は沈黙している。しかし、その沈黙は秩序ではない――何かを「封じた重さ」だった。
「次の停留所は、中央検診タワー前です」
無機質なアナウンスが流れる。だが、その音声にはなぜか“湿り気”のようなものが混じっていた。
中央検診タワー。都市の心臓部とも呼ばれる建造物だ。純白の外壁は昼夜を問わず発光し、都市の「無菌性」を象徴している。
自動ゲートを通過しようとした瞬間、顔認証が弾かれた。
「認証エラー。再スキャンをお願いします」
周囲の視線が一瞬だけ集まった気がして、背中に汗が滲む。すぐに係員が近づき、柔らかな声で案内した。
「失礼しました。照明の関係で認証が乱れたようです。こちらへどうぞ」
眼差しは笑っていない。無言のまま再スキャン装置の前に立つと、すぐに「再認証完了」と表示された。
(照明の関係、か……)
納得できないまま、翼は診察フロアへと足を進める。
C-12診察室。担当医は30代後半の女性で、白衣の下にグレーの防静電スーツを着ていた。視線はまっすぐで、しかしどこか“構え”を感じさせた。
「おはようございます、真田様。定期診察ですね。体調はいかがですか?」
「変わりありません」
「AIの診断ログも問題なしです。ですが――」
医師は言葉を切り、タブレットに視線を落とした。
「脳波に、通常とは異なる周波数の波形が散見されました。追加検査をお願いします」
翼の胸に、小さな緊張が走る。拡張検査室は診察フロアのさらに奥にあった。銀色の円形装置に腰を下ろすと、スキャナーアームが周囲を囲む。
「意識を保ったまま、リラックスしてください」
検査が始まった瞬間、視界が淡く染まった。
――焼け焦げた草原。
空は澄んだ青。その中央に、白髪の少女が立っている。
年齢は十歳ほど。背を向けているが、確かに“何か”を知っている気配があった。足元には金属の残骸と崩れた施設の跡――だが、それは生き物のようにも見える。
「……レイ……?」
自分の声ではない誰かの声が漏れた。
「検査終了します」
医師の声で現実に引き戻される。医師は平静を装っていたが、その瞳の奥に“困惑”が滲んでいた。
「異常はありません。結果は近日中にデータベースに反映されます」
翼は小さく頷き、タワーを出た。だが、都市の光景はもう、以前と同じには見えなかった。中央広場の広告パネルが、鮮やかなフォントで告げていた。
「未来は選ばれる。あなたは、選ばれていますか?」
そして、その下に小さく添えられた文字。
“印の検出は、早ければ早いほど有効です”
翼は、無意識に胸元を押さえていた。
――そこに、“何か”がある気がした。
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