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第2話「選別」

「判定結果:特異遺伝因子、該当なし。」


「編集処置、完了」


 無機質な機械音声が、消毒液の匂いが満ちる人工子宮室に響き渡った。ガラスケース越しに、まだ形成途中の小さな胎児が静かに眠っているのが見える。その様子を、白衣に身を包んだ医師が淡々と見守り、隣に立つ若い夫婦は息を詰めるように結果を待っていた。医師が頷き、安堵の表情を浮かべた夫婦は、互いの手を強く握り合った。まるで、人生最大の難関を乗り越えたかのように。


 現代社会において、胎児の遺伝子診断とそれに続く編集処置は、もはや呼吸をするのと同じくらい当たり前の行為となっていた。政府が厳格に定めた基準に則り、将来的に犯罪や反社会的な行動に繋がる可能性のある危険因子――通称「不安定因子」は、生まれる前に徹底的に削除される。攻撃性や情緒不安定性といった「望ましくない」遺伝子は、最新のバイオテクノロジーによって精巧に除去・修正されるのだ。


 それは、国民誰もが疑問を抱かない「常識」だった。


『不安定因子なき、より安定した社会の構築』


『国民一人ひとりが、その能力を最大限に発揮できる理想的な未来』


 ニュース、教育プログラム、街頭のホログラム広告――あらゆる場所で繰り返し謳われるスローガンは、人々の心に深く浸透していた。遺伝子の選別は、より“正しい未来”のための、当然の、そして歓迎すべきプロセスなのだと、皆が心から信じていた。それは、個人の自由意志よりも、社会全体の安定と効率が最優先される時代の、究極の最適化だった。


 処置を終えた胎児は、再び人工子宮の中で静かな眠りについた。その小さな生命が、これから政府の管理する「適合者」として、決められたレールの上を歩んでいく未来を、誰も疑わない。


 この清潔で無菌化された手術室のすぐ隣の部屋で、別の小さな命が、ひっそりと、そして無情にも「処分待ち」となっていることを、この場所にいる誰一人として知る由はなかった。そこは、光の届かない、社会の「不適合者」を収容する、冷たい鉄とガラスでできた空間だった。



 この場所だけが、なぜか――静かすぎた。


 その部屋の奥で、ひとつの小さな影が、ゆっくりと顔を上げた。


 まだ言葉を知らないはずのその存在は――


 なぜか、“誰か”を待つように、扉の向こうを見つめていた。


 金属製のドアが軋む、耳障りな音とともに、六歳になる幼い少女が隔離室へと連れてこられた。その小さな肩はかすかに震えていたが、抵抗する力はなかった。


 少女の髪は淡く白く、光を受けてぼんやりと揺れていた。

 その姿は、この無機質な空間の中で、ひどく異質に見えた。


 白い部屋だった。壁も床も天井も、すべてが消毒されたかのように真っ白で、そこにいるだけで感覚が麻痺しそうだった。部屋の隅には、常にこちらを向いている監視カメラが設置され、その存在が、自分が絶えず観察されている事実を突きつけていた。ガラス越しには、白衣を着た大人たちが何人も立っている。彼らの表情は読み取れないが、その視線はどこか怯えを含んでいるように感じられた。


 その少女の名前は――レイ。


 彼女の遺伝子に検出されたのは、現代の遺伝子診断技術をもってしても「異常」としか分類できない特異な因子だった。その希少性は数百万人に一人とも言われ、かつては「人類を破壊しかねない」とまで恐れられた、禁断の遺伝子――“E.D.E.N.因子”。


 レイはまだ、自分が「危険」だと見なされていることなど知る由もなかった。なぜここに連れてこられたのか、なぜ皆が自分を遠巻きに見るのか、理解できなかった。ただ、大人たちの目が、医師や看護師の仕草が、どこか自分を恐れていることには気づいていた。それは、幼心に深く刻み込まれる、冷たい感覚だった。


 部屋の白い壁には、以前ここにいた誰かが描いたのだろうか、色鉛筆で描かれた拙い落書きがいくつか残っていた。太陽、鳥、そして自由に空を飛ぶ飛行機の絵。それは、この閉ざされた空間における、レイにとって唯一の友達だった。


「自由って、なに?」


 壁の鳥の絵に話しかけるように、レイは小さな声で呟いた。


「どうして、ここにいるの?」


 疑問は次々と湧き上がるが、白い部屋はただ静寂で応えるだけだった。誰も答えない。誰も寄り添ってくれない。


 静寂の中、少女の小さな手が、壁の飛行機の絵にそっと触れた。白い壁に描かれた、自由への憧れ。その純粋な、しかしどこか全てを見通しているかのような深い光を宿した目は、この理不尽な世界の真実を、既に捉え始めているかのようだった。


 少女はふと、顔を上げた。


 誰もいないはずの扉の向こうを、じっと見つめる。


「……来る」

 

 それは、予感ではなかった。

 確信だった。



 都市の片隅にある、古びた一軒家。その薄暗い書斎で、一人の男が使い古された手帳を閉じた。頁は摩耗し、インクは褪せている。時間の重みが、その一冊に深く刻まれていた。


――真田宗一郎。


 かつて政府機関、倫理遺伝子管理局に勤めていた研究員。しかし、その探求心は政府の定めた「限界」を超え、やがて組織から追放された異端者だった。


 その手帳には、彼が人生をかけて解析した全ての“異常因子”の記録と、政府が意図的に闇に葬った数々の禁断の研究データが、詳細に記されている。それは、この統制された社会にとって、最も危険な「真実の書」に他ならなかった。


 老いた、しかし力強い手で、彼は手帳の最終ページにメモを走らせた。


「すべては、しるしから始まる」


 その言葉は、単なる記述ではなく、未来への、あるいは過去からの「呼びかけ」のようにも見えた。彼はそれを封印するかのように手帳を閉じ、長年使ってきた重厚な机の引き出しの奥深くにしまい込む。


 その上に、息子・翼の名が刻まれた、小さく擦り切れた金属タグが置かれていた。それは、幼い頃の翼が肌身離さず持っていた、ただの遊び道具だったかもしれない。だが宗一郎にとって、それは息子への、そして未来への、静かな願いの象徴だった。


「……翼、お前は何を信じる?」


 その言葉が、息子への、そして世界への最後の問いかけになることを、彼自身が一番よく分かっていた。覚悟を決めた男の顔だった。


 遠くで、けたたましい警報が鳴り響き始めた。それは、政府の捜査部隊が、彼の居場所を特定したことを告げる合図だった。外の世界では、既に何かが静かに崩れ始めていた。あるいは、崩壊は既に始まっており、彼が最後の抵抗を試みようとしているのかもしれない。手帳は、彼の意志を継ぐ者に、この世界の歪みを正すための「印」を示すだろう。


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