第19話:裏切りの選択
夜の都市は、昼間の整然とした顔を脱ぎ捨てる。
人々は既に家に閉じこもり、規則正しい生活の「枠」から逸れる者はほとんどいない。翼と葵は追跡を一時的に免れて、廃工場の中に身を潜めていた。
背後にまとわりつく気配を、ここ数日間ずっと感じていた。
葵と出会ったあの夜以降、視線の重さは絶え間なく続いている。――今日こそは決着をつけるべきだ。
翼は葵に、少し街の様子を見てくると伝えると、1人わざと人影の薄い裏路地に足を踏み入れた。壁面の古びた監視カメラは既に死んでいるのか、赤いランプは点灯していない。
その瞬間、足音が一つ、確かに背後から近づいてきた。
「……やはり気づいてたか、真田翼」
静かな声が、暗がりの中から響いた。
姿を現したのは、一人のスーツの青年だった。整った顔立ちに冷静さをまとった眼差し。だが、その瞳の奥には揺らぎが潜んでいる。
「記録省の……調査員か」
翼は目を細めた。
青年は一歩踏み出した。コートの下には標準装備の端末と小型拳銃のホルスター。職務に従う者の典型的な姿。しかしその声音は完全に機械化されてはいなかった。
「俺は坂口翔太だ。お前の監視を任されている」
翼は壁際に体を寄せ、冷ややかに言い放つ。
「俺を処分しに来たのか」
翔太の瞳が一瞬揺れた。その一瞬を、翼は見逃さない。
「……任務の一環として、そういう提案はすでに上で出ている。お前の存在は“危険因子”だと」
「なら、なぜこうして話しかけている? 撃ち殺せば済む話だろう」
夜風が二人の間を渡る。沈黙が重く落ち、翔太の表情に影が差す。
「……正直に言えば、自分でもわからないーー。ただ、本当に排除することが正しいのか、確信が持てない」
その声には、想像以上の苦さが混じっていた。
翼は訝しむ。
――ただの追跡者ではない。迷いを抱えている。
翔太は口を結び、しかし言葉を続けた。
「過去に……似た任務があった。“異常因子”と判定された少年の排除を命じられた。私はその場で立ち会い、結果を記録に残す役割を果たした。……だが、目の前の少年はただ怯えていただけだった。危険な兆候もなかった。ただ“数値”がそう告げたというだけで」
淡々と語られる回想。だが声の奥には、消えない傷が滲んでいた。
「その日から、俺は自分に問い続けている。本当にこれは“正義“なのか、と。そして俺は今までのお前達の行動を見ていた。本当に“危険“な事は何なのかを考えながらーー」
翼は黙って翔太を見つめる。
父の死、夢の中で見た少年――自分と同じように「因子」を抱えた存在。翔太の語る「ただ怯えていただけの少年」は、翼自身の姿とも重なっていった。
「……あんたは迷っているだけだ」
翼は低く言った。
「結局は記録省の人間だろう。俺を捕らえて上に差し出す、それが役目じゃないのか」
翔太の手が、ゆっくりと拳銃のグリップに触れた。
指先がわずかに震えている。
引き抜けば終わる。
それが、自分の“役目”だ。
だが――。
脳裏に、あの日の光景がよぎった。
怯えた少年の瞳。何もしていないのに「異常」と判定された存在。
翔太の指は、引き金にかかったまま動かない。
「……撃てばいいんだろ」
翼が低く言う。
翔太は、答えなかった。
「もし……お前を捕らえることが、また“あの日”の繰り返しになるのだとしたら。俺は、同じ過ちを繰り返したくはない」
沈黙を割るように、遠方からかすかな駆動音が近づいてきた。低空を飛ぶドローンの群れ――追跡部隊だ。
翼は即座に反応した。
「来るぞ。あんたの仲間だろう」
翔太は苦い顔をする。
「……ああ。黒崎の部隊。現場の裁量権を持っているのは俺ではなく、あの人間だ」
「なら――選べ」
翼は挑発するように吐き捨てた。
翔太の呼吸が止まる。
選べ――。
その言葉が、胸の奥に沈んでいた問いを抉り出した。
何が正しいのかではない。
自分は、どちらを選ぶのか。
銃を持つ手に、わずかに力が入る。
そして――ゆっくりと、その手は離れた。
「俺をここで捕らえて突き出すか、それとも一緒に走るか。答えはひとつだろ」
足元のアスファルトに、赤いレーザー照準が揺らめいた。ビルの屋上から狙撃型のドローンが照準を合わせている。
翔太は一瞬、空を見上げた。
屋上のドローン、赤い照準。
そして、翼を見た。
「……クソだな」
小さく吐き捨てると、拳銃から手を離し――
翼の腕を強く掴んだ。
「――こっちだ!」
二人は廃工場の影に飛び込んだ。直後、コンクリート片が弾け、火花が散る。背後で重装兵の足音が迫る。
翼は驚きとともに翔太を睨む。
「いいのか? これで完全に裏切りだぞ」
「自分の選択だ」
翔太は短く答えた。その声音には、恐怖と同時に、かすかな解放感も滲んでいた。
工場内部は錆びついた鉄骨が迷路のように入り組んでいる。翼と翔太は影から影へと身を滑らせ、追跡をかわす。耳を劈く電子音と共に、黒崎の声が無線から漏れ聞こえてきた。
『目標は二名。真田翼――そして、坂口翔太』
わずかな間。
『……裏切り者は、例外なく処分する』
その言葉に、翔太の背筋が凍りつく。彼が立つべき場所は、もはや“政府の正義”ではなくなっていた。
翼は肩越しに問いかける。
「後悔するなよ」
翔太は小さく息を吐き、初めて真正面から翼を見据えた。
「……後悔するのは、何もしなかった時だけだ」
二人は目を合わせた。そこに敵味方の境界はなく、ただ同じ「生き延びたい」という切実な意志が交差していた。
裏路地を抜け出すと、葵の姿が待っていた。彼女は短く状況を確認し、翔太に視線を投げる。
「……記録省の犬が、どうしてここに?」
翔太は表情を変えずに答えた。
「今は、お前たちと同じ立場だ」
葵は一瞬、疑念の色を浮かべたが、すぐに背後の銃声がそれをかき消した。
「なら、証明してもらうしかないわね」
三人は闇に紛れて駆け出した。その背後で、黒崎の部隊が追撃を開始する。
翔太は走りながら、自分の胸の奥でかすかに脈打つものを感じていた。それは恐怖でも後悔でもなく、久しく忘れていた“自分自身の意思”だった。




