第17話:追跡者
記録省の建物はガラスと金属で覆われた巨塔だった。
入口では生体認証が行われ、翼の掌を透過光が走る。認証音と共にゲートが開き、彼は無感情に歩を進めた。
執務室に入ると、同期の同僚たちが既に端末に向かっていた。整然と並ぶ机、均一なキーストローク音。誰もがマニュアルに沿って動いている。
「おはよう、真田」
隣の席の若手職員が声をかけてきた。
翼は「おはよう」と答えたが、その声に温度はなかった。
端末には市民の記録が並んでいた。生まれた瞬間から登録される膨大な遺伝子情報、行動履歴、発言や思想傾向。翼の任務は、そのデータを点検し、危険因子を判定することだった。
今日のリストの中に、ふと「E.D.E.N.因子保持者」の文字が見えた。
幼い頃、父が口にした言葉を思い出す。
『E.D.E.N.――それは人間の可能性の証だ。だが、この社会では“異端”として封じられる』
翼の指は止まった。
画面に表示されたのは十歳の少年の記録だった。笑顔の写真、だが傍らに「隔離対象」と赤字が滲んでいる。
その瞳が、昨夜夢で見たレイの瞳と重なった。
冷たい震えが背筋を走る。
⸻
「……真田、どうした? 手が止まってるぞ」
上司の声に翼は我に返り、慌てて処理を続けた。
だが、心の中では止まらない。
――もし父が言っていたことが真実なら。
――夢に出たあの少年が現実に存在するなら。
ただの職務を超えた「何か」に、自分は巻き込まれている。
⸻
昼休み。
省庁の食堂で翼は一人、無味乾燥な栄養食を口にしていた。周囲では職員たちが無表情に食べ、談笑の声すら希薄だ。
だが、視線を感じた。
ふと見上げると、向かいの列に座る黒髪の男と目が合った。
すぐにそらされたが、胸の奥がざわめく。
朝に街で見たスーツの男の影――あれと同じ視線だった。
背筋に冷たいものが走った。
⸻
午後の業務に戻った翼は、端末に向かうふりをしながら周囲を探った。
廊下を歩くたび、誰かの足音がついてくる気がする。
休憩室に立ち寄れば、数秒遅れて同じ人物が入ってくる。
それは偶然では済まされない頻度だった。
――監視されている。
その確信が、翼の胸に重くのしかかった。
退勤時刻、夜の街に出る。
ビルの光が水銀のように冷たく、ドローンの羽音が上空を埋めていた。
駅へ向かう道を歩いていた翼は、不意に気配を察した。
振り返ると、人波に紛れて同じ影がついてきている。
足を速める。
影も速まる。
息を殺し、裏通りへと曲がる。人通りが減り、街灯が途切れる。
振り向いた瞬間、黒い影がこちらへ歩み出た。
翼は反射的に走り出した。
鼓動が耳を打ち、肺が灼けるように痛い。
――追われている。
その実感が、夢で聞いた父の言葉と重なった。
「選べ……か」
息を切らしながら、翼は呟いた。
父が何を示したのか、答えはまだわからない。
だが、選ばなければならないとだけは理解していた。
足音が濡れた石畳を叩く。
翼はただ前だけを見て走っていた。都市の裏通りは昼の整然さとは違い、廃ビルや空き倉庫が並び、ネオンも届かない闇が広がっている。
背後の影は、一定の距離を保ちながらついてくる。決して追い越そうとせず、しかし離れもしない。その距離感が逆に恐怖を煽った。
「誰だ……!」
思わず振り返って叫ぶ。しかし返事はなく、影は黙々と歩みを速めただけだった。
⸻
行き止まりの塀に突き当たった瞬間、翼は立ち止まる。
背後からゆっくりと影が現れる。街灯の明かりに照らされ、スーツの男の輪郭が浮かんだ。
顔は帽子の陰に隠れ、見えない。だが、民間人のふりをしているが、体の重心の置き方が違う。訓練を受けた者のそれだ。記録省の監視部隊に違いない。
翼は心拍数を抑え、深呼吸した。
逃げるのか。戦うのか。それとも従うのか。
夢と現実の裂け目から放り出された彼に、迷っている暇はなかった。
「……何者だ」
問いかけても沈黙が返るだけ。
男が一歩踏み出す。
翼の心臓が爆発しそうなほど脈打つ。
次の瞬間、ビルの屋上から低く光が走った。
監視用ドローンが二機、ホバリングしながら降下してくる。レンズの赤い光が翼を照射した。
「記録省の監視機……!」
その言葉と同時に、黒衣の男は身を翻し、闇に溶けていった。まるで役目を終えたかのように。
残された翼は、二機のドローンの視線に囲まれる。
逃げなければ――。
《対象識別:RW-02》
《確保プロトコル、開始》




