第16話:選択の声
暗い水面を漂っていた。
深い海の底に沈んでいくような感覚。息苦しさはないのに、胸の奥が押し潰される。
そこに、声が響いた。
「……翼。選べ」
父・真田宗一郎の声だった。
亡き人の声がこんなにも鮮明に届くことがあるだろうか。低く、温かいはずの声は、今は重苦しい鎖のように翼を縛った。
振り返ると、靄の中に父の背が見える。研究服の裾が揺れているが、顔は光に遮られ、決して輪郭を結ばない。
翼は必死に手を伸ばした。けれど、届かない。
「父さん……何を……選べって……」
言葉は霧散する。
そのとき、別の影が現れた。
少女だった。
年齢は十代半ば、白銀の髪に、静かな光を宿した瞳。
ただ、その瞳には不思議な透明感があった。
翼は夢の中で、その名前を知っていた。
――レイ。
彼は声を発しない。ただ、翼に向かって手を差し伸べてくる。
伸ばされた掌は小さく、しかし強い光に包まれている。
父の声と、少年の無言の手。二つが同時に翼の心を引き裂く。
「……どっちなんだ……俺は、何を……」
次の瞬間、白い光が奔った。
景色が裂け、床が崩れ落ちるように世界が瓦解する。
――そこで目が覚めた。
息を荒げ、翼は跳ね起きた。
額から冷たい汗が流れ落ち、手のひらは強く握り締められていた。爪が皮膚に食い込み、痛みで現実を確かめる。
夢……なのか。
だが、今も耳の奥に残っている。父の声が。
「選べ」という一言だけが、意識に刻み込まれていた。
ベッド脇でAIの音声が響いた。
「おはようございます、真田翼様。睡眠評価は81点。異常は検知されませんでした」
翼はしばし無言で息を整えた。
窓の外はまだ薄暗く、都市の空は無機質な灰色に覆われている。
「……シャットダウン」
AIは即座に沈黙した。
静けさが訪れたはずなのに、翼の胸は騒ぎ立っていた。
――父の死の真相。
――夢に現れる少年。
その両方が、今の自分を動かす唯一の動機になっていた。
⸻
出勤の準備を整え、制服を身にまとう。
生体同期ラインが光を帯び、記録省職員としての姿を形作る。鏡に映る自分は、どこにでもいる均質な若者。だが、胸の奥には言いようのない異物感が巣食っていた。
エレベーターで下階に降り、居住ブロックを出る。
朝の街は整然としていた。人々は決められた歩幅で歩き、表情は希薄だ。頭上を監視ドローンが旋回し、白い羽音を響かせる。
――その中で、違和感に気づいた。
群衆の向こうに、スーツの男の影が立っていた。
人並みに紛れているはずなのに、その視線だけが鋭く翼を射抜いていた。
心臓が強く跳ねた。
監視……か?
影は数秒で群衆に消えた。
だが確かに「見られていた」という感覚だけが残った。
その瞬間、翼は思った。
このままでは、いずれ父と同じように抹消される。
ならば、自分が先に「選ぶ」しかない。
翼は都市鉄道に乗り込んだ。無音の車両は無機質な白で統一され、窓には広告ひとつ映らない。代わりに「秩序ある暮らし」「安心は選ばれし遺伝子から」といったスローガンが流れている。
乗客は皆、目を伏せ、静かに端末を見ている。そこに個人差はほとんどない。人工的に調整された遺伝子が作り上げた「均質な市民」の姿。
翼も同じ制服に身を包み、その一部であるかのように立っていた。だが胸の奥では、昨夜の夢が何度も反響していた。
――選べ。
その声が、まるで耳元で繰り返されているようだった。
そしてその選択が、自分の人生を壊すことになるとは、このときの翼はまだ知らなかった。




