第14話:覚醒の前夜
──現在。翼たちは再び動き出していた。
そして、その夜は突然訪れた。都市の夜は、無数の光に飾られていた。
高層ビルの壁面に映し出された「安全と安定の社会」というスローガンが、風に揺れる幕のように瞬き、遠くを走る自動運転車の灯りが、絶え間なく地表を流れていく。無音の川のように。
窓の外を眺めても、安心や安定が翼の心を満たすことはなかった。
翼は、自室のベッドに横たわっていた。だが眠りは浅い。頭の奥で渦を巻くざわめきが心臓の鼓動と重なり、呼吸は落ち着きを失っていた。今日一日の出来事を思い返すほどに、説明のつかない既視感が増していく。言葉にならない、けれど確かに「何かが近づいている」という直感。
やがて瞼は重力に従うように閉じられ、意識は夢へと沈んでいった。
──白に塗りつぶされた無機質な空間。
壁も床も、果てさえ見えない。空気は静まり返り、呼吸の音だけが響く。その中心に、ひとりの少年が膝を抱えて座っていた。黒い髪。怯えを隠すように伏せた視線。
壁には、幼い手で描かれたらしい落書きがあった。
太陽のような円。歪んだ家。人らしき棒の影。そのすべてが、削り取られた跡を残していた。まるで「ここに存在したはずのもの」が否定されたかのように。
翼は思わず声をかけようとした。だが夢の中の喉は声を拒み、ただ口が空回りする。音は一切生まれず、虚ろな唇の動きだけが宙に浮いた。
少年はゆっくりと顔を上げた。その瞳には孤独と、奇妙な光が同居していた。光は炎のように揺れながらも、凍てつく湖面の冷たさを帯びていた。
「……自由って、なに?」
耳に届いた瞬間、翼の胸奥が鋭く震えた。知らないはずの声なのに、どこか深く刻まれている感覚。懐かしさと痛みが同時に溢れ出す。
視界の隅で、赤い蝶が舞った。
血のように鮮やかな羽を広げ、ふわりと翼の指先にとまる。羽ばたくたびに、蝶は細かな光の粒を散らした。その粒は落書きの消えた部分に降り注ぎ、ほんの一瞬だけ形を蘇らせた。家、人、太陽……しかし次の瞬間、すべてはまた闇に飲み込まれる。
その羽根は、温もりとも痛みともつかぬ感触を伝えてきた。翼はそれを握ろうとしたが、指先からすり抜け、蝶は頭上へ舞い上がっていく。
──その瞬間、別の声が重なる。父の声だった。
白い空間がひび割れ、闇が流れ込む。少年は必死に口を動かしているが、声は途切れ途切れにしか届かない。
「……れい……」
その断片だけが残響のように響き、赤い蝶が激しく光を放った。光は空間を裂き、割れ目の向こうに別の景色を映し出す。机に向かう父・宗一郎の背中。彼は何かを書き記し、振り返りざまに唇を動かした。
──印から始まる。
夢はそこで途切れた。
翼は荒い呼吸とともに目を覚ました。全身は汗に濡れ、心臓は乱暴に打ちつけている。夢の内容は霞んで消えかけていたが、少年の瞳と赤い蝶、そして父の声だけは鮮烈に残っていた。
掠れた声で「夢……か」と呟いた時、掌に冷たい硬質感を覚えた。
恐る恐る開いた手のひらには、銀色の金属タグが握られていた。幼い頃、宗一郎が机の上に置いていた記憶のある小さなタグ。擦り切れた表面には消えかけた刻印が残り、〈S-TSUBASA〉と読めた。裏面には小さな文字。
〈すべては印から始まる〉
息が止まり、喉がごくりと鳴った。なぜこれがここにあるのか、答えはどこにもなかった。だが夢と現実が交差した痕跡だけが残っていた。
突然、壁面のモニターが砂嵐を映し出す。ノイズの中から、微かな声が漏れ出した。
「……翼……」
父か、あの少年か。判別できない。だが確かに、自分を呼んでいる。
胸の奥にざわめきが広がり、指先が震える。ノイズはすぐに途絶え、部屋は再び静寂を取り戻した。
翼はタグを強く握りしめ、息を整えるしかなかった。だが鼓動は収まらず、耳の奥で血流の音が轟いていた。
胸の奥に残る不可解な熱。夢か記憶か、それとも幻覚か。
小さな呟きが夜に溶けた。
「父さん……」
その言葉だけが、夜に残った。




