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道を究める二刀流  作者: 沢村俊介
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完璧でない自分を受け止めなくては

 宮本は、和尚によって起こされた。

 時計を見ると、午前六時だった。

 洗顔を済ませ、作務衣に着換えて本堂に行き、和尚の朝の勤行(読経)に付き添わせてもらう。今朝の経本は「般若心経」であった。和尚から渡された経本を開くと、すべて漢字で書かれていたものの、横にふりがなが振ってあり、和尚の声に合わせながら宮本も声を出そうと努める。

 その後、座禅堂に入った。

 宮本は「単」に上がり、壁に向かって座って、姿勢を整え(調身)、深呼吸をし(調息)、雑念を払って心を調える(調心)。和尚は堂内にいて警策きょうさくを持ち、宮本の座禅を見守ってくれることになった。

 目を瞑っていると、デンバー市にあるスタジアムから見えた、ロッキー山脈の山並みが見え、そして、ニューヨーク市にあるスタジアムから見えた、超高層ビルが立ち並ぶ風景が思い浮かんだ。そうだ、夢の中でも見た風景だ、と宮本は気がつく。アメリカにまでやって来た価値が十分ある、そしてこういう極めて優れた環境の中で野球をやれることに対して、感謝の念がふつふつと湧いて来た。

 すると、何やら、いい匂いがしてきた。どうやら味噌汁の匂いのようだ。和尚はこの座禅堂におられるはずだ。とすれば、庫裏(台所)に居て、朝食の準備をしているのは、水野五月さんかもしれない…。

宮本は、今朝の食事では和食が食べられるかもしれないと思うとうれしくてならなかった。母のことが思い出される。そういえば、母は時々、朝の味噌汁では、小魚やかつお節でだし汁を作っていたなと思う。母は宮本の身長が伸び盛りだった頃は、牛乳を飲ませることはむろんのこと、焼き魚やいりこから取っただし汁で味噌汁を作り、カルシウムの摂取を心がけてくれていたのかもしれない…。

 母に会いたいな、と思ったとき、涙がこぼれた。遠い地にやってきた。でも、それは自分自身が望んだことだった。ならば苦しくても、自分の気持ちを強く持ち、前に進むしかない……。

 すると、和尚の声がした。

「宮本君、そろそろ終わりにしましょうか」

「はい」

 宮本は、幼い頃の母との思い出など、このまま感傷にふけっていたかったが、瞑想を止めて目を開けた。

 座禅堂から、客間である畳敷きの和室に戻ると、お膳が二つそろえてあった。

 おなかが空いているせいもあるかもしれないが、白いご飯や温かい豆腐と若芽の味噌汁が、宮本には臓腑に染み渡るように感じられた。ごま豆腐の香りがよかった。

「この豆腐、温もりがありますね」

 と、宮本は感想をもらす。

「ああ、これね。水野さんがゆうべ、ちゃんと仕込みをしてくれていたからね」

「そうですか。手間がかかっているんですね」

 宅野和尚がにっこりと笑っていた。

 食後には、日本茶をいただく。いつも、コーラやコーヒーを飲んでいる宮本には、日本の緑茶はめずらしかった。

「どうですか、最近の調子は?」

 和尚が尋ねる。

「少しずつ良くなってきたかな、とは思います」

「それはよかった」

「最近なのですが、ピッチャーとしてマウンドに立って球を投げる前、それから、バッターとしてバッターボックスに立った球を待つとき、一瞬でもひと呼吸置くことができるようになりました。そのひと呼吸の間に、無心になれるような気がして」

「それはなかなかよろしい。人間というのはどうしても欲が出てしまう。しかし、呼吸を整える瞬間は無意識の状態になる。無意識の状態が、欲を一刻いっときでも忘れさせてくれるのでしょう。座禅においても、姿勢を整える、深呼吸をする、雑念を払うというように、ルーチン(定期的な)の動きが必要ですからな」

「でも、僕は、なかなか欲から離れられません。例えばいつの間にか、バッターボックスに立っているとホームランを二桁打ちたいとか、投手としてマウンドにいると二桁の勝ち星を上げたい、とか」

「いいじゃないですか。所詮、人間誰しも、欲のかたまりですよ。その欲を完全に消し去ることはできません。あとはその欲をいかにコントロールできるかどうか、ということなんです。欲のままバットを振ったら、肩の力も抜けていないから、空振りしてしまうでしょう。しかし、その欲をちょっと横に置いてやり、肩の力を抜けば、いつもどおりのスイングができるのではないでしょうか?」

「そうですね。ただ、なかなか欲を拭い去れないのですが」

「無理をすることはないですよ。煩悩即菩提(悟り)、菩提即煩悩です。煩悩があってこそ悟りが得られるのです。煩悩を持つ自分を100%、認めてやればいいのです」

 宮本は、頷いている。無理に欲望を消そうとしてもだめなような気がする。むしろ、大いなる欲望を持つ自分を肯定し、打者として凡退したり、投手としてホームランを打たれたりしたら、むしろ『ほら、欲を張ったからこうなったんだ』と、悪い結果をあたりまえこととして受け入れればいいんだ、と宮本は思う。所詮、自分は野球道において、まだまだ修行中の身である。であれば、三振してあたりまえ、ホームランを打たれてあたりまえなのだ、と思った。

 時刻は午前10時を回っていた。キャブ(=タクシー)を呼ぶ。

 和尚が使われる玄関口を出る。石畳みを行き、左に曲がって、山門に向かう。と、作務衣の人が竹ぼうきで、石畳みの上に積もった土や葉っぱなどを掃いていた。水野五月さんだ。ここは何とか、あいさつをしなくてはと思った。紋切り型のものでない、きちんとしたあいさつだ。

 近くまで行くと、宮本は立ち止まり、直立不動のまま、宮本は口を開く。

「こんにちは、ごくろうさまです」

 水野五月が顔を上げた。やさしいまなざしだった。

「今朝は、すみませんでした。今朝のごま豆腐は、とてもおいしかったです」

 宮本はそう言って頭を下げる。

 頭の位置を徐々に戻す。特に、相手からの返事はなかった。

 宮本は無理に笑顔を作りながら、歩を前に進めていく。

(あの人は、無口なのかもしれないな)

 そう思いながら、うつむき加減に歩き、しばらくしてから、まなざしを上げると、山門の向こうに、Cabキャブが一台、止まっているのが見えた。(つづく)



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