ある男の敬愛と懺悔。そして独白
「 ある男の敬愛を伝える連絡 」
あ、母さん?
俺。
うん、仕事は上手くいってる。そりゃあ、まだ新人だからヘマはするけど。
充実しているよ。え? 飯? うーーん。まあテキトーーに喰ってる。や、大丈夫だから。心配しなくていいから。それより、給料でたからさ。うん、すこしだけど送っておくから。
うん、うん。大丈夫。しっかりやってるから。
兄さんにもよろしく伝えといて。母さんも風邪とか気をつけて。
「 独白・4 」
容子夫人はお一人でございました。
噴水の前は、大勢の人々で賑わっております。
待ち合わせなのか、しきりに時計を気にしている人がいます。
二人で、あるいはもっと大勢ではしゃぎながら、たむろしている人達がいます。
子供を連れた母親達がいます。
スーツ姿で鞄片手に忙しそうにしている男達がいます。
そのなかで、容子夫人のまわりだけが、ぽっかりと空いておりました。
まるで見えない壁があるように、人々は容子夫人から絶妙な距離をとっているのです。
ですがその事実に容子夫人が悲しげにしていたり、惨な様子はありませんでした。
容子夫人は本日もにこにこと穏やかな笑みを浮かべては、行き交う人々に盛んに挨拶をしております。
「こんにちは。良いお天気で」
「こんにちは。いかがお過ごしでしょうか」
「こんにちは。おかげんいかがでしょうか」
「こんにちは。ここは一体どこなのでしょう」
大抵の人々は、己に投げかけられる声に全く頓着することなく、通り過ぎていきます。これは不思議な事態でございました。
わたしの目からみても、容子夫人は一風変わった格好をしております。
本日の彼女のコーディネート(この言葉は最近妻が毎朝口にするので、すっかり覚えてしまいました)は、藤色のフリルがたんとついたブラウスに、たっぷりと長いスカートでございます。スカートから見える足元には赤いエナメルの靴を履いております。
さらに白髪頭には、色あせた造花でごてごてと装飾された派手な帽子です。そして左手に杖。
右手には黄色いくまのぬいぐるみを抱えています。
くまはどういう必要性からなのか、桃色の毛糸で編まれたケープにくるまれております。そのくまを容子夫人はさも大事そうに、ひしと小脇に抱えているのです。
ひとのなかであっても、なかなかに個性的というか、奇抜な格好でございます。
この格好のせいで、皆が容子夫人を無視しているのでしょうか。いいえそうではなさそうです。周囲の人々は意識的に無視しているわけではなさそうです。
そういう時に人々からある程度かもし出される、気まずさや、嘲り。好奇心。思わず目をそらしてしまう後ろめたさなどが、皆無なのでございます。
わたしは首をひねりました。
観察を続けていくと、わたしはある点に気がつきました。
どうにも容子夫人は頼りなくみえるのです。
高齢のためではございません。
彼女の輪郭は他の人々と比べ、実に頼りなくぼやぼやとしているのです。どうしてなのでしょうか。
わたしは思わず彼女の方へと、大勢に見つかる危険をおかして行きかけました。
その時です。
わたしの真ん前に、ぬっと男の足が突き出されのです。
わたしは驚いて、その場で止まってしまいました。
見上げた先にある人影は、大きく広げた片足でわたしの前方を塞いでおります。そうしておきながら、わたしを見下ろしておりました。
どうやら意図的にわたしの進路を塞いだようです。
かちっとした制服姿の男でした。
手に持った特殊な形の鋏をカチカチと鳴らしながら、男はわたしに向かって言いました。
「こんにちは、取締役。こんな所で会うとは奇遇じゃあないか」
濃紺の制服に身を包み、改札鋏をもつ男は、紛れもなく猿川でありました。
「 ある男のとおく離れた場所からの懺悔の電話 」
母さん。
だいすきなおかあさん。
ごめん近くにいられなくて。
今、母さんがすごく大変だって分かっている。けれど仕事でどうしようもないんだ。
母さんが元気だった時。一度招待したシンガポール。覚えている? もう全然覚えていない?
とにかく今、シンガポール支社にいるんだ。金なら送れる。俺がしてあげられるのはそれだけだ。
あとはきっと兄さんがなんとかしてくれる。
母さん。かあさん。俺の声が聞こえてる?
ちがうよ、俺は父さんじゃない。父さんはずっと前に亡くなっているだろう。
俺は母さんの息子だよ。
母さん……ほんとごめん。
「 独白・5 」
「こんな所で会うなんて奇遇じゃあないか」
猿川はひそめた声でわたしに向かって話しかけます。
そうしながら、しゃがみ込み、ほどけてもいない靴ひもを結び直し始めたのです。
成る程。
周囲の目をひかぬ為の工夫なのでしょう。
そうまでして、この男はわたしに何の用があるのでしょうか。
わたしの困惑が伝わったのか、猿川は「そんなに緊張することはない。君と俺との仲じゃあないか。駅前までお散歩かい?」と、尋ねます。
「……いえ。別に」
わたしはいらぬ事は、口にせぬよう用心しました。
「ふうん。それにしてはやけに熱心にあっちを見ていたねえ」
そう言うと、顎で噴水の方角をしゃくってみせます。どうやら一部始終を見ていたらしいです。
「うし鬼がひとの影を見つめるのは、至極当然のことでございますよ、旦那」
わたしはつとめて明るい口調で言いました。
ですが猿川には通じなかったようです。
「へええ、こんな真っ昼間の駅前広場で、食事かい。いやはや懐古主義の筆頭ともなれば肝が据わっているもんだ。いいさ。俺には構わずに、食事に行きたまえ」
靴ひもから手を放し、猿川は立ち上がります。そして靴先で、地面から出ているわたしの後頭部をつつくのです。
「そら、行けよ」
つつく力が増します。猿川の意地の悪さを、わたしは感じました。
「その醜い姿を衆人に晒てこい。面白いくらい皆が騒ぎ立てるぞ」
猿川は例の爽やかな笑みを浮かべ、わたしを見下ろしております。
ですがその目の冷徹なこと! わたしは溜め息をもらしました。
この男から逃れるのは、どうやら容易ではなさそうです。
「降参ですから、そんなにいじめないで下さいまし。旦那」
「なんのことか俺にはとんと分からぬが」
「わたくしは、そら、そこの。容子夫人が気がかりだっただけでして。はい」
「……ほお」
「あのご婦人。容子夫人でございましょう?」
「ああ。確かに。しかしお前よく見つけたね」
わたしが素直に白状しますと、一転機嫌よく猿川が目を細めます。
「それで? 彼女のどこがどう気にかかったんだい?」
「ええ、それは。……なんですか。わたくし共、どうにも人様に比べ目がさほど良くありません。頭も悪いもんですから、旦那にお聞かせする程の話しかどうか。自信がもてませんでして」
「うん。うん。そうかい。いいから、言ってご覧。お前の目から見て彼女はどうだい? なにをそんなに気にしているんだ?」
「ええ。それがね、旦那。全くもって馬鹿ばかしい話し。わたくしの気の迷いなのかもしれません……」
「能書きはいいから、早くしろ!!」
焦れてきたのか、猿川はまたもや後頭部を突きます。
「へい。これはとんだ失礼を。……どうにも容子夫人。うすくなって見えますんで」
わたしはとうとう、猿川にわたしが抱いた懸念を吐露しました。するとどうでしょう。
猿川は、笑い声をもらしたのです。
きっと人気のないところでしたら、この男は大口を開けて爆笑していたのかもしれません。しかし人の目をひくには充分でした。げんに何人かは、こちらをちらと眺めます。
そのなかには容子夫人もおりました。
夫人は我らを見つけますと、「まあ! まあ! まああ! こんにちは!」
一際大きな声でそう言いながら手を降ります。
彼女が手を降ると、黄色いくまも一緒に右へ左へと動きます。
随分派手な行動にも関わらず、誰も見咎る視線をおくりません。
夫人だけが、奇麗にこの場所から切り離されているようでした。
わたしはなんだが、その光景に寒気を感じました。
多くの人々が行き交う華やかな駅前広場が、見知らぬ得体の知れない世界に思えてきたからです。
「……不思議かい?」
容子夫人におざなりに手をふりかえすと、猿川が小声でわたしに語りかけます。
「誰も彼女を見ない。気がつかない。けどお前はその目で、彼女を見ている。周囲の異質な対応に気がついている。そうなんだろう? 筆頭くん?」
「……どういうことなんですか、旦那?」
「全部君たちのおかげだ」
そう言いながら、猿川は目を光らせました。
「我らの? 我らは夫人になにもしておりません」
「本当に困っていたんだ」
猿川が言います。
苛立を多く含んだ口調でしたが、それだけではありませんでした。
「あの婆さんは家から出るなと言ったって、聞きやしない。いつも街をふらついては、周りに迷惑をかけるんだ」
猿川は口の端を、醜く歪めます。
「特に困るのはああして、俺の職場の辺りをうろつかれることだ。想像できるか? 一般市民から駅の窓口に苦情がはいる。頭の可笑しいお婆さんがいる。気味が悪い。不安になる。可哀想だ。保護してくれと」
抑えきれない憐憫が男の奥底にはありました。
「その度に俺は恥をかく。同僚から憐れみのこもった目で見られる。あるいは馬鹿にされる。上司には、どうにかしたまえと説教される。どうにかしたまえだって? どうにかできてたら、とっくにしてたさ!」
激昂に満ちた声は、苛立と共に哀しみで彩られています。
「そんな時だ。俺はすごいマジックに気がついたんだ。誰も気がつかなかった、お前らうし鬼の使い道だ。俺は言ったろう? お前らはすごいんだ。お前らが腹をすかせて影を舐める。しかし今までは行き当たりばったりの人間ばかりだ。一回二回じゃあ、なにも変わらん。しかし定期的にうし鬼に影を舐められるとな、」
わたしはふかく息を吸いました。
耳にしたくない事実が、今まさに口をぱくりと開けて、わたしを飲みこもうといるのです。猿川はわたしの動揺を嗅ぎ取ったのでしょう。残忍な笑みを浮かべます。
「うすくなっちまうんだ。舐められた本人がまるで影法師になったように。そら見てみろよ。確かに婆さんはあそこにいる。けれど皆、滅多には気がつかない。そうしたらどんな変てこな事をしようが、誰も咎めない。苦情もこない。あいつは好きなだけ、好きな場所を徘徊できる。うし鬼万歳! うし鬼商会万々歳だ!」
わたしは言葉が出て来ませんでした。
我らの補食行動が、ひとにその様な影響を及ぼすなど、考えもしなかったのです。
猿川がそんな悪巧みの為に、我らを利用していたとは!
わたしはぐらつく頭を抑え、猿川の靴先に縋り付きました。
「では……あの人たちは……跡地に集まってくるひとたちは……」
あそこには今だって何十人もの人々がやって来るのです。我らに影を舐められるためにです。
「安心しろ。無理強いなど俺は一度だってしていない」
得意そうに猿川が言います。
「世の中には、金を払ってでも、うすーーくなりたい奴が、思いのほか大勢いるだけだ。仲間はずれにあって辛い小学生。赤ん坊の鳴き声が煩わしい母親。孤独になりたい女。家族から、仕事から消えてしまいたい男たち。死ぬよりは、うすくなっちまう方がマシってもんだ。あいつ等にとって、うし鬼商会は縋り付くことができる大切な居場所なんだ。お前らは胸をはって、影を舐めてりゃいい」
猿川の腕にはめている時計が、耳ざわりな電子音を鳴らしました。
「旦那。息子は、この事を……」
わたしは一番知りたくない事実を猿川から聞かねばなりません。
猿川に心酔し、嬉々として「お客さん」達の影を舐め続ける息子。それに同胞たち。彼らはーー
しかし猿川はわたしの疑問に答える素振りも見せず、肩をすくませると、「昼休みが終わる。俺は職場に戻るから、筆頭くんは群衆に見つかる前に消えるんだな」
そう言って踵をかえします。
その態度にわたしは全てを悟りました。
信じていた。愛すべき。守るべき家族像が、わたしの中でぐらりとねじまがった様な錯覚に包まれ、わたしは全身を震わせました。もうわたしの知っている平安でのんきなうし鬼の生活など、とっくに消え去っていたのです。
背を向けた猿川に、容子夫人は幸せそうな顔で手を振ります。
「ごきげんよう。ごきげんよう。皆さまこんにちは」
誰も彼女の妙ちきりんな様子に、嫌悪感を抱きません。苦情も言いません。
わたしと猿川以外のひとから切り離された世界で、ひとり。彼女は、にこにこと幸せそうな微笑みを浮かべているのです。
「旦那!」
わたしは立ち去ろうとする猿川を、再度呼び止めました。
「彼女は、旦那のなんなのですか?」
わたしは必死に、猿川のズボン裾に手をかけて引き止めると尋ねました。
猿川の言動の裏に、わたしはいつも僅かばかりの哀しみを感じておりました。それはただのお客に対するものとは思えませんでした。赤の他人に対して、それほどこの男が優しいとは思えないのです。
猿川は大儀そうに立ち止まりますと、肩から首だけで振り返りました。
そうしてさも面倒くさそうに、吐き捨てました。
「おふくろ」
後はもう振り返ることもせず、片手に持った改札鋏を神経質そうに鳴らしながら、駅構内へと消えて行ったのです。
「こんにちは」
「ごきげんよう」
「ここはどこでしょう。あの子はどこでしょう」
秋の気持ちの良い午後です。
駅前広場にはいくつもの影が行き交います。そのなかのただのひとつも、彼女を前に止まる事はありません。
駅の時計が時報を鳴らします。すると噴水が、ざあざあと勢いよく水をあげだしました。
幼いこどもが数人。たからかな笑い声をあげ、噴水へとおぼつかない足取りで向かって行きます。母親たちが笑いながら後を追います。
「あらあら。かわいい。こんにちは」
こどもも。母親も。容子夫人に応える者はおりません。
わたしはもうたまらない気持ちになって、容子夫人の足元に急ぎました。
彼女の影は秋のやわらかな日差しを受けて、くっきりとわたしの目に映ります。
わたしは舌をながく伸ばしますと、ただただ一心に。彼女の影を舐めたのでございます。
完
原稿用紙換算枚数 43枚
私派ぼくら様企画「闇フェス」参加作品。
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