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短編小説

雨傘ダブルバインド

作者:うわの空
「素敵な夢を見たの」

 開口一番、姉はそう言った。どんな夢、と私は返す。姉は私を見据えたまま、口元に両手をあて、嬉しそうに囁いた。

「あなたが、ここから消えちゃう夢」

 朝の爽やかな風を受けたカーテンが、ばさりと音を立てて翻った。その拍子に差し込んだ朝日が、姉の裸足を照らす。めまいがするほどに美しい、陶器にせもののような白い肌。

「……いい夢だね」

 そう言って微笑んでやれば、姉は満足したように頷いた。


 私の姉は変わっている。
 子供のころから変わり者の類ではあったが、ここ数年はそれが顕著にあらわれている。突然水色のペンキを買ってきて部屋の壁にそれを塗りたくったり、かと思えば白色のペンキを買ってきてフローリングに塗りたくったり。そういうのは日常茶飯事で、十三も年の離れた妹――つまりは私ですら、姉は変人なのだと認識していた。
 奇行ともいえる姉の行動。その最たる例は、今も姉が握りしめている、透明のビニール傘だろう。

「……お姉ちゃん」
「なあに?」
「雨、降ってないよ」

 私は空を仰いだ。降っていないどころか、降る気配もない快晴だ。周囲を歩く人々は、日傘のようにビニール傘をさしている姉を怪訝そうに一瞥した。それでも何も話しかけてこないのは、明らかに『デンパ系』の姉に関わりたくないからだろう。

「降ってないのに、傘を持ってちゃいけないの?」

 あっちの人もこっちの人も、傘をさしてるわ。姉はそう言って、往来する人々を次々と指さした。指さされた人は気分悪そうに、そそくさとその場を離れていく。私は周囲の人たちに頭を下げながら、姉を睨んだ。

「あの人達のは日傘なの。お姉ちゃんのは雨傘でしょう」
「あの人達のは日傘だって、どうしてわかるの。雨傘かもしれないわ」
「――……あの人達のが仮に雨傘だとしても、黒とか白とかだから目立たないの。でも透明のビニール傘は明らかに雨傘なの。だから目立つの。わかる?」
「目立つならいいじゃない」

 けろっとした調子で、姉が言う。そもそも、姉は目立つために晴れの日でもビニール傘を使用しているのだ。「目立つからだめ」は通用しない。
 姉は子供のように、あるいは正月にテレビで見かける大道芸人のように傘をくるくると回しながら、くすりと笑った。

「ねえ覚えてる? あなた、子供のころ、私と他人をしょっちゅう間違えたの」
「……さあ」
「覚えてないの? お菓子売り場とかでね、あなたってば知らない人に『お姉ちゃん』って声をかけるの。で、振り向いた人は見ず知らずのおばさんで、あなたは泣きそうな顔して私を探すの。買ってほしいお菓子は握ったまま。かわいかったなあ」
「……そう」
「でも、かわいそうだったな」

 ふ、と息を吐くように姉は微笑んだ。
 ――子供のころの話。私はまったく覚えていない話だ。けれど年の離れた姉は、そんな些細なことすら忘れない。まるで宝物のように、くだらない昔話を教えてくれる。いつもいつも。頬についたペンキを拭ったり、傘をくるくる回したりしながら。
「それでね」と姉は続けた。

「この傘。晴れてる日にこれをさしてる人って、いないでしょう。だからこれならあなたも、私と他人を間違えないんじゃないかなって。それにほら、雨の日でも。透明だからね、誰がさしてるのか透けて見えるでしょ? あなたが遠くにいても、私の姿がよく見えるでしょう」

 屈託のない笑みを浮かべて、姉。
 その姉を避けるように歩く人々。

「……そう」
「もー、さっきから『そう』ばっかり。お姉ちゃんの話ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」
「そういえばお母さんも『そう』ってよく言ってた。あなたはほんと、大きくなればなるほどお母さんそっくりになるんだから。そうだ、最近お母さんたちに会った?」

 思いついたように姉は言い、傘を少し振り回した。すれ違う人々が迷惑そうに姉を見る。すみません、と私は頭を下げ、姉をたしなめてから言った。

「会ってない。だって最近はずっとお姉ちゃんと一緒じゃない」
「あーそっか。でもさ、たまには会いにいきなよ。お父さんもお母さんも、きっと心配してるよ」
「……私のことより、きっとお姉ちゃんを心配してるよ」
「えー、そんなことないよ。お姉ちゃんはもう大人だもん。二十八歳だもん」

 雨ごいでもするかのように、姉は傘をくるくる回す。それでも秋雨は降る様子もなく、道路にはビニール製の不思議な影ができる。
 私が消えてしまう夢。透明のビニール傘。心配している両親。晴れの日の雨傘。

「――……ダブルバインド」

 思いついた単語を口にすれば、姉がきょとんとした顔でこちらを見た。

「なあに、それ」
「ああ……二重拘束とも言うんだけど。矛盾したふたつのメッセージを同時に受け取ること、かな。例えば『自分で考えて行動しろ』って言われて、その通りにしたら『どうして勝手に動いたんだ』って怒られる……そういう状態のこと」
「ふうん、よくわかんない」

 姉は、納得したのかしていないのかよく分からない返答をした。かと思えばこちらを見て、

「どうして急に、そんな言葉を使ったの?」

 私は姉を、あるいは姉のビニール傘を、見た。

「……別に。なんとなく思いついただけ」
「ふうん、変なの」

 今度は納得したようだ。姉はくすくすと笑い、足をとめた。ビニール傘をたたみ、濡れてもいないのに水滴をきるようなそぶりでばさばさと振る。それから傘を杖代わりにして、こつこつと地面をついた。これもまた、姉がいつもやる儀式だ。

「はい、無事に到着しました。お見送りはここまででいいよ」
「……なんなら中までついていくけど」
「だーめ。あなたもいい加減、お姉ちゃんばなれしないとだめでしょ」

 深刻な声音で、姉は私を制止した。けれども次の瞬間には破顔して、

「それじゃ、夕方の四時に迎えに来てね」

 そう言った。
 またひとつ、増える拘束。

「……お姉ちゃんは」
「うん?」

 疑いも何もない晴れやかな表情を、姉がこちらに向ける。
 お姉ちゃんは。言いかけていた言葉がうまく出ず、けれどうまく消化もできずに、私はただ首を振った。

「なんでもない。いってらっしゃい」
「はーい、行ってきます」

 ひらひらと手を振り、姉は建物の中へと入っていく。入院設備も整っているという立派なその建物は、けれども見方を変えれば巨大な牢獄のようでもあった。
 ――現実を生きているのか、虚構を生きているのか、わからなくなるんです。
 いつかの姉の言葉を思い出しながら振り仰ぐ。
「精神科・神経科」という看板は、今にも降ってきそうなくらいに重々しく見えた。


 夕方までやることがなかったので、墓を見に行った。
 質素な墓石にはアンバランスな――信じられないくらい立派な花が飾られているのが、うちの墓だ。立派とはいえそれは造花で、近くで見れば汚れも目立つ。
 桃色、黄色、水色、紫色と、よく言えばカラフルな、悪く言えば統一感のない花束は当然ながら姉の趣味だ。

 ――あなたは同じ色ばかり選ぶから可愛くないわ。

 白色と黄色の菊でまとめようとしていた私を見て、姉がそう言ったのを今でも覚えている。
 私は墓の前にしゃがみ込み、供えられていた小さな紙パックに手を伸ばした。先週、姉が置いていったいちごオレだ。「子供じゃないんだから」と言う私に、「でも好きだったでしょ」と姉は微笑んだ。

 ――何を持ってきてほしいとか、誰もリクエストしてくれないんだもの。

 いちごオレのパッケージをしばらく眺めてから、私は墓の裏へとまわった。そして、墓の中にいる人々の名前を確認する。
 そこにはっきりと刻まれた、父と母の名前を。
 ――たまには会いにいきなよ。お父さんもお母さんも、きっと心配してるよ。

「……会えればよかったんだけどね」

 現実と虚構。姉がそのどちらで生きているのか、私もわからなくなる時がある。
 もしも「現実と虚構の間」があるのなら、姉は恐らくそこにいるのだろう。
 現実を理解できていて、なのに受け入れていない。
 虚構の世界で生きられるほど、現実を否定している訳でもない。
 どちらの世界にも、片足ずつ。
 中間地点に足を踏み入れたような姉に、けれども私は踏み込めずにいた。


 通り雨にうたれた人々が、それぞれの目的地へと急ぐ。
 私は、姉のいる病院へと走っていた。
 小雨とは言い難い降りかただった。道行く人々は鞄を傘代わりにしたり、パーカーのフードを被ったり、あるいは開き直ったかのようにずぶ濡れになったりしている。ふと隣を見れば、シルバーの日傘をさして悠然と歩く女性の姿があった。恐らくは晴雨兼用のものなのだろう。勝ち組のようなその光景は、どこか姉のように滑稽で、私は失笑してしまった。
 今なら、姉のビニール傘も目立たないかもしれない。
 病院に到着し、ロビーで私を待っているだろう姉を探す。けれどもいつものソファに、姉の姿はなかった。トイレにも、売店にもいない。念のために喫煙所も覗いたが、煙草を吸っているおじさんが一人いるだけだった。
 先に帰ったのだろうか。迎えに来て、と言っておいて。
 喫煙所からロビーへと戻る。姉はいないが、見知った顔がそこにあった。姉とよくお喋りしている、ふくよかな中年女性だ。ここの入院患者らしく、いつでも寝間着姿でロビーをうろついている。今は、首から下げた家の鍵らしきものを弄びながら、うつろな瞳でこちらを見ていた。
 知ってるよ、といったその表情。

「……あの、すみません」
「なむあみだぶつ」

 返事は早かった。私の欲しい情報ではない単語を、彼女は繰り返す。
 ――なむだみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

「……失礼しました、なんでもありません」

 私は軽く頭を下げ、足早にその場を離れた。私を追い立てるように、女性の声が大きくなる。
 なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
 受付の女性に軽く会釈して、外に出る。雨はまだ降っていて、傘をさしている人があちらこちらにいた。私はその中から、透明のビニール傘を探す。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

 気づけばそう言っていた。切迫した声で。
 まるで、お菓子売り場で誰かとはぐれた子供みたいに。
 通り雨を運んできた薄い雲は千切れ、青い空が覗きはじめていた。雨はもうすぐやむだろう。まるで、驟雨しゅううが世界から姉だけをさらっていったようで、私は狼狽した。
 おねえちゃん、おねえちゃん。青空の下、雨の中、私は姉を呼んだ。呼び続けた。

「どうしたの、そんなに慌てて」

 姉は、いた。
 駐車場の角――セダンとワゴン車の間に、姉はしゃがみこんでいた。お気に入りのビニール傘をさして。

「……なに、してるの」

 どうしてロビーにいなかったのかよりも、姉がそこで何をしているのかが気になった。姉は「ああ」と呟き、「見て」とセダンの下を指さす。私は、誰の物かも知らない車の下を覗き込んだ。
 濡れた仔猫が、そこにいた。

「雨宿り、間に合わなかったみたい」

 私の隣で姉が言う。茶トラの仔猫は小さく震え、縋るような目でこちらを見ながらも、私たちを警戒していた。

「この子の」

 言いながら、姉が私の方へと傘を傾けた。水滴がいくらか、伝って落ちる。

「家族はどこに行っちゃったのかな」

 私は姉を見た。姉もまた、私を見ていた。

「車に轢かれたのかな」
「……お姉ちゃん」
「横断歩道で轢かれちゃったのかな」
「お姉ちゃん」
「みんな轢かれちゃったのかな」
「お姉ちゃん!」

 私の声に、姉が身体を震わせた。思い出したような、あるいは忘れてしまったような顔をしている。……いつもそうだ。姉はいつだってこの顔で、晴れた日にでも傘をさす。
 私に半分傘をさしだしたせいで、姉の右肩は濡れていた。そんなことをする必要はないのに。
 だって私は、ちっとも雨にうたれていない。
 私はもう、雨に濡れることなどない。

「……あなた、また私を探してたの?」

 ふと、思い出したように姉が言った。私は無言でうなずく。姉がすっと、空を指さした。

「高い所から探せばよかったじゃない。そのためにお姉ちゃん、傘をさしてるんだから。透明の傘なら空の上からでも。誰がさしているのかわかるでしょ? 私の姿が、見えるでしょ?」
「…………」
「お母さんとお父さんには会えた?」

 私は首を振った。そう、と姉は腰を上げる。

「早く会えるといいのにね」

 私が濡れないよう配慮したまま、姉は微笑んだ。

「それまではお姉ちゃんがそばにいてあげるからね。晴れてても透明の傘をさしてるのがお姉ちゃんだから。迷子になったらこれを目印にして、お姉ちゃんを探すの。わかった?」

 私は頷いた。姉は満足したように目を閉じる。
 青空が広がっていた。
 さらさらと細やかな雨が降り注いで、ビニール傘を濡らす。重みに耐えきれなくなった水滴が、時折ビニールを伝って地面に落ちた。太陽の光を透かす傘と、流れ星のように落ちていく水滴は、まるで違う世界の空を見ているようだった。
 まるで、現実と虚構のはざまのように、美しかった。


 ――成仏した方がいいんだってね。
 ある日、面白くなさそうに姉がそう言った。
 両親と私が死んだ横断歩道を眺めながら、姉は小石を蹴る。からからと音を立て、小石は白線の上を転がった。

「ね、死んだら雲の上に行くんでしょう?」
「……さあ」
「私にはあなたしか『視えない』けれど、お父さんとお母さんもまだこの世界にいるの?」

 さあ、と私は繰り返した。
 かつて、この横断歩道で家族三人がはねられた。ほどけた靴紐を結び直そうとその場にしゃがみこんでいた姉だけが助かった。父と、母と、私は同じ墓に入った。当時十五歳だった私のために、姉はいちごオレをたびたび供えてくれた。
 ――両親の魂がどこにいったのかは知らないが、私は幽霊となり、その姿が姉に見えるようになってしまった。
 確実な事実はそれだけだ。
 両親の魂がどこに行ったのかも、死んだら雲の上に行くのかどうかも。私も姉も、なにも、知らない。

 成仏した方がいいって、テレビで言ってた。

 そう言ったその日、姉はコンビニでビニール傘を買った。馬鹿みたいに晴れた夏の日だ。
 店員はちらりと姉を窺い、けれども値段しか告げなかった。姉は上機嫌で千円札を出して、隣にいる私へと笑いかける。どこを見てるんだという店員の視線と、なんでこんなもの買うのという私の言葉が、透明なまま重なった。
 コンビニを出た姉が、さっそく傘を開く。ばさりと、羽を広げるような音がした。

「ね、いいでしょ」

 暑い日差しの中、姉は優雅にビニール傘をさす。勝ち誇ったような顔で。

「これならもしもあなたが雲の上に行っちゃっても、お姉ちゃんのこと、探しやすいでしょ」

 姉の笑顔も、ビニール傘も、青空も。
 それらは笑ってしまうくらい、よく似合っていた。


 ――生前。
 姉と私は、十歳差の姉妹だった。
「あの日」からそれは、少しずつ開いている。十一歳差、十二歳差、……十三歳差。
 もうすぐ姉は二十九歳になる。
 また少し、遠くなる。


 今朝は、十月の割に冷えていた。リビングに差し込む朝日を見ながら、私は姉が起きてくるのを待つ。
 姉が眠っている間にどこかに行ってしまおうかと、これまで何度も考えた。なのにそれができないのは、姉が私を求めているからなのだろうか。それとも、私が姉を探すからなのだろうか。
 かたん、と小さな音がした。振り返る。水色のパジャマを着た姉が立っていた。
 不安と安堵を混ぜたような目で、私のことを見つめている。頬には涙の流れたあとがあって、目は強くこすったのか赤く腫れていた。
 そして、ビニール傘をその手に握りしめていた。

「……素敵な夢を見たの」

 開口一番、姉はそう言った。どんな夢、と私は返す。
 口元に手をあてて、姉がゆっくりと目を閉じる。

「あなたが、ここから消えちゃう夢」

 涙が二粒、フローリングの上に落ちた。
 朝の爽やかな風を受けたカーテンが、ばさりと音を立てて翻る。その拍子に差し込んだ朝日が、姉の裸足を照らした。めまいがするほどに美しい、陶器にせもののような白い肌。

「あなたが、ようやく、空の上に行ける夢よ」

 涙の隙間から、姉が言う。私は姉を、姉の持っているビニール傘を見る。
 私が消えてしまう夢。透明のビニール傘。
 ようやく空へと行ける夢。遠くからでもわかりやすい、迷子になった時の目印。
 ――ダブルバインド。

「……いい夢だね」

 そう言って微笑んでやれば、姉はかすかに、けれども確かに、頷いた。

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